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礼拝説教 桜井良一牧師
人々の不信仰に驚く

(2009.07.05)

説教箇所:マルコによる福音書6章1〜6節

1[そのとき、]イエスは故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
2安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
3この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
4イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
5そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。6そして、人々の不信仰に驚かれた。
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。

1.都合のいい故郷の人々
(1)神は何でもできるのではないか

 いろいろな方と神様や信仰について話すときに必ずと言っていいほど登場する話題は「本当に神様がおられるなら、なぜ世界はこのように矛盾に満ちているのか」、「どうして神様は世界の悲惨なできごとを放っておかれるのか」と言ったたぐいの話題です。皆さんもおそらく、このような質問を向けられて一生懸命になって答えたり、あるいは答えに困ってしまったと言う経験があるのではないでしょうか。
 この質問には聖書を通していろいろな側面から説明をすることができると思います。世界の歴史は私たち人間の目から見れば、人類崩壊に向かって真っ直ぐに進んでいるように思えるほど矛盾と問題に満ちています。しかし、聖書が教えるように世界の歴史は神様の救いの計画の完成に向かって進んでいますし、その計画を実現するために救い主イエス・キリストが私たちのために現れてくださったと言えるのです。
 しかし、先ほどの質問についてもう一度よく考えて見るならば、これらの質問者の背後には「神様がその力を使えば、今すぐにすべての問題は解決されるはずではないか」と言う質問者の思いがそこに隠されているように思えます。確かに聖書は私たちの信じる神を全知全能と教え、そのみ業には不可能なことはないと教えています。ところが今日の聖書の箇所を読むと、神の御子であり、神ご自身であるはずの救い主イエス・キリストが「何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(5節)と言う出来事が生じています。いったいここでは何が起こったと言うのでしょうか。どうしてイエスの力はそこでは一切発揮されることがなかったのでしょうか。いったい、神がその力を発揮することができない、そんなことが本当に起こりうると言えるのでしょうか。今日はこの箇所から、私たちの信仰と神様のみ業の関係について少し考えてみたいと思います。

(2)拒まれるイエスの歩みと成就する救いの計画

 まず、私たちが今日、読もうとしているマルコによる福音書の6章の前の5章には、先週の礼拝でも読んだように、12年間もの間出血の止まらなかった女性の病がイエスによって癒された物語が記されています。またさらには会堂長ヤイロと言う人物の娘が病に冒され、死んでしまったのですが、その娘を生き返らせると言うイエスのなさった奇跡の物語が記されています(21〜43節)。実はこの物語の前にもマルコは悪霊にとりつかれ、人々から見放されていた人物をイエスが癒されたと言う物語を紹介しています(1〜20節)。つまりこの5章の部分を読むと、イエスが悪霊を追い出す力を持ち、どんな医者も癒すことのできない不治の病と人間が考えられるような病を癒し、死んだ娘を生き返らせる力を持っておられる方であることが紹介されているのです。
 この5章ではイエスの御業を阻む者はこの地上になく、このイエスの出現によって神の国はいよいよ実現されようとしていると考えてもいいような輝かしいイエスの業績が記されています。ところがどうでしょうか、一転してそのイエスの歩みがこの6章では立ち止まってしまっているのです。聖書の解釈者たちはここにやがてユダヤ人の反対を受け、十字架にまでかけられてしまうイエスの歩みを暗示するような出来事が始まっていると解説しています。つまり、ここには私たち人間の目から見ればイエスの伝道が失敗したかのように見られる出来事が起こっていますが、イエスの十字架の出来事に向かって進む神様の救いの計画が少しずつ実現される姿が語られていると言ってもよいのです。

2.どこから答えを求めるか

 それではいったい、イエスの故郷で何が起こったと聖書はここで語っているのでしょうか。

「イエスは故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた」(1〜2節)。

 イエスの故郷はガリラヤ湖の南西方向にあったナザレと言う小さな村でした。イエスは自分が育ったこの村に帰られ、安息日に神様を礼拝するために会堂に入って、そこで故郷の人々に教えを語り始められたと言うのです。おそらく、イエスについての様々なうわさを故郷の人々はすでに耳にしていたのではないでしょうか。「そのうわさの主が帰ってきた」と言うことで、故郷の人々は好奇心を持って会堂に集まりイエスの言葉に耳を傾けたのです。

 「多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」」(2節)。

 故郷の人々はイエスの教えを聞いて「驚いた」と言うのです。この言葉、6節に記されているイエスが故郷の人々の「不信仰に驚かされた」と言うときの「驚き」とは原語では全く違った言葉が用いられています。故郷の人々の驚きは「我を忘れる」と言う意味での驚きで、イエスの場合は「目を疑った」と言う意味での驚きです。イエスの場合の驚きはしっかりした判断が前提としてあるのに対して、この故郷の人々の驚きはその判断さえも忘れてしまうような驚きであったことがわかります。
 イエスの教えとその御業のすばらしさを故郷の人々はここで理解しています。そしてその理解は彼らに次のような問いを抱かせたのです。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」。イエスの教えと御業の意味するところは何か、どうしてイエスはこのような教えと御業を行うことができるのか、そもそもイエスとはいったい何者かと言う疑問です。誰もイエスに出会い、そのイエスの教えと行いを知るときこの問いを心に抱かざるを得ません。その点で故郷の人々の問いは正しいものでした。しかし、彼らはその問いの答えを導き出すところで大きな誤りを犯してしまうのです。

 「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(3節)。

 故郷の人々がその問いに答えるために用いたのは自分たちが持っていた限られた知識と経験でしかありませんでした。故郷の人々はイエスが長い間、このナザレの村で父親のあとを継いで大工として働いていたことを知っていました。また彼の家族も自分たちがよく知っている知り合いだったと言うのです。そしてその自分たちの経験から判断すれば「イエスは私たちと何も変わらないただの人間ではないか」と言う答えが導き出されるのです。
 私たちが限られた自分の知識や経験、さらには人間の生み出した科学によって神様について、またイエスについて判断を下そうとするなら、私たちもまたこの故郷の人々と同じような過ちを犯すことになります。なぜなら、私たちの神は私たちの知識や経験の外側におられる方だからです。ですから私たちが神について正しく理解するためには、神の御言葉である聖書と、聖霊の助けを必ず必要とするのです。ところが故郷の人々はそこに答えを求めることなく、自分たちの持っていた知識や経験をよりどころにしてしまったので、イエスを正しく理解することができなくなってしまったのです。
 「このように、人々はイエスにつまずいた」(3節)と聖書はこのように故郷の人々の行動を結論づけています。この「つまずいた」と言う言葉は、日本語では「ころぶ」と言ったような軽い意味にとられますが、この聖書の言葉はむしろ「わなにはまった」と言う意味を持つ言葉でもっと強い意味を持っています。罠にはまったら最後どうすることもできません。命を失う危機につながります。故郷の人々の犯した過ちは致命的なものであったと聖書は語っているのです

3.どうして奇跡を行えないのか
(1)どうして預言者は敬われないか

 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた」(4節)。

 確かに旧約聖書を読んでみても、そこに登場する預言者たちの多くは故郷の人々には敬われないばかりではなく、かえって迫害されています。その理由は、故郷の人々はそもそも彼らを預言者として認めていないからです。つまり彼らが語っているメッセージが神様からのものであることを認めていないのです。なぜなら彼らの語るメッセージは故郷の人々にとって決して都合のよいものではなかったからです。預言者たちの語るメッセージはそのほとんどが人々に悔い改めを迫るものでした。人は自分の経験や知識を肯定されることを望みますが、それを否定されたり、攻撃されることを好みません。だから預言者たちの語る神様のメッセージは彼らにとって好ましくないものなのです。しかし、だからこそ神のメッセージには私たちを新しく造り替えることのできる力があるのです。預言者はまさに、この世界も人間もなしえることのできない神の救いの計画を語り続けたのです。

(2)信仰のないところでは

 「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(5節)。

 この箇所に来て、私たちは大きな謎に遭遇します。ここでイエスにできないことがあると聖書は語っているからです。どうしてイエスは故郷では何もできなくなってしまったのでしょうか。その原因を聖書は続けて語っています。「そして、人々の不信仰に驚かれた」(6節)。原因は故郷の人々の不信仰にありました。イエスはこの故郷の人々の不信仰のためにそこでは何もできなくなってしまったと言うのです。ここで明らかになるのはイエスの御業は人間の信仰に呼応する形で実現していると言う点です。言葉を換えれば、イエスの御業は私たちの信仰に答える形で実現されていると聖書は教えるのです。
 前回学びました箇所でも十二年間の出血の病に苦しめられた女性の癒しの箇所では、イエスによってその女性の信仰が褒め称えられています。また、ヤイロの娘の癒しの箇所では人間の手の届かない死の世界に旅立った娘を助けるために、父親ヤイロにはイエスを信じる信仰が求められていました。つまり、これらの驚くべきイエスの御業には、常にその当事者たちの信仰と関係づけられていることが分かるのです。
 「どうして神がおられるのに世界はこんなに問題に満ちているのか。すぐにでもその力を使ってすべての問題を解決したらどうなのか」と語る人がいます。しかし、神様は世界の救いが実現するために私たち一人一人の信仰を要求されています。私たちの意志とは全く関係なしに世界を完成に導くのではなく、私たちがその救いの歴史の中に自らの意志を持って参加することを神様は求められるのです。
 神様はすべてをご存じならば、どうして私たちは自分の口で貧しい祈りを捧げる必要があるのだろうかと言う質問があります。私たちの意志とは無関係に神様は自分でよいと思われたことをすればよいのではないかと考えるのです。しかし、神様は私たちの貧しい言葉で捧げられる祈りを待ち望まれています。私たちの祈りとは無関係にその御業を成し遂げることを神様は望まれてはいないと言っているように、聖書は私たちに徹底して神様に祈ることを勧めているのです。
 もちろん神様には不可能なことは無いと言えるでしょう。神様は人間の手伝いが無ければ何もできない方ではないからです。しかし、その神様は私たちの信仰を求められるのです。私たちが神様の招きに信仰を持って答えることを待っておられるのです。そして、その信仰に答える形で神様はこの地上にその御業を実現してくださるのです。

4.私たちの信仰を求められる神

 私たちは信仰や祈りを何か他の目的を実現させるための手段と考えているところがあります。だからもっと簡単な手段がないか、できればそれなしでもよいのではないかとも考えることがあるのです。しかし、神様が私たち人間に信仰を求められるのです。これはどうしてでしょうか。
 それは私たちが神様に造られたときの状況に立ち戻って考えるなら分かります。なぜならば人間は神様に向けて、神様と向き合い、愛し合う存在として神様から造られた者たちだからです。神様は私たち人間が神様と関係を持ち、信仰を持って神様に答えるために最初から造ってくださったのです。ところが人間の世界に罪が入り込み、私たちの存在が罪によって変質してしまったことにより、この交わりは絶たれてしまい。神と人間との正しい関係が失われてしまったのです。信仰はこの失われた神様との交わりが回復されることによって、私たちに与えられるものです。
 対話が無く、信頼関係の無い家族はお互いを愛し合うことができません。同じように祈りもなく、信仰もない神様との関係は無意味なものなのです。神様は人間とそのような関係を望んではおられないのです。私たちの信仰は神様との生きた、愛の交わりにおいてもっとも大切なものなのです。神様はその信仰を持って向き合う私たちに、ご自身を豊かに示し、その御業を現してくださるのです。ですから今日のこの物語はその前の5章の物語と同様に神様と人間の関係の中で信仰がどんなに大切であるかを教えいるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
全知全能であるあなたは、その尊い計画を実現するために私たちの信仰を必要としてくださいました。私たちがその救いの計画に加わることをよしとしてくださいました。私たちが私たちの信仰を強めてください、私たちの祈りを強めてください。あなたの御国が実現されるように、私たちの心をいつもあなたに向かわせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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