1.私たちの礼拝の起源
(1)教会の中心的な教え
復活祭、イースターの礼拝を迎えました。共に主イエス・キリストが復活されたことの喜びをこの礼拝で分かち合いたいと思います。さて、「キリスト教の教えは好きだし、聖書も案外いいことを言っているように思えるけれども、復活と言う教えは受け入れがたい」と考える人が世間には多く存在します。中には、教会が「キリストの復活」と言う教えをその看板から外せば、自分も教会員になるために洗礼を受けてもいいと言う方もおらえるかもしれません。しかし、もし私たちが伝道のためにこの「キリストの復活」の教理をどこかに棚上げしたり、取り去ってしまったなら、キリスト教会は教会でなくなってしまうでしょう。それほどにキリストの復活と言う出来事は教会の存在と切り離すことができない、キリスト教の中心的な教えと言うことができるのです。初代教会の時代にキリストの教えをたくさんの人に伝道したパウロと言う人物は、その手紙の中で次のように語っています。
「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(コリントの信徒への手紙一 15章14節)。
キリスト教からキリストの復活を取り去ってしまったら、それはもう全く意味をなさず、その教えを伝えることも、そして信じることさえ無駄なものになってしまうとパウロはここで強調しているのです。実はキリスト教会と称する集まりの中にも、このキリストの復活を否定したり、科学的知識と矛盾しないような解釈を作り出して教えているところがあります。しかし、パウロの言葉によってもわかるように、それはもはやキリスト教ではありませんし、おそらくそこで信じられている信仰は私たちが聖書によって抱いている信仰とは全く違ったものになってしまっていると考えることができるのです。
(2)礼拝の根拠
キリストの復活が私たちキリスト教会にとってどれだけ大切なものであるのか、それを私たちに示す確かな証拠は、私たちが毎日曜日、教会に集まって神様に礼拝を捧げるその生活によく現されています。
一週間のうちで一日だけを神様を礼拝する特別な日に当てることは、旧約聖書に記された神様の戒めに根拠を持っています。大変に有名な「十戒」と呼ばれる神様の戒めの一部にこのような命令が記されています。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト記20章8〜10節)。
実はこの安息日と呼ばれている日は一週間の最後の日である土曜日です。ですから、旧約聖書の伝統に従ってユダヤ人たちは今でもこの土曜日を安息日、神様を礼拝する日として守り続けているのです。ところが、私たちキリスト教会はこの土曜日ではなく、毎週日曜日に礼拝を守っています。それはどうしてなのでしょうか。
今日の聖書箇所の冒頭にこんな言葉が記されています。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」(1節)。
イエスが十字架にかけられたのは金曜日のことで、ユダヤの暦では一日は日没、つまり夕方から始まります。そこで安息日である土曜日が始まる直前にイエスの遺体は墓に葬られました(19章42節)。この安息日があけて、次の朝、これが「週の初めの日」つまり日曜日の朝から20章のイエス・キリストの復活の物語は始まっています。このようにキリストが復活されたのは日曜日の朝の出来事でした。ですからキリスト教会が日曜日の朝を選んで礼拝を捧げるのはこの20章に記されたキリストが復活された「週の初めの日」に根拠を持っているのです。
実はキリスト教会の中にも一部の人々は「安息日」が土曜日であることは今でも変わっていないと主張して、土曜日に教会に集まって礼拝を捧げるグループがあります。しかし、私たちが日曜日に礼拝を捧げるのは安息日律法に従っているからではありません。旧約聖書の律法は私たちに「何々しないさい」とか「何々してはならない」と言う厳しい命令を与えます。しかし、この律法をイエス・キリストは私たちに代わって完全に実現してくださったのです。だから、私たちは既にこの安息日の律法からも解放されているのです。そのため私たちが神様に礼拝を捧げるのは「何々しなければならない」と言う命令に従って、いやいやそれをしているのではありません。キリストに救われた者として「神様を礼拝せずにはおれない」立場に私たちが立たされているからです。神様の愛と慈しみのみ業に感謝して、厳しい命令からではなく、自分の意志で集まるのがキリスト教会のこの礼拝なのです。そして、この私たちを喜びに満たし、神様を礼拝せずにはおれなくさせているものこそキリストの復活と言う出来事であると言ってよいのです。
もし、キリストが復活されていなければ、私たちキリスト教会は喜んでこの礼拝を捧げることができなくなってしまうほど、この出来事は私たちの信仰生活の中心となっているのです。
2.キリストの復活から得られる利益
(1)私たちを義としてくれる
それではキリストの復活はどうして、私たちを喜びと感謝に満たし、神様を礼拝せずにはおれない者と変えてくれるのでしょうか。私たちの教会に古くから伝わる「ハイデルベルク信仰問答」と言う書物はそのことについて問45で三つに分けて説明しています。第一はキリストの復活によって私たちが義を獲得することができたこと、第二は新しい命に生き返らせられたこと、第三は私たちのよみがえりの確かな保証となったことだと信仰問答は教えているのです。
先ほど安息日の律法について少し触れました、旧約聖書にはこれ以外にもたくさんの律法が記されています。そして私たちがそのすべての律法を完全に守り得たとき、私たちは神様の前に義と認められと聖書は教えるのです。このように律法は私たちがどうしたら神様に義とされるかを教えているのです。しかし、私たちは残念ながらこの律法を守ることができません。なぜなら私たちの努力が足りないからではなく、それを守る能力が私たちにはないからです。そこで、イエス・キリストは私たちに代わってこの律法を完全に守ってくださり、私たちのために義を獲得されたのです。そして、キリストはご自分が獲得された義を私たちに分け与えるために復活してくださったと聖書は私たちに教えるのです。ですからパウロはローマの信徒への手紙の中でこのように語っています。
「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」(4章25節)。
(2)新しい命に生まれさせ、甦りの保証を与える
さて、私たちはどうして神様の律法を守る能力を持っていないのでしょうか。それは私たち人類の代表者であるアダムとエバが神様の約束を守らずに、罪を犯してしまったからです。それ以来、私たちに人類は本来私たちが持っていた神様に喜んで従うことができるすばらしい能力を失ってしまい、罪の虜として生きなければならなくなってしまったのです。キリストの復活は罪の虜として生きるしかなかった私たちを、新たな命に甦らせる祝福を私たちにあたえるのです。ですからキリストを信じる私たちは自由な神の子として神に結びつけられ、神様を喜び、礼拝することができるようにされます。パウロはこのことについて次のように語ります。
「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(エフェソ2章4〜6節)。
私たちはかつて霊的に死んでいた状態でしたが、キリストの復活によって真の命を生きる者とされたのです。
そして、この真の命に生きる者はたとえ地上の生涯を一時的に閉じることがあっても、やがて神様の救いが完全に実現する日に再び肉体と魂を持って甦ることができると言う希望が与えられています。そしてこの約束を私たちが信じるために神様は私たちの甦りの保証を与えてくださいました。それがイエス・キリストの復活と言う出来事です。ですから、私たちはキリストの復活を信じることによって、私たちもまたやがてキリストと同じように復活することができることを確信することができるのです。パウロは先ほど引用した、コリントの信徒への手紙一でキリストの復活を否定するなら私たちの信仰はむなしいものになると語りながら、キリストの復活は確かな事実だと語ります。そしてこう言うのです。
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(15章20節)。
春になるといろいろなとこに植物の芽が生えます。最初は「こんなところに芽が出てきた」と思っていても、数日たつとたくさんの場所に同じ芽が出ていることに気づかされることがあります。キリストの復活は、私たちも同じように甦ることを私たちに知らせる保証なのです。
そして、私たちはこのキリストの復活によって実現した私たちの救いを確信し、それを私たちに与えてくださった神様を喜んで礼拝し、感謝を捧げて生きる者とされるのです。
3.証明することではなく、信じること
(1)復活は信仰の対象
このように考えるとキリストの復活こそが私たちの信仰生活を支える出来事であることがわかります。そして聖書はこのキリストの復活を確かな事実として私たちに記しています。その点では、私たちの疑問をとくための証明や論証を一切行うことはありません。これはキリストの復活を私たちがどのように捉えるべきかを教えているものであるとも言えます。なぜなら、聖書はキリストの復活を私たちの信仰の対象としているからです。もし、その事実が何らかの科学的証明をもって証明されるなら、それは信仰の対象とはなりえません。それでは信仰の対象とはどのような意味があるのでしょうか、信仰の真理は私たちの人生と不可分の関係を持って理解されなければならないと言うことです。科学的な対象はそうではありません。たとえ私がそのに一緒にいなくても、その知識は確かなものと証明されることができるからです。しかし信仰は違うのです。
私たちがキリストの復活を信じることができるのは、この朝甦った主イエスが今も生きておられ、天から聖霊を遣わして私たちの心に送ってくださり、その事実を教えてくださるからです。受け入れさせてくださるからです。この神の働きかけがなければ、私たちは誰一人キリストの復活を信じることはできないのです。
(2)心の目が開かれる
最初に読んだ福音書の文章では大変興味深い言葉が記されています。実はこの箇所に四回、「見る」と言う言葉が登場しています。最初は、マリアたちがイエスが葬られた墓から石がとりのけられているのを「見た」(1節)と言います。次にペトロではないもう一人の弟子が墓について中を「のぞく」とあります(5節)、これも実際には「見る」と言う言葉が使われていて彼はそこにイエスの遺体を包んでいたはずの亜麻布が置いてあるのを見ています。その次はペトロが墓に入り、イエスを包んでいた頭の覆いと亜麻布が同じ所におかれているのを「見て」いるところです。そして最後は、もう一人の弟子が同じように墓の中に入って「見て」、「信じた」(8節)と言うところです。
実はこの四つの「見る」のうち最初の二つは「プレポー」と言うギリシャ語で、私たちが肉体の目で普通に見ることを表す言葉が使われています。さらにペトロが墓の中で「見た」と言う言葉は「テオレオー」と言うものでこれはどちらかと言うと「注意深く観察する」と言った意味をもつ言葉です。そして最後の「見て、信じた」の場合の「見る」は「エイドン」と言う言葉で、「心の目で真理を洞察する」と言う意味の言葉が使われているのです。イエスはかつてご自分が世を去り、地上に残される弟子たちと別れなければならないときが近づくとこのように語られました。
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」(16章16節)。
日本語では同じ「見る」と言う言葉が繰り返されているようになってしますが、この言葉実際のギリシャ語では「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」の「見る」はテオレオーで、その後の「またしばらくすると、わたしを見るようになる」の「見る」は「エイドン」と言う言葉が使われているのです。つまり、弟子たちはイエスが復活される前とその後では全く違った形でイエスを見ることになると言うことを教えているのです。
確かに今、私たちは肉眼の目を持ってイエスのお姿を見ることはできません。しかし、イエスを信じる者はイエスによってその心の目が開かれて、復活されたイエスを見ることができるようになるのです。復活の朝、ペトロと共にイエスの墓に走っていったもう一人の弟子はヨハネであると考えられています。ですからこのヨハネがここに自らの体験を記したと考えられます。あの復活の朝、自分はそこにイエスの遺体がないことを「見た」(プレポー)が、やがて自分の心の目が開かれてイエスが確かに復活されたと言う事実を「見る」(エイドン)ことができたとヨハネは私たちに語るのです。このイエスは今も確かに生きておられ、天から聖霊を遣わして私たちの心を開いてくださるのです。このように私たちの信仰はこのイエスが復活されて今も生きておられるからこそ、成り立っていることをこのヨハネの福音書は私たちに教えているのです。
【祈祷】
天の父なる神様
日曜日の朝、死の暗闇に勝利されたキリストの復活を喜び祝う礼拝に集うことができたことを感謝いたします。今も生きて私たちと共にいてくださる主を私たちが信じることができるように、弟子たちの心の目を開いてくださったあなたが私たちの心の目を開いて、復活の確かさと、その復活から与えられる祝福を喜びをもって受け入れることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名に寄って祈ります。アーメン。
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