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礼拝説教 桜井良一牧師
喜びに満たされるために

(2009.05.17)

聖書箇所:ヨハネによる福音書15章9〜17節

9「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

1.互いに愛し合いなさい。
(1)イエスの愛の説教

 ヨハネによる福音書13章の1節は次のような言葉で始まっています。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。ここで語れているようにイエスはご自分の十字架の死を目前にして、弟子たちは愛し抜かれたと言うのです。
 もし、私たちが自分の死が目前に迫っていることを知ったとしたら、私たちはいったい何をしようとするでしょうか。まず、私たちは迫り来る死に対する不安と恐怖に直面することは確かです。しかし、私たちもまた、その不安の中でも愛する家族や友人たちのことについて考えるはずです。自分がこの世からいなくなってしまった後、残される家族はどうなるのかと思いを巡らすときに、私たちは自分が家族を愛していたことを伝えたい、いえ、自分が死んでも自分の家族への愛は変わらないと言うことを何とか彼らに伝えたいと思うはずです。私たちが今、学んでいるイエスの説教には私たちに対するイエスの愛の思いが込められています。ですからこの説教のあらゆる部分で、イエスの私たちに対する愛が豊かに表されているのです。

(2)イエスの喜びが私たちのものに

 イエスは私たちがこのイエスの愛の中で生かされるために、この15章の最初でぶどうの木のたとえを語り、どんなときにも自分にしっかりとつながっていないさいと私たちに教えてくださいました。そうすれば、私たちはどんなときにもこの人生で豊かな実を結ぶことができるとイエスは約束してくださったのです。
 今日の部分でイエスは私たちに「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11節)と語られています。私たちが人生で豊かに実を結ぶことができたらどうなるでしょうか。そうすれば私たちは喜びに満たされるはずです。しかも、ここでは「わたしの喜びがあなたがたの内にあり」と語られているように、私たちが抱く喜びはイエスが抱いていた喜びと同じものだと言われているのです。つまり私たちはイエスの喜びを自分のものとすることができるのです。それはまさに私たちを一喜一憂させるようなこの世が提供する喜びとは異なります。イエスが抱き続けた消えることのない喜びが私たちにも与えられるのです。それはなんとすばらしいことでしょうか。
 それでは、私たちはどうしたらこの喜びを自分のものとすることができるのでしょうか。イエスはこの部分で私たちに命じています。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。この聖書の文章を読む限りイエスが与えてくださる喜びと「互いに愛し合いなさい」と言うイエスの命令とは切っても切り離せない関係にあることがわかります。そこで私たちはこのイエスの命令が私たちにとってどのような意味を持つのかをここで考えて見たいと思うのです。

2.イエスの愛

 ところで「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と言う言葉を聞くとき、私たちには一つの疑問が浮かぶはずです。それははたして、愛は命令によって生み出されるものなのかと言う疑問です。私たちの周りでもたくさんの「愛」と言う言葉が満ちています。そこで私たちがいつも考えている愛とは人間の内に起こる自然な感情ではないかと言うことです。ですから、誰かに命じられて「誰それさんを愛しなさい」と言われても、本当にそこで愛が生まれるかどうか私たちは疑問に感じるのです。
 そこでイエスはこの愛について次のような定義をしています。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)。この言葉を聞くと私たちは普段考えている愛とイエスが語ろうとする愛が少し違っていることがわかります。実はこの愛の違いは聖書が記されているギリシャ語の世界でははっきりしているのです。ギリシャ語では日本語で一様に「愛」と訳される言葉を三つの単語を使って使い分けています。それが「エロス」、「アガペー」、「フィリア」と言う単語で、ギリシャ語ではこの三つの言葉はそれぞれ違った性質の愛を現す言葉として使われているのです。そしてここで、イエスが命じられている愛はこの「アガペー」と言う言葉が使われています。「エロス」という言葉で表される愛はどちらかと言うと「利己的な愛」と言う意味合いを持っていますが。このアガペーという愛は「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言うイエスの言葉通り、エロスとは大きく意味が違っているのです。
 ちなみに、このアガペーと言う言葉は旧約聖書のギリシャ語訳として知られている70人訳聖書に20回だけ登場するのに対して、主イエスの出現以降の出来事が記した新約聖書では116回も使われています。つまり、このことから考えるとこのアガペーと言う愛はイエス・キリストの存在と深く結び合うところに現れる愛と考えることができるのです。だからここでイエスはこう言っているのです。
 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(9〜10節)。

 このイエスの言葉によればこのアガペーの愛は父なる神がイエスを愛された愛に根拠があり、その同じ愛を持って私たちを愛してくださったイエスによって、私たちに豊かに現されたのです。
 ここでイエスは弟子たちに次のように語っています。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(14節)。イエスは弟子たちをここで「友」と呼ぶと言われています。そしてイエスはその「友」のために十字架でご自分の命を捨てられたのです。そう理解するなら、この愛はイエスが私たちに示された愛であり、イエスの愛そのものであると言っていいのです。

3.わたしがあなたを選んだ
(1)どうして無益なのか

 このようにイエスが命じられている「互いに愛し合いなさい」と言う場合の愛は人間の自然の感情として表れて来る「エロス」の愛ではなく、イエスが現された、イエスの愛そのもの「アガペー」の愛であることが分かります。
 このことは次のような誤解に対して明確な反論を示しています。愛し合う集団は皆、イエスの御心にかなうものであり、それらの集団は皆、イエスの愛に留まっている集まりであると言う誤解です。テレビではよく「愛は地球を救う」と言うスローガンが繰り返される番組が放送されます。地上に存在する宗教団体はもちろんのこと、たくさんの集団が「愛」、あるいは「愛し合う」ことを自らの集団の目標に掲げています。しかし、その愛は必ずしもイエスの示された愛ではありません。その愛はイエスの中から生まれてくる愛ではないからです。
 伝道者パウロはその著作の一つであるコリントの信徒への手紙一の中でこの愛の定義にふれて、興味深いことを語っています。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(13章3節)。
 全財産を貧しい人の献げること、自分の命を与えることでさえ愛がなければ無益だとパウロは語ります。ここでパウロが無益だと言うのはその行為がイエスの愛に基づくものではないからです。イエスの愛が存在しないところには、本当の救いは成り立ちません。ですからどんなにそこですばらしいことがなされたとしても、イエスの愛がそこに存在しなければ、それ自身は無益なものになってしまうと言うのです。

(2)選んでくださったのは神様

 ここまで考えると、イエスが私たちに命じている愛は私たちががんばって実現することのできるものではないと言うことがわかります。私たちがどんなにすばらしいことをしても、それが私たち自身から生まれた愛であるなら、パウロが言うように「無益」なものとなってしまうからです。そこで重要になるのが次のイエスの言葉です。

 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(16節)。

 ある冷たい雨が降る日、教会に一人の見知らぬ青年が訪ねて来ました。彼は熱心に自分が救われる道を探していると私に説明してくれました。その上で彼は手に持っていたチラシを出して、さっきまで自分は天理教の教会に行って、そこで説明を聞いてきたのだと言うのです。彼の求めに応じて私はしばらく時間を割いて、聖書のことや信仰のことについて彼と話し合いました。幸いその青年は私の誘いに応じて次の日曜日教会の礼拝に出席してくれました。ところが、彼はその礼拝の帰りがけに私に「やはり、これからどこかのお寺に行ってまた、自分に合った宗教をさがしたいと思う」と行って立ち去っていきました。名前も住所も正確には教えていただくことができなかったので、その後あの青年はどうなったのか私には分かりません。はたして彼は本当に自分にあった宗教を探し出すことができたのか疑問でなりません。果たして私たち人間は自分で本当の神を見いだすことができるのでしょうか。聖書はそれは私たちにできないと教えるのです。なぜなら、罪に陥ってしまった人間はその判断基準自身がおかしくなってしまっているので、自分では正しい宗教も、真の神も見分けることができないのです。
 それでは私たちはどうして真の神と出会い、信仰生活に入ることができるのでしょうか。イエスは語られます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。私がたくさんの宗教や神々から正しい宗教、神を選んだのではありません。神様の方が私を選んでくださったから、私たちは今、教会に集い、神様を信じることができるのです。私たちが神様を捜し出したのではありません。神様が、イエス・キリストを遣わして、私たちを見つけ出してくださったのです。そしてこれこそが神様の恵みであると言えます。

(3)イエスの働きによって実現する命令

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」。

 ここではイエスが私たちを何のために選んでくださったのか、その理由が語られています。実を結び、実が残るように、そのための私たちの願いはすべて神様にかなえられるためだと説明されています。まさに、ここにイエスの愛の命令「互いに愛し合いなさい」が成立する根拠があるのです。
 イエスは無責任な命令を私たちに与えることはありません。何もないところからすべてのものを造りだした神様と同じ力がここでは働かれています。私たちを通してイエスの愛が実現されるように、イエスは働いてくださるのです。
 イエスが語られたこの長い説教の中で繰り返し語られるのはイエスが天に昇られることによって私たちに聖霊が送られると言う約束です。そのことについてこの15章の26節でこう語られています。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」。
 私たちに遣わされる聖霊の役目はキリストを証しすると言うことです。この聖霊の働きによって私たちはイエス・キリストに導かれます。また、その聖霊は私たちに働き続け、私たちを通してイエス・キリストが今も生きて働いておられることを証ししてくださるのです。そしてその働きによって私たちの中にイエスの愛が実現されるのです。イエスに喜びを与え、イエスを愛の業へと導いた同じ聖霊が私たちの教会に今、与えられています。だからこそ、私たちはこのイエスの命令に従うことができるのです。ですから私たちがこのイエスの命令に従おうとするとき、私たちの教会の中にキリストの愛が満たされ、私たちは豊かに実を結び、喜びに満たされることができるのです。そしてイエスはそのことが実現するために、私たちに自分の愛に留まり続けるようにと語られたのです。私たちはイエスを離れては何もできないからです。
 先日の礼拝で聖書を読むこと、イエスのみ言葉を心に留めることが私たちにとって第一に優先すべきことであると語りました。そのあと何人か方から、あのメッセージはとても厳しい内容だったという感想を聞きました。確かに、聖書を読むことをつい忘れてしまう私たちにとって、聖書に留まるためには様々な犠牲が要求されるかもしれません。しかし、聖書にはその犠牲に勝る宝が隠されているのです。
 一人の知的障害を持った女の子が父親の元を離れて施設に入居しました。一人ででも社会に出て行って生活ができるための訓練を受けるためでした。彼女にとってそれはとても厳しい訓練でした。施設の人々も熱心になって彼女に様々なことを教えました。ところが、彼らが困ってしまったのは、彼女がどうしてもお金の価値を理解できないと言うことでした。彼女のためにこんな訓練が続けられました。500円、100円、50円、10円、5円と額面も大きさも違う硬貨が並べられます。そして訓練担当者が彼女に尋ねるのです。「この中で一番、大切なお金はどれ」。すると彼女はすぐに10円玉を手にとって「これ」と言うのです。何度もそうではないと言って、お金の価値を教えても彼女はこの質問にいつも「これ」と言って10円玉を指し示すのです。
 「この子にはいくら教えてもだめか」と担当者はあきらめかけました。そう思いながら、担当者は彼女に「どうしてこの10円玉が大切なの」と逆に質問をしたのです。すると彼女はすぐにこう答えたと言います。この10円をあの電話に入れると「おとうちゃんの声がいつでも聞こえるから」。実は彼女はこの訓練所で寂しくなったり、つらくなったときは施設の中に置かれたピンクの電話に10円玉を入れて父親と話をしていたのです。彼女を心配し、彼女を愛し続ける父親の声を聞くために10円玉は最も大切なものだったのです。
 私たちにとって聖書が大切なのは、そこから私たちを愛する神様の声がいつでも聞こえてくるからです。そして私たちがイエスの愛に留まり、イエスの愛に生きるためには、まず私たちがこのイエスの愛の言葉に耳を傾ける必要がどうしてもあるのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
 私たちを愛し、私たちのために十字架で命を捨ててくださったイエスの愛に深く感謝を献げます。そのあなたが私たちに命じてくださった「愛し合いなさい」と言う戒めに私たちが生きることができるようにしてください。聖霊を遣わし私たちの内にあなたの愛を実現させ、私たちを通して主イエスのみ業が証しされるようにしてください。
主の御名によって祈ります。アーメン。
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