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礼拝説教 桜井良一牧師
「今も生きておられるキリスト」

(2009.05.10)

説教箇所:ヨハネによる福音書15章1〜8節

1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 」

1.実を結ぶために
(1)このメッセージの語られている相手は

 イエスは復活された後、この地上に40日間留まられたと記録されています。そしてそれを記念するのが私たちが今守っている復活節の礼拝です。今日はイエスの語られた有名な「ぶどうの木」のたとえから、復活されたイエスと私たちとの関係について学んでみたいと思います。

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(1〜2節)。

 このお話はこのヨハネによる福音書13章でイエスの弟子のひとりであるイスカリオテのユダがイエスを裏切るために外に出て行った後に(30節)語られたイエスの説教の一部です。イエスはこれからご自分の上に起ころうとする出来事をよく知っていました。このイエスの説教はそのイエスが地上に残される弟子たちのために語られた、遺言と言ってもよいメッセージなのです。ただここに語られている言葉は、イエスの逮捕後に弟子たちが対処しなければならないことを語るだけではなく、復活されたイエスが天に昇られ、この地上から目に見える形ではいなくなることを想定し、そのときにイエスの弟子たちはどうしたらよいのかを教えるメッセージであると言えるのです。
 つまり、この説教はイエスの逮捕に驚く戸惑う弟子たちのために語られたと言うよりは、イエスの昇天後にイエスを信じ、教会に集められるすべての信徒に語られていると言ってもよいのです。私たちが前回の礼拝でも学びましたように、福音記者ヨハネがこの福音書を書いた相手も目に見える形ではイエスに会ったことのない弟子たちのためであったとお話しました。このイエスの説教はその人々のために特に意味深い話が語られています。だからヨハネはこのイエスの説教をかなりのページ数を割いて記録しているのです。

(2)父なる神による剪定

まず、最初にこのたとえはイエスがぶどうの木、それを信じる者がぶどうの枝、そしてそのぶどうの木を栽培する農夫を父なる神と言う関係で説明しています。そしてその際、農夫の使命はぶどうの実が豊かに実るように剪定をすることだと語られています。農夫である父なる神はそのために実を結ばない枝は取り払い、実を結ぶ枝はもっと実を結ぶことができるように手入れをするのです。
 「実を結ばない枝」と言うのはイエスの弟子とされながら、イエスを裏切るためにこのお話の直前に去って至ったイスカリオテのユダの存在がここには語られているのかもしれません。また、ここには一端は教会の交わりに加えられながら、そこから離れてしまう人々の存在が想定されているとも考えることができます。

 聖書をいろいろな方に教えていると、ときどき、イスカリオテのユダのことを質問されることがあります。おそらく、その質問をされる方は心のどこかで「自分もイスカリオテのユダのようになってしまったらどうしよう」と言う心配があるために、そのような質問が生まれて来るのではないでしょうか。「一度は信仰を告白しながら教会を離れてしまった人はどうなるのか」。そんな疑問が私たちの脳裏に浮かぶのは、私たちもまたその人々と同じような可能性を持つ弱い人間であることを知っているからです。しかし、私たちは間違いないようにしたいと思うのです。私たちはいくらイスカリオテのユダのことを研究しても、あるいは教会を離れて行ってしまった人の失敗から学んでも、私たちの抱いている疑問を完全に解決させることはできないのです。
 むしろ、ここで私たちが考えなければならなないことは父なる神は私たちに何を求めておられるかを知ることです。父なる神は私たちが豊かに実を結ぶことを求めておられるのです。そして父なる神様はそのために私たちに救い主イエス・キリストを遣わしてくださったのです。父なる神は復活され、今も生きておられるイエスとの命の関係を保つことにより、私たちが豊かに実を結ぶことを求めておられるのです。私たちがすべきことは、私たちの関心をそこに集めることです。「誰が取り払われる枝なのか」と心配するよりも、「私はどうしたら豊かに実を結ぶことができるのか」と言うことを考えることが大切なのです。

(3)既に清くされている

 そしてイエスは「どうしたら実を結ぶことができるか」と考える私たちに次のような慰めと励ましの言葉を語っておられます。

 「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」(3節)。

 イエスは私たちが豊かな実を実らせるためにこの地上に来てくださったのです。私たちが命の源である神様との関係を回復するために、イエスは十字架にかかり、そして復活されました。その福音の事実を語るのが「わたしの話した言葉」です。つまりこの聖書のみ言葉を受け入れ、それを信じる者はすでに豊かな実を実らせるために手入れをされた枝であるとイエスは語っているのです。私たちは私たちの力だけでは何もできません。しかし、イエスはその私たちのために救いを成し遂げられたのです。だからこそ、私たちは豊かな実りをもたらすことができるのです。
 私たちは「自分には十分な才能がない」とか、「自分の実力を十分に発揮できるよい環境がない」と言い訳をすることがあります。しかし、イエスはそのような言い訳を私たちが語ることを許されません。なぜなら、私たちが豊かな実を実らせるために必要なのは十分な才能でも、よい環境でもなく、神様との命の関係だからです。そしてイエスはその関係を回復させてくださったのですから、私たちが既に実を結ぶものとされているのです。

2.イエスを通してだけ神とつながる

 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(4節)。

 イエスは続けてぶどうの枝とふどうの木の関係を繰り返し語っています。ぶどうの枝はぶどうの木につながっていなければ実を結ぶことはできません。さらに5節ではぶどうの木であるイエスにつながっていなければ私たちは何もできないとも語られています。そして続く6節では、何もできない枝は本来の目的を果たせない訳ですから、外に捨てられて枯れ、最後には火に投げ込まれてしまうとまで言われているのです。つまり、私たちの人生はイエスにつながれていなければ全く意味がないと語られているのです。
 このように、私たちに徹底的にイエスにつながることを促す言葉は、私たちに何を教えているのでしょうか。それは、私たちが自分一人の力で実を実らせる、「自力救済主義」を第一に否定していると言えるでしょう。私たちは主イエスを離れては何もできない者であるからです。
 第二はイエス以外の枝につながることも誤りであると言うことをイエスの言葉は教えています。イエスの周りにいたたくさんのユダヤ人たちは真の神を知り、聖書の知識を十分に持っていました。しかし、彼らは神様が遣わしてくださった救い主イエスを受け入れることも、信じることもできませんでした。彼らはイエスなしでも自分たちは神様とつながることができると考えたのです。しかし、その方法は神様の御心ではありません。神を信じるとは、イエスを信じることであり、イエスを通して神との関係を回復することだからです。そして私たちが豊かに実りを実らせるためにはこの神様の方法を受け入れる必要があるのです。

3.イエスの言葉に留まるなら願いはかなう
(1)イエスの言葉につながる

 それでは私たちが具体的にイエスとつながると言うことは、どのようなことを意味するのでしょうか。私たちはいったいどのようにしたらこのイエスとつながって、豊かな実りを実らせる枝となることができるのでしょうか。イエスは次のように教えています。

 「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(7節)。

 実はこの新共同訳の日本語訳は意訳されて、読者にわかりやすいようになっています。ここのところを別の翻訳聖書で読んでみると「あなたがたが私のうちに留まり、私の言葉があなたがたのうちに留まるなら…」(岩波訳)と訳されています。この別の翻訳で分かるように、原文では最初のイエスに「留まる」、あるいは「つながる」と訳される言葉が、後半の私の言葉があなたがたの内に「留まる」、あるいは「つながる」と言う箇所でも繰り返し使われているのです。つまり、このイエスの言葉から考えると私たちがイエスにつながって生きるとは、具体的には私たちがイエスの言葉につながって生きること、言葉を換えて言えばイエスの言葉が私たちの内にいつも留まるように生きることだと言うことになるのです。

(2)イエスと同じ願いに生きる

 そしてさらに問題になるのはこの言葉に続くイエスの約束の言葉です。

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(7節)。

 イエスはここで私たちが望むものは何でもかなえてくださると約束されているのです。私たちはいつもさまざまな願いや望みを持って生きていることは確かです。しかし、その望みがかなうことが必ずしも私たちにとって益となるかはと言えばそうではありません。時には私たちはあやまった願いを持って、それが実現されたが故に不幸になると言うこともあるはずです。さらには、私たち人間の間に起こる争いのほとんどは、それぞれが抱く思い思いの願いや欲求をかなえようとするところに起こることも事実です。イエスはそんな人間の自分勝手な要求を何でもかなえてくださるとここで約束してくださっているのでしょうか。しかしその答えは続けて語られるイエスの言葉の中に示されています。

「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」(8節)。

 私たちの願いとは私たちがイエスの弟子として生きること、神の栄光を現して生きることにあります。そしてそれはイエス・キリストがいつも願っていたことでもあるのです。私たちとイエスはぶどうの枝と木の関係にたとえられるように、切り離すことができない関係に生きています。まさにこの関係の中でイエスの願いと私たちの関係は同じになるのです。そして、私たちの願いを私たちがイエスに留まるならば必ずかなえてくださるとイエスは約束されているのです。

4.問題の解決はどこにあるのか

 最近、新型インフルエンザの世界的流行のニュースが毎日、私たちの耳に届けられています。私たちはこの目に見えないウイルスが自分たちの身近に迫って来ることに恐れと不安を抱いて生きています。さまざまな対策が行使され、様々なニュースが私たちに提供されていますが、皆、私たちの不安を根本的に解決することには至っていません。おそらく、最も急がれることはこのウイルスの正体を早く解明して、それに対応できるワクチンを一日も早く開発することにあるのかもしれません。これはインフルエンザの問題ばかりではなく、すべての問題に関係することですが、私たちが不安や恐れから解放されるためには、その根本的原因に迫り、その解決策を見いだす必要なのです。
 教会設立式を行い教会としての歩みを開始した私たちの教会は、この教会に豊かな実りが与えられ、神様の栄光が現れることを祈り願っています。そのために、教会はどのような取り組みをしなければならないか、またどのような組織を作らなければならないかを新たに生まれた教会の小会は今そのことについて検討し、話し合っています。
 しかし、そのときに私たちが一番最初に確認しなければならないことは、私たちの教会の成長は私たちがイエスに留まらない限り、イエスにつながらない限りは実現しないと言うことです。言葉を換えて言えば、私たちがイエスの言葉である聖書に耳を傾け、その言葉を私たちの内にたくわえなければ、私たちは何もできないのです。もしここで、私たちがイエスにつながると言う大切な事実を忘れて、個々の問題を処理しようとすれば、私たちはさらに混乱を極め、そこからは何の実りも得ることができなくなってしまうはずです。
 私たちはよく忙しいので聖書を読む時間がないとか、聖書を読むよりももっと大切なことが自分にはあると考えてしまいます。しかしそれは今日のイエスの言葉が言えば物事の本質を理解できない重大な誤りと言ってよいのです。むしろ、私たちが聖書の言葉につながらなければ、どんなに私たちが時間を労しても、その努力は実りをもたらすことができません。問題の解決の早道は、まさに私たちが遠回りして聖書の言葉に耳を傾け、その言葉を私たちの内にとどめることにあるのです。そしてイエスはイエスの言葉である聖書に留まる私たちがイエスの弟子として生き、神の栄光を現すことができるようにしてくださるのです。それが私たちにイエスがここで約束していくださった豊かな実りの意味であると言えるのです。

天の父なる神様
 私たちが豊かに実を実らせるために主イエスが救いのみ業を成し遂げてくださったことを感謝します。どうか私たちが主イエスの弟子として生き、神様の栄光をこの地上で現す者としてください。そのために私たちがあなたのみ言葉である聖書の言葉につながることができるようにしてください。私たちの教会の礼拝で、またすべての教会の集いの中に聖書の言葉が語られ、そこに集う私たちがその言葉に心から従うことができるようにしてください。聖霊を持って私たちの心を砕き、私たちの心に聖書の言葉を留めさせてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
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