1.三位一体の神
(1)「化け物」のような神?
教会暦に従って行われる今日の礼拝には「三位一体の主日」と言う名前がつけられています。少し前、日本の首相が推し進めようとしていた政治改革をよく「三位一体の改革」とマスコミは呼んでいました。一般の人には三位一体と言うとその方が馴染み深いのかもしれませんが、本来この名称はキリスト教会が使っていた独特の用語で、私たちの信じる神を説明するために生み出された用語です。この三位一体の教理を言葉で説明するのは簡単なことではありません。ある辞典を調べると三位一体について「本質(実体)として唯一である神が父と子と聖霊と言う三つの区別された位格(自立存在、ペルソナ)であると言うキリスト教の重要な教理を言い表す語」と説明されています。この言葉は直接、聖書には登場していませんが、聖書を通してご自身を紹介されている神について私たちキリスト教会が信じ、理解している内容を表す神学用語と言えます。
だいぶ以前に家に訪ねて来たエホバの証人の人とこの三位一体の教理ついて論争したことがありました。皆さんもご存じの通り、このエホバの証人はこの三位一体の教理を信じていませんから、彼らはキリスト教会ではないと私たちは考えています。そのエホバの証人の方が「こんな化け物みたいな神をあなたは信じているのですか」と私に向かって言われたことがありました。確かに人間の論理を超えた、神秘的な神の存在を私たちは簡単に自分たちの使っている言葉で表現することはできません。しかし、それが「化け物」だと考えるのは、海の上を歩いてやって来たイエスを、あるいは復活されて鍵のかけられた部屋の中に突然現れた復活のイエスを「幽霊だ」と勘違いした人々と変わりがないのではないでしょうか。真の神は私たち人間から見れば私たちとはかけ離れた異質な存在なのです。ですから、私たちの持つ理性で神のすべてを正しく把握することは不可能だと言えるのです。
(2)私たちを救うために働かれた三位一体の神
それではどうしてキリスト教会においてこの三位一体の教理は最も重要な教えとされて来たのでしょうか。それはこの教理が成り立たなければ、私たちの救いは不完全なものになってしまうからです。言葉を換えれば私たちの救いはこの三位一体の神が働かれることによって実現したと言ってもよいのです。キリスト教会の歴史の中でこの三位一体の教理が成立していった背景を学ぶと、私たちの救いの確かさ損なおうとする異端の教えと戦う中でこの教理がキリスト教会に受け入れられていったことが分かります。
父なる神の計画に従って、御子イエス・キリストはこの地上に来て、私たちの救いを実現してくださり、その救いを私たち一人一人に聖霊は分け与えてくださるのです。ですから、この三位一体の神の働きかけによって、私たちは今、救われた者としてこの礼拝に集っていると言えるのです。
今日の箇所ではこの三位一体の神を表現する「父と子と聖霊の御名」という言葉が登場します。そしてこの三位一体の神に救われた私たちはどのような使命をゆだねられ、またこの神とどのような関係の中で生きるのかがここでは教えられているのです。
2.疑いを晴らすもの
(1)疑う者もいた
今日の聖書の箇所はマタイによる福音書が語るイエスの復活物語の続きの部分です。28章の最初の部分で日曜日の朝、イエスの葬られた墓に向かった婦人たちはその墓で白い衣を着た天使たちに出会い次のような言葉を聞いています。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』(7節)。そしてその後すぐに、彼女たちは今度は復活されたイエス自身にお会いして、同じように「「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と告げられます(10節)。天使もイエスも同じようにここで弟子たちとイエスとのガリラヤでの再会の約束を語っています。そこで今日の箇所の舞台は一転してこのガリラヤに変わり、弟子たちとイエスとの再会の物語が語られているのです。
「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」(16節)。
ガリラヤはイスラエル東北部にある地方で、イエスと弟子たちの活動の拠点としてたびたび登場してきました。また、山と言う設定はこのマタイによる福音書においては、有名なイエスの山上の説教が語られた場所であり、またイエスの神性が弟子たちに示された山上の変貌の物語が起こった場所でもあるのです。この福音書にとって、山と言う場所はイエスからいつも重要な教えが示されるところであるとも言えるのです。イエスの指示通りにガリラヤに戻り、この山にやってきた弟子たちでしたが、福音書ここで興味深い言葉を付け加えています。
「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(17節)。
復活されたイエスに出会い、彼の前にひれ伏す弟子たち、しかし、そのような出来事の中でもまだ「疑う者」がそこにはいたと言うのです。ここでは誰が何を疑ったのかと言うことが明確には記されていません。しかし、「疑う者」と言う言葉は複数形で表現されているのです。ですから、十一人の弟子たちの誰か一人が、あのトマスの物語のように(ヨハネ20章24〜29節)疑っていたと言うのではないのです。イエスの姿を目の前に拝しながらも、複数の弟子たちの心には疑いが残されていたと言っているのです。
(2)二つの方向に裂かれた心
この「疑い」と言う言葉はもともと「心が二つの方向に裂かれた状態」を表す言葉だとある聖書の解説書に記されています。「信じたいけど、信じられない」、人間の心が二つの事柄の間で揺れ動くのです。つまり、「疑い」と言う出来事は信じようとする者に起こる現象であり、最初から信じようとしない人には「疑い」は生じないのです。この「疑い」の状況をよく表現するのはマタイ14章に登場する弟子のペトロに関する物語です。
ここでペトロは湖の上を歩いて来られるイエスに、「わたしも同じように湖の上を歩いてそちらに行かせてください」と願い出て、それが許されます。そして、ペトロは最初、湖の上を歩くことができたのですが、強い風に気がついて恐怖感を覚えると水の中に沈んでいきます。ペトロはここで「イエスの元に行きたい」と言う思いと「強い風」に対する恐怖の二つの出来事に直面し、疑いの状態(31節)に陥ってしまったのです。
「疑い」はこの地上に生きる信仰者が必ず抱えなければならない問題です。私たちはイエスを信じようとする中で様々な問題に出会い、心が二つの方向に裂かれて苦しむのです。しかし、主イエスはそのような私たちを、「お前はまだ、そんなふうに疑っているのか。それでは私の弟子として認めることはできない」とは言われないのです。主イエスは私たちが完璧な人間になったから弟子にしてくださるとは言っていないのです。
それでは私たちの抱えるこの「疑い」はどのような形で解決されていくのでしょうか。聖書は続けて語ります。「イエスは、近寄って来て言われた」(16節)。私たちの「疑い」を解決してくださるのは、私たちではなくイエスであると聖書はここで語るのです。イエスは「疑い」を抱きつつも、主の前に集まる私たちに近づいてくださり、私たちの疑いを解決してくださるのです。
3.イエスの宣教命令
(1)イエスの権能
それではイエスは具体的に私たちのこの「疑い」をどのように解決してくださるのでしょうか。それは私たちがイエスの弟子として、イエスの命令に従うことでそれをしてくださるのです。
「自信がないので、できない」と私たちはよく考えます。しかし、そうだからと言って何もしないままでは、私たちはいつまでも自信をつけることができません。不安を覚えながらも私たちは物事に着手して、その中で少しずつ成功経験を積んで自信をつけていくのがわたしたちではないでしょうか。イエスは私たちが不完全な人間であることを知っています。だからこそ、イエスは私たちを弟子として召し、訓練してくださるのです。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(18節)。
「権能」と言う言葉は私たちの教会が持っている教会の憲法の中で何度も登場する言葉です。教会役員はこのイエスが持っている権能を実際に地上で行使するために神様によって選ばれた人々だと憲法は教えるのです。イエスには天と地の一切の権能が授けられています。しかし、教会役員が行使するように求められているのはその権能の中でも「人を救いに導くため」の権能であると言えます。ですからこの物語に語られているのはこの教会憲法の根拠となる出来事だとも言えます。
(2)すべての民を弟子とせよ
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(19〜20節)。
イエスは弟子たちにすべての民を弟子とするようにと命じています。そしてそのために父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい、そして命じておいたすべてのことを守るように教えなさいと言われているのです。
私たちにゆだねられている使命はすべての民を弟子とすることです。そしてそのために教会は信仰を告白する人々に洗礼を授けます。「父の子と聖霊によって」と言う言葉は「父と子と聖霊の中に」とも訳せる言葉です。そして「洗礼」は「沈める」と言う意味を持った言葉です。つまり、この文章は「父と子と聖霊の中に沈めなさい」と言う意味にもとれる言葉なのです。私たちが受ける洗礼は、私たちが父と子と聖霊の神の愛と命の中に私たちの存在が沈められたことを意味するものです。ですから私たちの存在がこの三位一体の神にしっかりと結びつけられたことをこの洗礼は表しているのです。
そして、教会は毎週の礼拝で行われる説教を通して、この洗礼を受けた人々にイエスの命令を教え続けるのです。私たちの教会の活動は、ここで語られているイエスのみ言葉に基づいて続けられていることが分かるのです。この命令は教会役員だけに向けられているのではありません。イエスの弟子とされた私たちにすべての教会員に向けられているのです。なぜなら、私たちの信仰的な成長はこの命令に従うときに実現していくからです。教会役員はむしろこの教会のすべての人に命じられているイエスの命令が実現することができるように、教会を導く勤めを神様からゆだねられていると言ってもよいでしょう。
4.イエスの約束
それでは私たちはこのイエスの宣教命令に答えることによってどうなっていくのでしょうか。イエスは次のように私たちに約束してくださっています。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)。
イエスは私たちがどこに行っても、そしていつも一緒にいてくださると約束してくださるのです。そして、イエスの命令に従って生きる者はこの約束が事実であることを知ることができるのです。聖書に記されている使徒言行録は、この命令に従った弟子たちの活動の記録であると言えます。私たちがこの使徒言行録を読むときに分かるのは、使徒たちは困難な活動の中で主イエスが自分たちの共に生きていてくださることを確信していったと言うことです。
「疑う」と言うことで先ほどトマスの物語に触れました。「目で見て、触れなければ信じられない」と考えたトマスをある人は科学的実証主義に依存する現代人に近い存在と語りました。しかし、このトマスの疑いを解決したのは科学的実証主義でなく、トマスの前に現れ、彼に近づいてくださったイエスご自身だったのです。
キリスト教会の伝説によれば、このトマスはこの後、イエスの宣教命令に答えて、遠くインドまで行って、そこで殉教の死を遂げたと伝えられています。インドには今も、トマスの名前がつけられた古い教会が残っていると言うのです。伝説の真偽はともかくとして、トマスや他の使徒たちも、イエスの復活後、すぐ完璧な弟子に変えられたのではいと思います。皆、この宣教命令に答えて歩み出したとき、イエスが共にいてくださることを身近に感じることができ、その確信の中で成長していったのです。そしてイエスはこの礼拝に集まる私たちにもこの招きを与えてくださっています。「疑い」を持つからだめなのではありません。すべてを解決してくださるのは主イエスなのです。大切なのはそのイエスの招きに答えて、彼にと共に歩む信仰生活を続けていくことにあるのです。
【祈祷】
父、御子、御霊の聖なる神様
私たちを救うために表された大いなるみ業を心から賛美します。その私たちにイエス様は命令を与えてくださいました。すべての民があなたの弟子となるように、私たちを遣わしてくださるあなたは、その私たちを導きて、強めてくださいます。私たちが心からあなたの命令に従うことができるようにしてください。そして、あなたがいつも共にいてくださることを確信することができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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