1.休めない弟子たち
(1)宣教旅行から帰って来た弟子たち
イエスによって宣教の旅に出発した弟子たちが帰って来たところから今日の聖書箇所は始まっています。ここでその弟子たちの報告を聞いたイエスは彼らに「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」としばらく休息を取るようにと彼らを促しています。先日も学びましたように弟子たちの旅は決して簡単なものではありませんでした。むしろ、イエスは旅に出発する弟子たちに様々な指示を送り、通常の旅とは違い厳しい条件のもとで宣教活動を彼らが行うようにと命じられたのです。その意味でこの旅は弟子たちにとって相当の緊張を強いられたものであったと思います。人間は緊張しているときにはわかりませんが、その緊張が解かれたときどっと疲れが襲うことがよくあります。ですからイエスはそのような弟子たちの状態を察してこのような指示をされたのかもしれません。しかし、この物語はイエスの指示が現実には実現不可能となっていったことを続けて語っているのです。
だいぶ以前、牧師の集まりで私が飛行機に乗ることが好きではないので、外国旅行をする決断がなかなかつけられないと言う話をしたことがあります。するとそこにおられた一人の先輩の牧師が「自分は外国旅行に行くときに飛行機に乗って、その飛行機が空港の滑走路から離陸する瞬間、なんとも言えない平安な気持ちになる」と言われたことがありました。その理由を尋ねてみると「これで誰からも電話はかかってこないと、ほっとできる」と言うのです。なるほど、どんなに休みの日でも教会にいれば誰から電話がかかって来る可能性があります。そうするとせっかくの休みの日でも牧師は突然、難しい現実の中に再び呼び戻されることになります。私もそういう経験を度々して来ました。ですから外国に行ってしまえば、その電話から解放されると言うのです。もっとも、最近は携帯電話の機能がよくなって海外にいても連絡を受けることがすぐできるようになっているようです。
(2)休息がどこかに行ってしまう
聖書には「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである」とこのときのイエスと弟子たちの状況が記されています。少しでも、このような状況から解放されるためにイエスは「人里離れた所へ」弟子たちを送る必要を感じたのでしょう。
しかし、結果的に彼らの休息は実現されることがありませんでした。なぜならば彼らを群衆が追いかけ、先回りして彼らの到着を待つと言う出来事が起こったからです(33節)。実はこの後、イエスによる五千人の人々への食事を与える奇跡物語が記されています(35〜43節)。ここでイエスは弟子たちを休ませようとするのではなく、むしろこの出来事に深く関わらせて、彼らを働かせているのです。弟子たちの休息はどこに言ってしまったのか。イエスは弟子たちの体のことを真剣に心配していなかったのかと、様々な疑問が生まれてきます。夏休みも間近に迫り、いろいろな計画を私たちも立てる時期になりました。そこで今日は、聖書から私たちにとっての「休み」、「休息」の意味と救い主イエス・キリストとの関係について考えてみたいのです。
2.本当の休みとは何か
(1)日曜日の礼拝も休みにすべきか?
これもだいぶ以前のお話ですが、ちょうど今のように夏休みがもうすぐ始まろうとしているときに、教会に通って来ていた一人の婦人からこんな提案をされたことがありました。「先生、夏休みで教会に集まって来る皆さんもいろいろな計画があると思います。ですから教会の礼拝に出席する人も少なくなる可能性があります。日曜日の礼拝もしばらくの間、夏休みにしたらいかがでしょうか」と。私はこの提案を聞いてかなりショックを受けた記憶があります。だから今でもこの婦人の提案を忘れることができないのです。どんなことがあっても、日曜日の礼拝が休みになることはないと、私はキリスト者になってから当然のように考えて来ました。そしてそれを当然とは思わない人に遭遇したのです。しかし、そこで私は「教会の礼拝はどんなことがあっても休みになることはありません」とその婦人に話しながら、その理由について十分に説明できなかったような記憶があるのです。何しろ私はいままでその理由が必要ないほどに日曜日の礼拝には休みはないと言うことを当然だと思っていたからです。皆さんがこのような提案や質問を誰から受けたときにどんな説明をされるでしょうか。確かに心身の疲れを癒すために私たちは休息を必要としています。しかし、教会はそのような疲れを覚える人のために日曜日の礼拝を休みにして、休息の時間を提供すべきなのでしょうか。
イエスは聖書の中でこのように語っています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章28節)。これは私たちを招くイエスの言葉です。日曜日は私たちがこのイエスの招きに答えて神様の御前に集まる日なのではないでしょうか。この日を休みにしてしまったら、私たちはいったどこでこのイエスの提供する休みに与ることができるのでしょうか。
(2)
皆さんはたぶん、聖書に記されているイエスの語られた有名なたとえ話を知っていると思います(ルカによる福音書12章16〜21節)。一人の金持ちがいました。彼は自分のために一生懸命に働き、自分の畑が豊作となったために、その穀物をしまう場所さえ足りなくなりました。そこで、彼は古い小さな倉を壊して、新しい大きな倉を建てて、穀物をすべてそこにしまい込んだのです。そして彼はこう言うのです。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」(19節)。彼は自分の休みのために一生懸命準備をして、その休みがいよいよ実現することを喜んでいます。ところがどうでしょう彼はその晩に死んでしまう定めにあったと言うのです。そのために彼が一生懸命に準備したものは彼にとって全く意味がなくなってしまうのです。
このたとえ話は決して、私たちが休暇を取ることを非難したり、禁じているのではないと思います。むしろ、私たちは何のために生きているのかを問うのです。そして休みを取るためにだけに、私たちは働いているのではないと言うことを教えているのではないでしょうか。ギリシャ語で「休み」はアナパウオーと言う言葉が使われます。これはアナ「後ろへ」とパウオー「終わらせる」と言う言葉の合成語だそうです。確かにこの言葉には今までやってきた作業を中断させると言う意味があるようです。しかし、イエスの生涯にとってこの「中断」は単なる中断ではなかったようです。イエスはここで弟子たちに「人里離れた所へ」行きなさいと命じていますが、別の機会にイエス自身がこの「人里離れた所に」行ったのは父なる神に祈りをささげるためだったと聖書は記しています(マルコ1章35節)。このようにイエスの休息には祈りが必要だったのです。そこでアナパウオーと言う言葉には別に「元気づける」(フィレモンへの手紙7節)と言う意味があることを私たちは覚えるべきだと思うのです。聖書の語る「休み」は私たちに時間的な中断を提供するだけではなく、「元気をづける」ためのものだと言えるのです。
3.牧者のいない群れ
このとき弟子たちの休息は群衆によって妨げられてしまいました。しかし、イエスはこの群衆を見て次のように考え、行動したと聖書は記しています。
「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(34節)。
イエスは目の前につめかけるたくさんの群衆を見て、彼らが「元気づけられる」必要を感じたのです。彼らに本当の「休み」を提供する必要があることを感じたのです。ですから弟子たちの休息の中断は、このイエスの提供する真の休みのために中断されたと言えるのです。
ところでイエスは群衆の姿を見て「飼い主のいない羊」のように感じたとここで語られています。だからイエスは彼らを「深く憐れまれた」と言うのです。聖書において羊は羊飼いの導きがなければ生きていけない動物として描かれています。羊飼いの手から離れた羊は荒れ野でのたれ死にするか、獣に襲われて殺されるか、いずれにしても生き続けられる可能性はなくなってしまうのです。
旧約聖書に登場する預言者エレミヤは神様からイスラエルの民を導く使命を与えられた王様がその使命を忘れて、私利私欲のためにむしろ羊たちを自分の食い物にしている姿を批判しています。そこで神様はそのような王たちに代わって、自分自らがイスラエルの民の羊飼いとなられることを預言しています。その上でこの預言を実現させるためにダビデの「若枝」(23章5節)、「主は我らの救い」(同6節。新共同訳の古い版では「主は我らの正義」と訳されていた)と言う名前の方が遣わされることがこの箇所で約束されているのです。この部分は旧約聖書が伝えるキリスト預言が明確に記されている箇所の一つです。そしてこの預言に従ってイエス・キリストが現実に地上に遣わされ、マルコはこの預言の通りに真の羊飼いが神様から送られたことをこの箇所で説明しているのです。
イエス・キリストは父なる神様から遣わされた真の羊飼いとして、その羊を守り導き、命へと導かれます。命の源のである神様から離れてしまった私たちを探しだし、神の元に返してくださるのです。ですからのたれ死にするしかなかった羊を命へと回復させてくださる方こそ、私たちの救い主イエス・キリストなのです。
4.神の憐れみを示すために来られたイエス
さて、私たちは今日のお話で「休息」について、「休み」について考えてきました。そして本当の休みとは単なる作業の中断である時間的な休みだけではなく、元気づけられることが必要であると言うことを学んだのです。そして私たちを元気づけるために神様の元からやって来た方こそ、真の羊飼いである私たちの救い主イエス・キリストであることについても今、触れました。
そこで最後にそもそも、私たちはなぜ「休み」を必要としているかと言うことについて、もう少し聖書から学んでみたいのです。なぜなら、私たちの感じている「疲れ」には単なる時間的な中断である休息では決して癒されることのできない深刻な問題が含まれていると言っていいからです。旧約聖書は神様の前で罪を犯した私たち人類の始祖アダムとエバの物語の中で、神様が彼らに語った次のような言葉を記しています。
「神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3章17〜19節)。
この物語に従えば、私たち人間が罪を犯して神様から離れてしまったときに、私たちを取り囲むすべての世界の性質がすべて変わってしまったことが説明されています。本当だったら私たちに喜びと祝福を与えるために作られた世界が、私たちを苦しめ、疲れさせるものになってしまったのです。ですから私たちの感じる疲れは、人間がおかれているこの罪の呪いから来る深刻な疲れだと言えるのです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と語られるこのイエスの招きは、イエスの救いによって私たち人間が罪の呪いから解放されるときに実現する真の休みを提供しています。また、キリストは私たちを毎週、教会の礼拝に招くことで、私たちの思い煩いから生じる疲れを取り去り、神様が準備してくださった祝福された人生に私たちを導こうとされているのです。ですから私たちに必要な「中断」はまさに、このためにあることを今日も覚えたいのです。
【祈祷】
天の父なる神様。
私たちに真の羊飼いイエスを与えてくださりありがとうございます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。どうか私たちを罪の重荷から解き放ってください。そしてあなたを信頼して生きることで、思い煩いからも解放され、あなたの与えてくださる喜びと祝福の中に生きることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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