1.四旬節の意味
今日から教会のカレンダーでは四旬節の礼拝に入ります。週報にも説明がありますように「四旬節」と言う言葉は40日と言う意味を持っており、復活祭前の日曜日を除く40日間の間がその勘定に入れられているようです。その四旬節の最初の日曜日の聖書箇所ではイエスの生涯でも有名な「荒れ野の誘惑(試練)」が登場します。この荒れ野の誘惑の出来事は聖書を読むと四十日間(13節)となっていますから、詳しくは調べてみないとわからないのですがこの四旬節の40日間の根拠はこんなところから出てきているのかもしれません。
ただ今日の聖書の箇所はこの荒れ野の誘惑の40日間だけで終わっているのではありません。続けてイエスのガリラヤでの宣教の開始が語られています。これはイエスの宣教された福音と荒れ野の誘惑が密接な関係にあることを示唆しています。また、この四旬節を守る私たちにもその意義を明確に教えるものとも考えられるのです。
荒れ野は人間にとって、より頼むべきものがすべてなくなってしまう厳しい場所です。しかし、その場所に立って私たちは始めて自分に本当に必要なものが何かを意識することができるとも言えるのではないでしょうか。キリストの福音が私たちにとって必要不可欠なものであること、それを私たちに教えるのがこの荒れ野の40日の期間なのではいでしょうか。ですから私たちは、この四旬節の期間の間に私たちにとってキリストの福音とは何かを捉え直すことが求められています。そして既にその福音に私たちが豊かに預かっていることをもう一度、驚きと感謝を持って確認するときがこの四旬節のときと言えるのです。
2.荒れ野の試みが教えるもの
(1)聖霊が導く
説教者にとって、あるいは皆さんもそうかもしれません。荒れ野の誘惑の記事はマタイやルカの福音書の記述を通してよく知らされていますし、またそこから私たちが学ぶべき点も多いのです(マタイ4章1〜11節、ルカ4章1〜13節)。二つの福音書はいずれもこのイエスの受けられた荒れ野の誘惑の内容について詳しく記しているからです。ところがこのマルコの福音書は私たちが知っている荒れ野の誘惑の内容については一切触れていません。むしろ、マルコはイエスが荒れ野で40日間、サタンから誘惑を受けたと言う事実だけを告げるだけで事足りるとばかりに、この出来事の事実をきわめて簡潔に紹介しているのです。つまり、マルコは私たちに、イエスが荒れ野どのような誘惑を受けたかではなく、その誘惑を受けられたことが自体が重要であると教えていると考えることができるのです。そこで今日はそのマルコの意図にそって私たちはこの出来事を見ていこうと思うのです。
まず第一にマルコはイエスを荒れ野に送り出したのは、"霊"であったと教えます。この"霊"はこの直前のイエスのヨルダン川での洗礼の際にも登場しています(10節)。つまり、この"霊"は単なる霊ではなく神様の霊、聖霊を意味しているものなのです。ですから新改訳聖書などはこの部分を「御霊」と読者が混乱しないように訳しています。このようにイエスを荒れ野に導いたのは聖霊の働きであったとマルコは語ります。そしてこのこの言葉はイエスの荒れ野の誘惑が神様の主導権の元に行われたことを私たちに教えているのです。
(2)試練と聖霊の働きの関係
私たちは荒れ野の誘惑のような激しい試練に出会うとき、まるで神様が自分から離れてどこかに行ってしまったかのように思うことがあります。しかし、聖書記者が教えるのはそのときにも神様は私たちと共におられと言うことです。そしていつも神様はその出来事の主導権を持っておられるのです。
このときイエスがサタンの誘惑を受けられたのは、イエスの救い主としてのみ業がこの地上に実現するためでした。サタンはイエスを通して実現する、神様の救いの計画を妨害するために働いたのです。私たちがサタンの虜のままであるなら、サタンは安心して私たちにそれ以上は何もしないでしょう。しかし、私たちがひとたびイエス・キリストによって救いを受け、神の子となろうとするときには必ず妨害活動を行うのです。この荒れ野の試練は、イエスが真の救い主であることを私たちに教えるものと言えます。また、私たちが受ける試練は、私たちがイエス・キリストによって救いを受けている証拠とも言えるのです。
以前、電話で「自分は神様から見放されているのではないか」と悩んでいる信徒の方の相談を受けたことがあります。その方は毎日の生活の中で自分を聖霊が導いてくださっていると言う「感覚」を感じることができないと言うのです。いろいろとお話しましたが、結論的に言えば聖霊の導きがなければ、人は自分と神様との関係について真剣に悩むことはないわけで、「あなたがそのことで悩んでいること自身、聖霊が働いてくださっている証拠ではないか」と話したことを思い出します。つまり、聖霊の働きがなければ人は試練に気づくことなく、悩むことも、苦しむことがないのです。むしろ、何の疑問も持たないまま滅びへの道を進まなければなりません。ですから、試練は聖霊の働きを受けた信仰者にしか起こりえない出来事であるとも言えるのです。
(3)野獣が一緒にいた
マルコによる福音書の記述で特に興味深いのは「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」(13節)と言うところです。この天使の存在はマタイの福音書にも登場しますが(11節)、野獣の存在はこのマルコによる福音書にしか触れられていません。この野獣についての解釈は大きく二つの説が存在しています。一つはイザヤ書11章に登場する終末の姿の象徴としての解釈です。神の救いが完全に実現する終末のとき、人に害を与える野獣が人と平和に暮らす光景がそこに登場しています。つまり、マルコはその終末を先取りする光景がここに現れたと言っていると解釈するのです。
また、もう一つの解釈は詩編91編などに登場するように、野獣はやはり私たちに危害を加える存在ですが、神の守りがその野獣たちの害から遠ざけると言う意味です。こちらの解釈にたつとイエスは40日間、精神的にも肉体的にも危機的状態に置かれていたが、神様が彼を守ってくださったと言う意味になります。
マタイやルカの記述を見ると悪魔はイエスに神の助けを疑わせ、自分の力で今直面する危機に立ち向かったらどうかと誘惑します。しかし、私たちが遭遇する試練は私たちの力を試すために与えられるものではありません。むしろ試練は私たちが神に絶対的な信頼を置くようにと私たちを差し向けるものなのです。なぜなら、神の守りはそこに現実にあるからです。野獣の存在は試練の中でも神様の豊かな守りの存在が現実にあることを私たちに教えるものなのかもしれません。
3.始められた神の支配
(1)ヨハネの逮捕
さて、荒れ野の試練の後、イエスの宣教活動が本格的に始まります。聖書の解説者たちはマルコによる福音書の本論はこの1章14節から始まり、それ以前の箇所は序論部分であると解説しています。ただ、興味深いのはイエスの宣教活動が洗礼者ヨハネの逮捕によって始まったと言う記事です。洗礼者ヨハネはご存じのようにイエスの活動を準備した人物です。つまり、イエスの宣教活動と深い関わりのある人物であると言えます。このヨハネは当時の権力者であったヘロデと言う人物の律法違反の結婚関係を非難したため、ヘロデによって捕らえられ、やがて悲劇的な死を迎えることになりました(マルコ6章14〜29節)。
「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き」と語れていると、ヨハネと同じような悲劇を体験することがないように関係のない場所にイエスは逃げたと言うようにも読めます。しかし実は、イエスの行かれたガリラヤはこのヘロデが直接に統治していたところだったのです。つまり、イエスはわざわざ危険な場所に赴いて、宣教を開始されたと言うことができるのです。
人は自分の目的を遂行するために様々な条件が整う「好機」を待ち望みます。しかし、ヨハネの逮捕は決してイエスの宣教にとって好機であるとは考えられません。むしろ、今はそれにふさわしくないときであり、もうしばらく活動するときを待つことが必要と考えることができ状況です。しかし、イエスの活動はこのヨハネの逮捕を持って始まったというのです。
(2)神の国とは
イエスはそこで「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)と人々に宣べ伝えられました。そのメッセージの中で人々に「悔い改め」を求めるのは洗礼者ヨハネと同じものです。ただ、この悔い改めの根拠はヨハネとイエスの語るメッセージは大きく違っています。ヨハネは神の厳しい裁きが近づいているので、その裁きに備えて悔い改めるようにと人々に勧めました(マタイ3章7〜12節)。
しかし、イエスは「神の国が近づいた」ことを私たちが悔い改めて福音を信じる根拠としているのです。「神の国」は「神のご支配」と訳すことができる言葉です。私たち一人一人に神の聖霊が遣わされ、私たちの人生に神様の支配が確立するときが、その神の国の祝福の一つの特徴であると言えます。そしてこの聖霊が私たちに与えられるからこそ、私たちは悔い改めて福音を信じることができるのです。
それでは、この聖霊はどうして私たちのところに与えられるようになったのでしょうか。それはイエス・キリストの救い主としてのみ業が実現した結果です。ですから、聖書の言う神の国はイエスの十字架と復活のみ業の結果、実現されるものだとも言えるのです。そして、その神の国の現実の一つが私たち信仰者一人一人の人生に聖霊が与えられ、私たちがその聖霊の導きを受けて生きることができると言うところにあるのです。
当時の人々はこの「神の国」について大きな誤解を持っていました。彼らにとって「神の国」はより物質的なものと考えられ、自分たちの都合のよいように世界が変わっていくと言うのが人々が考えた「神の国」についてのイメージだったのです。そして神様から遣わされる救い主はそのために働くのだと考えた人々は、イエスの活動の本当の意味を理解することができずに、彼を十字架につけると言う悲劇へと向かっていきます。
イエスの神の国の実現とは、世界が私たちの都合のいいように変わることではありません。むしろ、神に敵対し、神に背を向けて生きていた私たちが、神の子として変えられ、聖霊の導きによって神の子として生きることができるようになることを意味するのです。ですから、私たちが今送っているイエス・キリストを信じ、彼を礼拝し、彼に従って歩む信仰生活こそ、私たちの上に既に神の国が実現していると言う証拠とも言えるのです。
(3)イエスを導いた聖霊
聖霊の働きもしばしば大きな誤解を受けることがあります。聖霊の働きは何か不思議で神秘的体験を言うと考える人々がいます。しかし聖霊は私たちにいつも救い主イエス・キリストを指し示す働きをされるのです。そしてキリストなしには私たちには希望がないことを教えるのがこの聖霊の役目とも言えるのです。
そしてもう一つ今日の箇所から教えられるものは聖霊はイエス・キリストを導いた霊であると言うことです。福音書を読むときにイエスが救い主として歩まれた道はきわめて厳しいものであったことを私たちは学びます。しかし、そのイエスが救い主として地上の生涯を全うするために聖霊はいつもイエスを導いたのです。そしてそのイエスは、今、ご自分を導かれた聖霊を私たちにも分け与えてくださるのです。
私たちの信仰生活にも厳しい試練がやってきます。また様々な逆境に取り囲まれるときがあります。自分たちに都合がよくなるような「好機」を待ったとしても、それはなかなか訪れないかもしれません。しかし、私たちはそれを待つ必要はないのです。なぜなら、私たちの信仰生活をいつも聖霊が導いてくださっているからです。この聖霊は私たちがどのような状況の中でも神の子として生きることができるようにしてくださる方なのです。
サタンの誘惑が待つ、厳しい試練の荒れ野にイエスを聖霊は導き入れたとマルコは教えます。この言葉は私たちにとってとても不思議な内容に聞こえます。しかし、マルコはこの福音書を読む信仰者が、試練の荒れ野に立たされているときに、そこに聖霊の導きがあることを教え、イエスを勝利へと導いた聖霊が必ず私たちをも導いてくださることを教えようとしたのです。
【祈祷】
天の父なる神様
主イエスの十字架と復活の出来事を思い起こし、私たちの信仰を新たにする四旬節の季節を迎えました。どうか私たちに聖霊を遣わし、私たちを導いてください。イエスが救い主としての使命を全うすることができように、私たちもまたイエスの分け与えてくださる聖霊の力によって信仰者としての使命を全うすることができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
このページのトップに戻る
|