Message 2007 Message2006 Message2005 Message2004 Message2003
礼拝説教 桜井良一牧師
「本当に、この人は神の子だった」

(2009.04.05)

聖書箇所:マルコによる福音書15章1〜39節

33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。
41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。

1.ピラトの裁判を受けるイエス

 今朝は主イエス・キリストが十字架の死とその受難の出来事を思い起こす受難週の礼拝を迎えました。私たちはこれまでこの四旬節の礼拝でキリストの死と復活が私たち自身とどのように関わるのかについて聖書のみ言葉を通して考察を深めてきました。今日もまた、キリストの十字架の出来事を通して私たちに示された神様の無限の愛と慈しみに私たちの信仰の目を向けて行きたいと思います。

 今日のテキストに取り上げたれているマルコによる福音書第15章の記事は、イエスが最高法院の人々の手によって、当時のローマ帝国のユダヤ総督であったポンテオ・ピラトの裁きに引き渡される場面から始まっています。
 当時のユダヤの最高議会であった「サンヘドリン」と呼ばれた最高法院はイエスに神を冒涜した罪によって死刑判決を下しています(14章53〜65節)。しかし、ここで問題になってくるのは当時のユダヤの最高法院には人を実際に死刑にする権限がなかったと言うことです。そこで、彼らはイエスを死刑にするために改めてローマの法廷で裁きを受けさせ、そこでも死刑判決を引き出させる必要がありました。そしてそこで問題になるのはイエスがどのような理由で死刑に値する罪を犯したのかと言うことです。なぜなら、ローマの法廷はユダヤの宗教や教義に一切の関心はありませんし、それに関する法律の条文もなかったからです。つまりユダヤ人たちが判断した「神に対する冒涜の罪」はローマの法律では裁けない領域の出来事だったのです。そこで新たにユダヤ人たちが考え出したイエスに対する罪状は「ユダヤ人の王」と言うものでした。
 イエスがお生まれになったときにこのユダヤには「ヘロデ」と言う王様が存在していました。しかしこのヘロデの死後、ヘロデの王位はアケラオと言う彼の息子に継承されました。しかし、このアケラオのとった失政によって、ローマ帝国は彼から王位を剥奪し、この地をローマ帝国の直轄領にしてしまったのです。つまりこの当時、ユダヤの地を治める王はローマ皇帝であり、そのローマ皇帝から派遣された総督がその権限のすべてを代行していたのです。もし、イエスが自分を「ユダヤ人の王」と称したとしたら、彼はローマ皇帝とその代行者である総督に反旗を翻す、反乱分子となります。そして、ローマの法律はそのような反乱分子の罪が死刑に当ると判断していたのです。このような理由からイエスは「ローマ皇帝に反旗を翻す反乱分子」としてユダヤの最高法院から訴えられ、ピラトの裁きを受けることになったのです。

2.ピラトと民衆の関心
(1)イエスの沈黙

 このような理由からピラトはイエスが自分を「ユダヤ人の王」と主張したのかどうかを問題にして、その裁きを開始します。ところがイエスはピラトの発した「お前がユダヤ人の王なのか」と言う質問に対して「それは、あなたが言っていることです」と答えるだけで、その後、祭司長たちがイエスの罪を訴え続けても一切何も発言されなくなってしまいます。この後、イエスは民衆の前に立たされても、ローマ兵の侮辱を受けても、十字架上で叫ばれるまで口を閉ざして何も発言されていません。
 福音記者はこのイエスの沈黙こそ、イザヤ書に預言された言葉の成就だと考えているのです。イザヤは民の罪を代わって自分の身に負う「主の僕」の姿を預言し、次のように語っています。

「わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」(53章6〜7節)。

 このイザヤの言葉の通りイエスは私たちの罪を贖うために神殿で献げられた小羊のように口を閉ざし、沈黙を守りながら十字架の死へと歩まれたのです。

(2)ピラトの関心

 ところでこの物語の中、唯一聖書以外の記録にその名前が残っているのは、この時イエスを裁く側に立たされた総督ピラトです。その記録によればピラトはあまり優秀な政治家ではなかったようです。なぜならば優秀な政治家なら支配者として、その地域の住民の人心を掌握する能力を身につけていなければなりません。ところが、ピラトは自分の担当地域のユダヤの宗教や文化に対する無理解の故に、返ってユダヤ人の反感を買うことが多かったと言うのです。たとえばピラトは通常、現在のテルアビブの町に位置する地中海沿岸の町カイサリアに住居を構えていたと考えられています。彼はユダヤ人の祭りの際にはローマの軍隊を引き連れてエルサレムにやって来たのです。そしてあるときピラトはユダヤ人の精神的な支柱であるエルサレム神殿の上にローマの旗を立てて民衆の大きな反感を買ったというのです。
 おそらく、イエスが逮捕されたときもピラトは同じようにローマの軍隊をたくさん引き連れてこのエルサレムの町にやって来ていたはずです。なぜなら、ローマの支配に不満を持っているユダヤ人たちの独立心が高揚するこの過ぎ越しの祭りでこそ、ローマの力を誇示し、ユダヤ人の心を挫く必要があったからです。つまり、ピラトにとって王様は軍隊の巨大な力を背景にしてこそ、その権力を維持できる人物と考えられたのです。
 ところが、今、「ユダヤ人の王」と言う罪状で訴えられ、ピラトの前に立たされているイエスはどうでしょうか。彼に従う兵士は一人も存在しません。それどころか、彼に常に付き従っていた弟子たちでさえ、このときは誰も彼を見捨てて、逃げ去ってしまっていたのです。そしてイエスはただ一人でこの裁きの座に立たされていました。おそらくピラトの目には、イエスはローマ帝国にも、自分にも何の害も加えることができないただの無力な人間として写っていたはずです。ピラトにとって世界を支配し、その世界を変える力は、巨大な軍事力でしかなかったのです。しかし、彼のこのような信念に対して、世界の歴史は全く違った見解を主張するでしょう。なぜならローマ帝国の支配は一時的で、世界のすべてを変える力を持ち合わせてはいなかったからです。そして、彼の前に立つイエスはそうではなかったのです。

(3)民衆の関心

 ピラトは自分に降りかかったこの問題の原因を見抜いていました。「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである」(10節)。彼は自分が祭司長たちに利用されていると言うことを知っていました。そこでこんどはピラトが逆襲を考えます。そしてイエスの裁きの最終的な判断をこのユダヤ人たちに着けさせようとしたのです。
「ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた」(6節)。この過ぎ越しの祭りの際に行われることが慣例となっていた特赦の手続きを利用して、ピラトは民衆に「赦してほしいのはこのイエスか、それともバラバと言う男か選び出せ」と迫ったのです。結局、このピラトの策力によって祭司長たちは民衆を扇動して、バラバの釈放を要求させ、イエスを死刑にするように動くこととなります。
 ここで登場するバラバは、「暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中」の一人と紹介されています。つまり、ローマの支配に反抗して立ち上がった闘志こそがこのバラバと言う男で、ユダヤ独立のためには手段を選ばず、人の命を奪ってもその目的を達成しようと考えた人物だったのです。彼の名前は正式には「バル・アッパ」、その意味は「父の子」と言う意味を持っています。つまり、ここでイエスに代わって釈放されることになったバラバもまた、「父なる神の子」として、その神の権威を守るために武力をもって人を殺すことも厭わない人物だったのです。
 そしてイエスではなく、このバラバを選んだ祭司長を始めとする群衆は、総督ピラトとは対局の場にありながらも、最終的には武力をもってしか世界を変えることができないと言う同じ考えを抱いていたと言うことができます。

3.下された神の裁き
(1)無力な人間の死

 それではイエスの十字架周りに集まった人々がイエスに期待したことは何であったのでしょうか。そこを通りかかった人々はイエスをののしって語ります。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」(29〜30節)。また祭司長や律法学者たちも同じように語ります。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(31〜32節)。皆同様にイエスが自分の力でこの苦難から逃れることができるかどうかを皮肉混じりに期待し、語りかけるのです。
 このことはイエスの死を直前にまで繰り返されます。「三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした」(34〜36節)。彼らはこのように最後の瞬間まで神がイエスの祈りに答えられて、エリアを遣わして助けるような奇跡が起こることを期待したのです。彼らは一方ではそんなことは起こるはずがあるまいと考えながらも、心の片隅にわずかな期待を持ってそのときを待ったのです。
 彼らにとってイエスの十字架の死は神から見放された者が神とは無関係に受けなければならなかったものだったのです。

(2)十字架は神のみ業

 しかし、福音書はこのイエスの十字架こそ確かに神の恵みの御業であったことを私たちに教えています。まず、「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」(33節)と語られています。この場合、皆既日食によって太陽が完全に隠されるという自然現象が考えられますが、日食が三時間も続くということは普通は考えられませんし、そのような出来事は当時の記録を探してみても見つかりません。しかし、この出来事を通して私たちが忘れてはならないのは旧約聖書に登場する預言者アモスの語った次のような預言です。「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする」(8章9節)。ここでアモスが語る「その日が来る」とは、神の厳しい裁きがこの地上に実現する日、終末の出来事を指し示しています。そして「わたしは真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする」と語られる出来事は、この神様の裁きが実現したことを告げ知らせる象徴的な印なのです。つまり、福音書記者は太陽が隠れ、全地が暗くなった出来事を伝えることで、この神の厳しい裁きが確かに実現したことを教えているのです。
 本来、罪を犯して厳しい裁きを受けなければならなかった私たちのために、イエス・キリストは十字架上でその裁きを受けてくださったのです。つまりこの十字架の出来事こそ、神の御業そのものだと言えるのです。そしてその結果、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(38節)と聖書は記しています。当時、エルサレム神殿の中心部である至聖所は幕で閉ざされ、その奥には祭司以外は決して入ることができませんでした。この幕は、私たちと神との間を隔てていた罪の問題を象徴するものです。イエスの十字架によってこの罪の問題が取り払われました。そして私たちと神様が共に生きることができるようになったのです。

(3)世界を変える十字架の力

 マルコはこの十字架の物語を異邦人であったローマの一人の兵士の言葉で結んでいます。「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った」(39節)。どうして百人隊長がこのような発言をしたのか、マルコはその事情を詳しくは語りません。いずれにしても、マルコはユダヤ人ではない一人の異邦人が十字架に付けられたイエスを見て「本当に、この人は神の子だった」と言う発言したと記録するのです。
 ピラトも祭司長も群衆も、十字架に架けられたイエスを「神の子」、あるいは「王」と認めることはできませんでした。彼らはイエスにはそれに値する力は何もないと判断したからです。その力が無ければ、イエスは何もすることができないと考えたのです。しかし、福音書記者はこの十字架に架けられた方こそ「神の子」であり、この方をとして神の御業が実現したと証言しているのです。
 この世の力は結局のところ何も変えることはできません。しかし、イエスの十字架はそうではありません。この十字架こそ私たちの罪を取り除き、私たちに命を与える神の力が表われる場所なのです。確かにこの世の革命家は世界を変える情熱を持っていますが、結局自分の心さえ変えることができないことを知らされます。しかし、イエスは違います。イエスは私たちに聖霊を遣わして私たち自身を変えることがおできになる方なのです。何よりも彼は人間が手を出すことができない死の現実を、御自身が十字架に架かり死なれることで討ち滅ぼしてくださいました。ですからキリストの十字架こそ私たちのすべてを変える神の力が現される場所なのです。私たちは今朝そのことを確認し、神に感謝を捧げたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様。
 今年も主の受難を記念する礼拝を捧げることができて感謝します。口を閉ざし、黙って十字架の裁きの座につかれたイエスを通して、私たちは罪から救われ、命を得ることができます。このイエスの贖いの奇跡を私たちの心に刻み、私たちがイエスの限りない愛に感謝を捧げて生きることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
このページのトップに戻る