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礼拝説教 桜井良一牧師
「心の目が開かれて証人となる」

(2009.04.26)

聖書箇所:ルカによる福音書24章35〜48節

35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
48 あなたがたはこれらのことの証人となる。

1.主権者である神の御業
(1)主権者である神

 私達の日本キリスト改革派教会の創立者の一人であり、初代の神戸改革派神学校の校長でもあった岡田稔牧師は『改革派神学概論』と言う著書の冒頭で次のように言葉を記しています。「神がいっさいのことにおいて絶対の主権者にいますということこそ改革派原理である」。神学と言うと何か自分たちには縁遠い、面倒臭いものに聞こえるかもしれません。しかしここには私達の信仰生活にとってたいへんに重要なことが語られています。神様こそがいっさいのことにおいて絶対的な主権者であられるのです。実はこのことが忘れられてしまうと私達の信仰はまことに心許ない人間的な信念や確信の一つに変わってしまます。そしてそのような信仰には私達を救う力はないと言えるのです。
 この視点に基づいて私達の身近な信仰の課題を考えて見ましょう。そうすると、たとえば「私達が神様を信じる」と言う表現はこの原理に沿わない、好ましくないものであることがわかります。なぜならこの場合、行為の主語は「私達」になってしまって、「神様」は私達の行為の対象、つまり客体となってしまうからです。改革派原理に従えば、むしろ「神様が私達に信仰を与えてくださった」と言うように、信仰の主体は神ご自身であり、私達はその神様の御業の対象であるべきなのです。この違いは単なる表現上の問題ではありません。むしろ私達が神様の主権を認めるならば、私達の信仰は神様の行為に基づくものとなり、確かで揺らぐことのないものであることがわかるのです。
 しかし、私達は信仰生活の中でこの原理を忘れてしまいがちで、絶えず神様を主権者の場から引き摺り降ろして、そこに自分自身が代わって座ってしまうと言う愚かな間違いを犯しがちです。信仰生活の中で起こる問題や教会の中で起こる混乱の原因を探るとき、私達は神様が主権者であると言う重要な原理がいつの間にか忘れてしまっていることに気付かされるのです。

(2)教会を建てるのは神様

 私達の東川口伝道所は先日行われた東部中会で教会設立と東部中会への加入の願いが受け入れられました。そしてその決定に基づいて今週の29日に教会設立式を行おうとしています。いよいよ、私達の教会は伝道所から独立教会としての歩みを始めることになりました。そのとき、私達が忘れてはならないのは、やはり神様がすべての点で主権者であられると言う事実です。つまり教会は私達人間が作るものではなく、神様ご自身が作るものであるという事実をわきまえることが大切なのです。もし、教会形成の主体が私達自身ならその教会はやはり、心許ない不確かな歩みを続ける他ありません。しかし、教会を建てられるのは神様ご自身なのです。だからこそ、教会は天国の鍵を持つことができ、そこに集う人々を真の救いへと導くことができるのです。この重要な事実を私達は決して忘れてはいけないと思うのです。
 それでは私達は教会設立式のときに何を各自確認する必要があるのでしょうか。それは私一人一人がこの神様の教会に集められて、神様の御業に用いられるために招かれたと言う事実です。設立式では牧師も、長老も執事も、また教会員一同も神様の前で厳粛な誓約を行います。その誓約のときに忘れてはならないことは、私達が主権者である神様の御業に用いられるために、それぞれが神様からこの教会の一員として招かれていると言うことなのです。そして私達はこの神様に信頼し、神様の御業に自分自身を用いていただけるように決心して誓約を行うのです。ですからそこで私達が期待するのは私達を通して、神様の御業がこの教会に豊かに現れることです。そのような意味で私達の決心は、神様の御業に対する大きな期待に裏付けられていることを忘れないようにしたいと思うのです。

2.イエスの復活を説得するのは誰か
(1)二人の弟子の目を開かれたイエス

 今日はルカによる福音書からイエスの復活された日の出来事について学びます。この物語を読んでも分かるのは、一貫して出来事の主導権、その物語の主人公はイエスであることです。ここでも弟子たちは主権者であるイエスの御業によって、復活を信じる者とされ、さらにはその復活の証人とされています。
 このルカによる福音書は今日の物語の直前で有名なエマオでのイエスの顕現物語を記しています(24章13〜35節)。イエスが復活された日曜日、二人の弟子はイエスの復活をまだ信じられないままに、エルサレムから離れて、エマオと言う村に向かっていまいした。彼らはイエスが十字架にかけられて死なれたこと、またその三日目に起こったイエスの復活について知っていました。しかし、彼らはその情報を理解できないまま悩みながらエマオに向かう道を歩んでいたと言うのです。どんなに考えても、また論じ合っても、彼らは今、自分たちの周りで何が起こっているのかを理解することができなかったのです。そこに復活されたイエスご自身が現れます。そして聖書から解き明かして、二人に出来事の本当の意味を教えてくださったと言うのです。ところが、二人の弟子は彼らに丁寧に出来事の本当の意味を説明してくれている方がイエスであることには気付いていません。
 その彼らが自分たちと共におられる方がイエス本人であること分かった訳をルカは次のように記しています。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった…」(30〜31節)。ここでは「二人の目が開かれた」と聖書は語っています。二人は盲目であったわけではありません。しかし、復活されたイエスを彼らはここまで見ることが出来ないでいたのです。その二人の目が開かれて、復活されたイエスを見ることができるようになったのは、イエスが主導権をとって食事の席で「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」ときでした。ここには明らかに彼らの目が開かれたのはイエスの御業によること、イエスが彼らに復活されたお姿を見えるようにしてくださったことが記されているのです。復活されたイエスを見ること、それは私達の肉眼の目ではできません。しかし、イエスが私達の信仰の目を開いてくださるとき、私達は確かにイエスが復活された事実を確信することができるのです。このイエスは今も私達の教会に働いて、ここに集う私達に復活の主を信じる信仰を与えて、イエスを見ることができるようにしてくださるのです。

(2)主人公はイエス

 今日の物語でも同様な出来事が展開されています。イエスに出会った二人の弟子は大急ぎでエルサレムに戻り、その日の内にエルサレムにとどまっていた他の弟子たちと合流しています(33節)。このときの弟子たちの話題の中心はイエスが復活されたと言う出来事でした。エマオで復活されたイエスに出会った二人の弟子もこの議論に加わっています。しかし、おそらくそこでは何の結論も付けられないままに時間だけが過ぎていったのではないでしょうか。どんなにたくさんの証言が語られたとしても、イエスの復活の事実は人間の説得力だけでは受け入れることができない神様の神秘だからです
 そしてこの議論を解決されるのもやはり復活されたイエスご自身であったと言うのです。

 「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた」(36節)。

 これはとてもユーモラスとも思える場面です。弟子たちがイエスの復活についての議論を戦わしているときに、当の本人であるイエスがそこに出てこられたのです。ところが、弟子たちはイエスが現れてもその復活の事実を認められず、「亡霊ではないか」と疑ったと言います(37節)。そこでイエスは自分が亡霊ではないことを説明し、自分には手も足もある、つまり肉体のない霊ではないことを証明するためにご自身の体を弟子たちに示されたと言うのです(38〜40節)。

 聖書は次に大変おもしろい表現を使っています。「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので…」(41節)。よくテレビのドラマの主人公は自分が体験していることが夢ではない証拠に自分の頬をつねるということをします。おそらく、ここでも弟子たちは同じような状態に置かれたのでしょう。「これは夢ではないのか」と。
 その弟子たちの疑問を取り払うためにイエスは今度はそこで焼いた魚を食べ始めています(41〜42節)。イエスが必死になってご自分を弟子たちに示しておられることがよく分かります。ただ、ここでも弟子たちに決定的な変化が起こるのはエマオの二人の弟子と同じ体験を彼らがしたからであることが分かります。なぜなら45節にこう記されているからです。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」。ここでもイエスが弟子たちの心の目を開かれると言う出来事が起こっています。そして彼らはこのイエスの御業によってイエスの復活を受け入れ、そのイエスによって復活をすべての人々に語り伝える証人として世界に派遣されているのです(48節)。
 弟子たちはイエスによって集められ、説得され、また心の目が開かれてイエスの復活の事実を受け入れました。そしてその主イエスの復活の証人としての歩みを始めることになったのです。お読みになって分かるように一貫してこの物語の主人公はイエスであり、そのイエスの御業の対象となったのが弟子たちであることが分かります。そしてこの関係は私達とイエスの間でも全く変わってはいないのです。私達は主イエスの御業が実現されるためにこの教会に集められているのです。イエスが聖書の御言葉を通して私達に教え、私達の心の目が開かれて、私達がイエスの復活を信じ、その復活の証人となるようにしてくださったのです。

3.復活の証人として派遣される私達
(1)イエスの指示と模範

 ここで興味深いのはイエスがこの物語の中で示された行為と弟子たちに与えられた復活の証人としての使命との関係です。かつてイエスは自分の弟子たちを伝道旅行に派遣されたことがありました。そのときイエスは弟子たちに次のような指示を与えられたのです。「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」(10章3〜5節)。主イエスはこれから危険な使命につこうとする弟子たちに語ります。「財布も袋も履物も持って行くな」。私達はこれから困難な旅が予想されるとき、あらかじめいろいろな準備をするはずです。ところがイエスは弟子たちに何の準備も必要ないとここで語られているのです。そして弟子たちが行く先々で真っ先にしなければならない使命は『この家に平和があるように』と祝福の言葉を語ることだと言われているのです。
 今日の物語で復活されたイエスが弟子たちの中に現れたときに真っ先に語られた言葉は「あなたがたに平和があるように」と言うもので、かつてイエスが弟子たちに与えられた指示と同じ言葉がイエスの口から語られています。それだけではありません。イエスは弟子たちに「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい」(10章7節)と語られました。ここで復活されたイエスは弟子たちの前に現れて、彼らに「ここに何か食べ物があるか」と言われて、そこで差し出された魚をそのまま食べているのです。これも明らかにイエスが弟子たちに出された指示と同じ行為が繰り返されています。
 つまり、イエスはこれから復活の証人として遣わされようとする弟子たちに、かつてイエスが与えられた指示をもう一度思い出させようとしているのです。そして、その模範を自分の姿を通して弟子たちに示されたと考えることができるのです。

(2)イエスの招きに答える

 イエスが弟子たちの指示の中で「何も持って行くな」と言ったことは、私達に何もするなと言っているのではありません。むしろ、人間的な手段に頼るのではなく、神様に信頼することを弟子たちに教えられたと言えるのです。なぜなら、宣教の主人公は神様ご自身であり、弟子たちはその神様に用いられる器にすぎないからです。このことを忘れて自分がその主人公になってしまえば、私達は目の前の困難な状況に心を奪われ、思い煩うことだけで大切な時間を使ってしまうことになります。それでは私達は神様から与えられた使命を果たすことはできなくなってしまいます。忘れてはならないのは神様がいつも主人公であると言うことです。だから私達はその神様に信頼し、従って行けばよいのです。
 かつて、イエスによって宣教の旅に派遣された弟子たちは喜びに満たされてイエスの元に帰ることができました(10章17節)。彼らが旅先で神様に信頼し、その御言葉に従って行動したとき、彼らの周りで驚くべき奇跡が起こったからです。このようにイエスの御言葉に従って歩む者は神様の豊かな御業を体験し、喜びを味わうことができるのです。
 ところがこのときイエスは、喜ぶ弟子たちに次のように語られました。「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(20節)。イエスはここで弟子たちにもっと大きな奇跡を体験していることを思い起こさせます。それは彼らがイエスの救いによって神の国の名簿に名前が記されていると言う事実です。
 イエスはこの奇跡が確かに私達の上にも起こったことを示されるために復活されました。十字架にかかり甦られたイエスによって、私達は今や完全な救いにあずかっているのです。ですから私達も名前も天に記されています。そして、イエスは天に名前がすでに記されている私達の心を開いて、復活の事実を示し、今、復活の証人として私達を宣教の旅へと派遣しようとしているのです。私達がこのイエスの招きに答えるとき、すべての出来事の主人公はイエスであり、そのイエスが私達を豊かに用いてくださっていることが分かるようになるのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
 イエスの復活に出会った最初の弟子たちの心の目を開き、その出来事を信じることができるようにしてくださったあなたは、同じように数え切れない聖徒たちの目を開き、あなたを信じ、あなたの復活を証言する者としてくださいました。そしてあなたは私達にも働きかけて、私達に聖書の御言葉を教え、心の目を開いて復活を信じることができるようにしてくださったことを感謝いたします。私達が解決のつかない空しい議論に明け暮れるのではなく、あなたの信じて確かな歩みをすることができるようにしてください。そして私達があなたの招きに答えて、あなたの御業がこの地上に実現するために働くことができるように、御霊を持って私達一人一人を導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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