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礼拝説教 桜井良一牧師
命を捨てる羊飼い

(2009.05.03)

聖書箇所:ヨハネによる福音書10章11〜18節

11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。??狼は羊を奪い、また追い散らす。??
13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

1.復活されたイエスと私たち
(1)福音記者ヨハネの課題

 復活節の第四週の礼拝を迎えました。イエスの復活を経験し、甦られたイエスと出会うことができた弟子たちの話を私たちは学んできました。今日の聖書はそれらの物語とは違って、イエスがまだ十字架にかけられる前に語られたお話が記録された部分です。このお話を収録するヨハネによる福音書は四つの福音書の中でも最後に書かれたものであると考えられています。この福音書が書かれた時代、生前のイエスを知っている人や、イエスの復活を直接に体験した人々のほとんどは世を去っていたと考えられています。ですから福音記者ヨハネは自らの体験に基づいてイエスを証言することができた数少ない人物のひとりとしてこの福音書を記したことになります。つまり、福音記者ヨハネの著作の目的は実際のイエスを知らない人々、イエスの復活の出来事を知らない人々にそれらの事柄を証言すると言うところにあったのです。
 おそらくこの当時の教会の大きな問題の一つは、生前のイエスを知らない人々、その復活を自分では体験していない人々に、どのようにキリスト教信仰を伝えるかにあったのでしょう。そしてその際に最も重要になるのは復活されたイエスと今、生きている信仰者との関係はどうなっているのかという問題です。イエスが天に昇られた後、イエスの姿を肉眼で見ることができない信仰者にとって、「イエスはいったい、今の自分たちとどのような関係にあるのか。イエスはいったに何をされているのか」と言う疑問が起こったはずです。その疑問に答えるために書かれたのがこのヨハネの福音書です。私たちはこのヨハネの福音書の内容に従って今週と来週の二回にわたって、復活されたイエスと今、この地上に生きて私たちとがどのような関係にあるのかについて学んでみたいと思うのです。

(2)羊飼いと羊

 このイエスのお話の中では羊と羊飼いとの深い関係が語られています。そしてこの関係こそが復活されたイエスと私たちとの関係であるとヨハネの福音書は教えているのです。聖書が書かれたイスラエルの社会ではこの羊は人々にとってはたいへん身近な存在でした。そして旧約聖書でもこの羊と羊飼いの関係にたとえられてイスラエルの民と神様との関係がたびたび語られています。私たちがよく知っている詩編23編もその一つです。
 聖書において羊は人の助けがなければ生きることのできない無力な動物として描かれています。羊は自分で自分を守る手段を何も持っていないばかりか、自分に必要な食べ物や飲み水でさえ見つけることができないのです。この羊に対して彼らを飼う羊飼いの任務は、第一に羊に必要な食べ物や飲み水を与え、彼らの成長の世話をすること、第二は羊たちを狙っている外部からの侵入者に対して身をもって羊たちを守ることにありました。この関係こそが私たちと主イエスとの関係であると考えるなら、私たちの信仰生活は復活の主イエスが存在しない限り、成り立たないと言うことが分かります。
 復活されたイエスは私たち信仰者のために聖霊を送って教会を建て、聖書のみ言葉を持って導かれます。私たちはこの教会に集まり、毎週のように礼拝を献げています。確かに私たちには教会の集まりも、毎週献げる礼拝も人間の作り出す一つの営みのように見えるのですが、実はこれらのものは復活されたイエスのみ業によって営まれていると言ってよいのです。このように復活されたイエスは今も、私たちの教会に聖霊を送り、私たちとの命の関係を絶えず保っておられるのです。

2.良い羊飼いと雇い人
(1)誰が良い羊飼いか

 実は今日の聖書に記されているイエスの言葉は、イエスの身近に起こったある出来事がきっかけとなって語られたものです。その出来事はこのヨハネによる福音書の9章に記されています。ここでイエスは「生まれつきの盲人」の目を癒されると言う奇跡を行われています。ところがこのみ業が安息日に行われたと言うことで、イエスの行為は神様を礼拝する以外に何もしてはならないと言う安息日律法に違反するものとしてユダヤ人たちから非難の対象となります。一方、イエスに自分の目を癒された人は「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(9章33節参照)と主張したことで、ユダヤ人の指導者たちの反感を買い、その共同体から破門されてしまうのです(34節)。ここでは生まれつきの盲人の目を人々の非難を恐れずに癒されたイエスと、彼を共同体から追い出してしまったユダヤ人の指導者たちのどちらが彼にとって真の羊飼いなのかと言う問題が問われているのです。そして、その問題に答えるために語られたのがこのイエスのたとえで話であると考えることができるのです。
 イエスはご自分を「良い羊飼い」と語り、ほかの人々を「雇い人」と呼んで区別しています。そしてその両者の違いは「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである」(11〜13節)と語れるように羊を命がけで守るのが「良い羊飼い」であり、「雇い人」はそれができないと語るのです。ここで語られている「良い羊飼い」と言う言葉の意味は厳密に言えば「羊に役立つ良い羊飼い」と言ってよいものです。イエスは私たちのために十字架にかけられ、その命を持って私たちをすべての罪から贖い、永遠の命を与えてくださいました。この世には私たちに様々な知恵を提供するたくさんのリーダーが存在します。確かに彼らの知恵は私たちの生活の少しは助けになることがあるかもしれません。しかし、私たちの罪を贖い、私たちに命を与えることができる羊飼いは主イエス・キリストお一人しかおられないのです。ですから私たちにとってイエスだけが「良い羊飼い」と呼べるただ一人のお方なのです。

(2)羊は羊飼いの声を聞き分ける

 イスラエルの羊飼いたちは羊たちの群れを連れて牧草地を移動しながら暮らします。彼らは決められた場所を、毎年順々に巡り歩いて羊たちに必要なものを与え続けるのです。ですから羊飼いたちが羊を引き連れて行く場所には、長年の間に渡って代々の羊飼いたちが石で作り上げた囲いがあったようです。羊飼いたちは昼の間は牧草地に羊を放し飼いにし、夜は彼らを外的から守るためにこの囲いの中に集めて世話をしました。その際、同じ囲いの中に様々な羊飼いたちの羊が一緒にいれられることがよくあったようです。しかし朝になると、それぞれの羊は自分の羊飼いの声を聞き分けて、羊飼いの後に従いこの囲いから出て行くことができたのです。羊は自分の羊飼いの声を聞き分けることができるからです。
 私たちが今、この教会に集められているのは単なる偶然ではありません。私たちは真の羊飼いであるイエスの声を聞いたのです。だからこの教会に集うことができたのです。それではどうして私たちはこのイエスの声を聞き分けることができたのでしょうか。私たちが特別に聡明で、聖書に書かれている真理を理解できる能力を持っていたからでしょうか。そうではありません。むしろ、神様が私たちひとりひとりを選び、イエスの羊としてくださったからなのです。そしてその私たちに聖霊を送ってイエスの言葉を聞き分けることができるように、聖書の言葉を通してその声を聞くことができるようにしてくださったからなのです。私たちはこのことについて神様に感謝を献げたいと思います。このように私たちの信仰生活は神様の確かなみ業によって成り立っているものであり、不確かな人間的決断の結果ではないと言えるのです。

3.羊飼いにまかすべきこと
(1)囲いの中にいない別の羊

 このように私たちを導き守ってくださる方は、私たちのために命を捧げてくださった良き羊飼いであるイエスお一人です。私たちはこの方の羊として、この方の声を聞き分ける力を聖霊を通して与えられています。だから聖書のみ言葉が遠い昔に記された古典の書物ではなく、今、私に語りかけられる神の言葉として聞くことができるのです。私たちはこのイエスの羊として、聖書を読み、それを通して語られるその方の声に聞き従っていけばよいのです。たとえ私たちがどんなに困難で危険な状況に立たされたとしても、イエスは私たちの名前を呼んで導いてくださるのです。そしてイエスが私たちを守り、導いてくださること以上に私たちに安全を保証するものはないのです。
 それでは、良き羊飼いであるイエスに信頼して従う私たちがこの信仰生活の中で注意すべきところはどこにあるのでしょうか。私たちは続けて語られているイエスの言葉に耳を傾けながら二つの点について考えてみたいのです。まず第一にイエスはこう語られています。

 「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)。

 ここにはまだ囲いの中に入っていない私たちとは別な羊たちがいることが語られています。この言葉がイエスの口から語られていたときには、この羊はこれからイエスの弟子になる人々を指した言葉であったのかもしれません。また、約束の民イスラエルの他の異邦人たちにも福音が伝えられ、イエスを信じる民がたくさん起こされることを預言した言葉であるとも考えることができます。ただ、この言葉から私たちが教えられるのは、私たちとは別に他にも神様の救いにあずかるために神様に選ばれている人たちがいると言うことです。そしてそれがわかるのはイエスとその声を聞き分けることができるその人自身であると言うことです。
 私たちは普段、短絡的に物事を考え、早急に結論を出してしまう傾向があります。今、自分たちと心を同じくすることができないから、その人は神様の民として選ばれていない、救われていないと判断してしまうことがあるのです。しかし、私たちにはそれを判断する能力は初めから与えられていないのです。だからこそ、私たちは良き羊飼いに信頼して、神様の福音をあきらめることなくすべての人に伝えることが大切なのです。どんなに頑な人にように見えても、その人がイエスの羊であるならば、その声を聞き分けることができるときが必ずやって来るからです。そしてイエスの群れとして私たちと一つになる日がやってくるのです。
 私たちは神様の領分を侵してしまうことがないように注意すべきです。むしろ、これらのことをよくご存じであるイエスに信頼して、その結論をお任せする必要があるのです。

(2)主に従う積極的な信仰

第二にイエスは続けてこのように語ります。

 「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」(17〜18節)。

 「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」とイエスは語ります。自分の命を捨てることも、再び受けることもできる方はただ一人イエスだけしかおられません。私たちは地上での命を捨てることができたとしても、それを再び取り戻すことはできないのです。人間は持てる力、科学の力を駆使して自分たちの命が少しでも長くなるようにと努力します。しかし、決して人間の力は人間に新たに命を与えることはできないのです。
 そのような意味で私たちに人間はいつも周りの状況や力に対して受け身となる他ありません。私たち自身や周りの状況が変わることを私たちは止めることはできません。しかし、私たちを導くイエスはこのすべてのものを自由に支配する力を持っておられるのです。
 私たちが自分の無力を悟ることは信仰生活とってとても大切なことです。しかし、そのことだけを考えると私たちの信仰は運命論的な「私にはどうにもならない」と言う非常に消極的なものになってしまいます。しかし、私たちは無力であっても私たちを導く方は自分で命を捨て、またそれを得ることのできる力を持っておられる方なのです。この世界をご自身の意志に基づいて導く力を持っておられる方なのです。私たちはこのことを認めて、この方に心から信頼して従うとき、私たちの歩みは決して消極的なものではなくなります。聖書に記された祝福の約束を信じて、希望を持って歩むことができる者と私たちは変えられるのです。
 私たちは自分を取り巻く様々な変化の中で困難を感じて生きています。そのようなときに自分の無力さを感じる私たちに希望を与えるのは復活されたイエスが今も私たちを導いてくださっていると言うことではないでしょうか。この方は必ず私たちを導いて勝利を与えてくださるのです。だから私たちに必要なのはこの方を信頼して、従っていくことだけなのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 私たちのために良き羊飼いとなりその命を捨てて私たちに命を与えてくださったイエスを心から褒め称えます。私たちの信仰生活は復活されたイエスが聖霊を送ってくださることによってすべて成り立っています。私たちを今日も教会に集わせ、聖書のみ言葉を持って養い導いてくださることを感謝します。私たちがこのよき羊飼いを信頼して、困難の中でも勇気と希望を持って生きることができるようにしてください。まだ囲いに入れられていない別の羊たちのために私たちがあきらめることなく伝道の業に励むことができるようにしてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
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