〔そのとき、イエスはニコデモに言われた。〕 14「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
1.ファリサイ派の議員ニコデモ (1)有力者ニコデモ 私達は今、イエスの死と復活の意味をこの四旬節の礼拝の中で学び続けています。今日はその意味をヨハネによる福音書3章の語る物語から学びます。有名な箇所ですので、皆さんもこのお話はよく知っておられると思います。この箇所は夜イエスのもとを訪れたファリサイ派に属する、ユダヤ人の議員ニコデモ(1節)にイエスが語られた言葉が記録されています。ただ、ギリシャ語聖書には私達の読んでいる日本語聖書のようにどこからどこまでがイエスの語られた発言とはっきりと分かるように区別するかぎ括弧がありません。日本語聖書ですと10節から21 節までがかぎ括弧で囲まれていますからすべてがイエスの発言のように読み取れます。しかし、この文章の16節以下とその前の部分はどうも文章の調子が違っています。そうなると、15節までがイエスの発言であり、16節以下は福音記者ヨハネがイエスのこの発言を解説するために付した部分であるとも考えることができるのです。 この物語に登場するニコデモに関して私達が分かることは、彼がファリサイ派に属していたと言うこと、そしてユダヤ人の議員であったこと、さらに彼はたぶん年をとっていた(4節)と言うことなどです。ちなみに、このニコデモはヨハネによる福音書の中だけに登場する人物で、この後、7章50〜51節、そして19章39節と合計三度この福音書の中に登場します。これらの聖書の箇所を読むと、ニコデモはこの後イエスの理解者の一人となっていたことが分かります。 彼が属していたファリサイ派は当時のユダヤの宗教界を二分した一方のグループで、旧約聖書に記されているモーセの律法を忠実に守ることを熱心に教え、また自分たちもその律法を厳格に守っていた人々でした。ユダヤ人の議員と言うのは当時の宗教議会の議員であったことを表しています。この議員になるためには相当の地位と名声がなければなりません。ですから、彼がその議員であったと言うことはニコデモがかなりの有力者であったことを物語っています。 (2)何もできない ところで、このニコデモとイエスの会話は読んで分かりますように、うまくかみ合っていません。その理由は、ニコデモはモーセの律法を厳格に守ることを主張するファリサイ派に属する人物であるにふさわしく、ここでも自分が神の国に入るには何をしたらよいのかと考えているところにあります。言葉を換えればニコデモは自分が何かをすることが神の国に入るための条件を獲得することになると考えていたと言うことです。ところが、イエスがこのニコデモに提示した答えは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)と言うものでした。 私達は誰も自分の意志によってこの世に生まれて来た訳ではありません。つまり「生まれる」と言う行為には自分の意志と言うものは関与できないのです。ですからニコデモは「そんなことは自分にはできない」と考えて、ますます悩み始めています。 しかし、このイエスの言葉の本当の意味は人が神に国に入ること、救いを受けることにおいて、そこには人間の力や努力はまったく介入できないと言う意味を教えているのです。ここのところ新共同訳では「新しく生まれる」と訳していますが、この言葉の本来の意味は「上から生まれる」(岩波訳など)と言うもので、神様から、あるいは神様によって生まれなければと言う言葉となります。人間は神の国に入る条件を自分で満たすことはできません。それを可能としてくださるのは神様の業だけなのです。そして今日の聖書の箇所の冒頭に出る、「モーセが荒れ野で蛇を上げた」と言う出来事も私達に同じことを教えているのです。 2.神による救い この言葉が指し示す物語は旧約聖書の民数記21章の4節から9節に記されています。荒れ野の旅を続けるイスラエルの民はここで「神とモーセに逆らった」ことから、大きな災いを被ることとなります。それは「炎のへび」と言われる強力な毒を持った毒蛇の出現です。ここでこの蛇に噛まれてたくさんの死者が出ると言う災害が起こります。そしてイスラエルの民がこの災害から逃れるために神様から提示された方法が青銅で作った蛇を旗竿にかかげると言うものでした。そしてたとえ毒蛇に噛まれた人でもその蛇を仰いだ者は命が救われると言う奇跡が起こったのです。 毒蛇の災いから逃れるために人間ができることは何もありません。いえ、毒蛇に噛まれた者は何かを考えている余裕は全くないのです。なぜなら、毒蛇の毒がたちどころに全身に回り、人は息絶えてしまうからです。ですからその毒蛇から助かりたい人間は自分の方法ではなく、神様が提示した方法に全面的に頼らなければならなかったのです。 そしてイエスは、このモーセの蛇の出来事が指し示す本当の意味をここで明らかにされています。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(14〜15節)。 ここで「人の子」と呼ばれているのはイエスご自身のことです。そして「人の子も上げられる」とはイエスが十字架にかけられることを意味しているのです。荒れ野で蛇を見上げた者だけが命を得たように、イエスを信じる者だけが死から命に移され、永遠の命を受けることができると語っているのです。私達が永遠の命にあずかるためには、私達自身が考えた方法ではなく、この神様が示してくださる方法に全面的に頼らなければならないのです。 3.世を愛した神 それではどうして神様はこのような方法をもって私達を命へと救い出そうとされるのでしょうか。その神様の動機が明確に語られているのが16節の言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 神様がひとり子であるイエスを与えられた理由、そのイエスを十字架にかけるためにこの地上に遣わしてくださった訳は「神様が世を愛されたから」であると説明されています。神様の動機はそれ以外にありません。私達に対するあふれるばかりの愛が、イエス・キリストを私達に与えられると言う御業に現れているのです。 ところでヨハネの福音書はこの神様のあふれるばかりの愛の対象とされている「世」について冒頭で次のように説明しています。 「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」(10節)。 ここで言われる「言」とはイエス・キリストのことです。世はこのイエス・キリストによって存在しているとヨハネの福音書は冒頭で語ります。しかし、世はその自分の存在の根拠であるイエス・キリストを認めなかったと言うのです。「世」はそのイエスを拒否したと言っているのです。 これを読んで分かるように「世」は神様にとっても、またイエス・キリストにとってももともと都合のいい存在ではありません。神様を無視して、自分の力で立とうとするのが「世」の本来の姿です。しかし、神様はその「世」を愛したと言うのです。本来なら憎むべき存在、滅びに価する存在であった「世」を愛されたのです。そしてその愛の印がイエス・キリストを与えられたことにあると言っているのです。 人間は自分に都合のいい人物、自分が利用できる人物をかわいがり、愛する者です。つまり、自分が愛されたいのなら、相手の気に入るように行動することが大切なります。ファリサイ派の人々は神様から愛されるために、神様のお気に入りになろうと努力しました。しかし、神様がイエスを遣わされた意味はこれとは全く違うと言うのです。神様は神様を無視しようとした世を愛されたのです。 「世」と言う言葉は抽象的であまりピントこないと言う方もおられるでしょう。しかし、ここで言われる「世」とは私達一人一人の存在そのものを言っているのです。神様を拒否し、神様に裁かれてよいはずの私達を神様は愛してくださっているのです。だから私達にイエス・キリストを遣わし、そのイエス・キリストを信じる信仰を私達に与えて、永遠の命の祝福を私達のものとしてくださったのです。 4.実現した裁き (1)終末を待つことはない このヨハネによる福音書の一つの特徴は他の福音書やパウロの手紙に現れるような終末の出来事をあまり語らないと言うところにあります。終末論は私達にとって大切な教えです。なぜなら神がやがて必ず正しい裁きを行ってくださると言う終末の事実は、神様に従おうとする信仰者への深い慰めを与えるからです。しかし、このヨハネではその裁きは遠い将来のことではなく今ここで、すでに実現していると語られているのです。 「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」(18〜19節)。 ヨハネは終わりの日を待つことなく、その人が今御子を信じないこと自体がその人が裁きを受けている証拠だと語るのです。 このヨハネによる福音書の11章にはイエスの語るこんな言葉が記されています。このときラザロと言う兄弟を亡くしたばかりのマルタと言う女性は悲しみの中でイエスから「あなたの兄弟は復活する」と言う慰めの言葉を受けています。そのとき、マルタはとっさに「終わりの日の復活の時に復活するのは存じています」と答えます。ところがイエスはこのマルタの答えを否定して次のように語ったのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25〜26節)。 神様の祝福は終わりの日を待つことなく、信じる者に今与えられると言うのがこのヨハネの福音書の主張の大きな特徴です。そして、その反対に神様の裁きもまた今すでに御子を信じないと言うことを通して実現していると説明しているのです。 (2)神の業によって 「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(20〜21節)。 ここで語られている光とはイエス・キリストのことを言っています。福音書は神の救いを受けている者はこの光の方に必ずやって来ると言うのです。言葉を換えて言えば、私達の唯一の希望をこのイエス・キリストの上に置いて生きると言うことです。ニコデモが勘違いしたように、自分の何らかの業に希望を置こうとすると言うのではなく、十字架にかけられて、三日目に復活されたイエス・キリストだけに私達の救いの根拠を置いて生きると言うことです。 ここでおもしろいのは「その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」と言う言葉です。この言葉をギリシャ語に忠実に訳そうとすると「自分の業が神のうちに〔あって〕なされてきたことがあらわれるため、光のところに来る」(岩波訳)となります。 自分の業が「神のうちにあってなされたこと」と言っています。つまり、それは自分がやって来たことだけれども、本当は神の内から出たもの、つまり神様の業自体であると語っているのです。 私達が神様を信じると言うことは神様から出た業、神様の御業そのものなのです。そして私達が神様を信じて、今、この礼拝に集っていることはまさに神様の御業によるものなのです。私達の信仰がもし、私自身から出た業なら、どんなに不確かなものになってしまうでしょうか。私達はそれが本当に確かなものであるかどうか分かるために最期の審判のときまで、不安になりながら待たなければなりません。 しかし、ヨハネはそんな心配は必要はないと私達に教えているのです。なぜなら私達がイエスを信じることができるのは神様の業によるからです。だから私達は最期の審判を待つことなく、今、神様の確かな救いに入れられていること確信することができるのです。このようにヨハネの福音書は私達が間違いなく今、永遠の命の祝福にあずかっていることを確信することができることを教えているのです。 【祈祷】 天の父なる神様。 この世もまた自分自身もすべてのものは私たちに確かなものを提供することはできません。ただ、あなただけが確かな救いを私たちに提供することができるお方です。そのあなたが私たちのために御子イエスをお送りくださり、その御子を信じる信仰を持って私たちを命へと導き出してくださったみ業を心から褒め称えます。どうか私たちをますます光りなるイエスに信頼を置き、従う者としてください。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン このページのトップに戻る