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礼拝説教 桜井良一牧師
「祝福の道」

(2009.07.26)

説教箇所:詩編1編1〜6節

1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
5 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

1.詩編を読む
(1)
神を賛美する詩

 今日の聖書箇所である詩編1編を読む前に、そもそも詩編とはどのような書物かについてここで簡単に触れて見たいと思います。詩編はその題名から分かるようにたくさんの「詩」を集めた書物です。ただ、ここに集められた詩は信仰の詩、あるいは歌と言ってもよいと言う点で一般に知られている詩集とは大きく違っています。日本キリスト改革派教会は先頃、『ジュネーブ詩編歌』と言う讃美歌集を発行し、教会の礼拝で歌うようにと大会で定めました。このジュネーブ讃美歌は宗教改革者ジョン・カルヴァンに由来する古い讃美集の一つです。カルヴァンは私たちが礼拝で神に讃美を捧げるときにこの詩編を歌うことが一番ふさわしいと考え、この詩編歌集を作ったのです。――その理由については機会があったらいつか詳しく学びたいと思います。――このことからも詩編が神を賛美するために作られた歌であると言うことが分かります。
 ただ、興味深いのは詩編の内容が単に「神はすばらしい」と言う言葉だけで作られていないと言うことです。もちろん、詩編の結論は神の素晴らしさを歌い、またその神に信頼することの大切さを教えていることは確かです。しかし、この詩編には信仰者の「うめき」と言ってもよいような言葉もたびたび登場します。まぎれもなく信仰の危機とも言える状況の中で神と向き合う信仰者の心の叫びが記されているのです。私たちは何か自分に都合のいいときだけ「神様ありがとうございます」と感謝を献げますが、逆境のときには神様と自分との関係を見失ってしまうことがないでしょうか。詩編はそんな状況に生きる信仰者が神とどのように向き合うべきかについて教えているとも言えるのです。そしてその逆境の中でこそ神の支えが確かであることを歌うのです。このような意味で詩編は私たちの信仰生活とって豊かな助けを与える書物であると考えることができます。

(2)キリストとの関係

 ただ、一つ私たちが注意しなければならないことは、これは詩編以外の旧約聖書の書物にも共通して言えることがですが、この文章には直接私たちの救い主イエス・キリストが登場することがないと言うことです。もちろん、詩編の中にもイエス・キリストを預言するする言葉がたくさん存在していますが、いずれにしても詩編はイエス・キリストがこの地上に来てくださる前に書かれた書物であると言うことは確かなことです。そのような意味で、詩編の中には罪人を救いに導くと言うよりは、罪人の滅びを願う歌や、また敵を呪うような言葉が数々登場します。これらの言葉をどう読むかについて様々な議論が存在するのですが、私たちが忘れてはならないことは詩編をいつもイエス・キリストにある救いを通して読むと言う姿勢です。つまり、私たちはイエス・キリストの救いなしでは、この詩編が滅びを願っている罪人であり、呪われるべき神の敵であったはずなのです。その私が今、神の恵みによってこの詩編を心から喜びをもって賛美することができるようになったと言うことを私たちは感謝すべきなのです。そして、さらに多くの人々がイエス・キリストの救いによってこの詩編を歌う者と変えられることを願う必要があるのです。

2.第一編の主題と目的

 さて、私たちが今日学ぼうとする詩編の第一編はこの詩編全体を取り上げる序論のような位置にある詩であると考えられています。そのため、この一編はおそらく、すべての詩編がここに収められて、編集された後で、最後に作られた詩であるとも言われています。
 皆さんは本を読もうとするとき、著者が記したその本の序論の部分をまず最初に読まれるでしょうか。私は案外、面倒なので序論の部分を抜かして本論から読んでしまうことがよくあります。しかし、本の序論の部分には著者がこの本を記したきっかけや、その経緯、あるいはその本を通して訴えたい内容などが簡単に記されているのです。つまり、序論を読むことによって読者は著者の意図をあらかじめ理解しながら、その本を読むことができるようになるのです。
 膨大な詩編の序論として書かれたこの第一編の役目を考えるとき、この詩の中心となる聖句はやはり「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」(2節)と考えられます。この詩編を愛し、それを昼も夜も口ずさむ人はどんなに幸いかと言うことをまず取り上げて、この詩編を読者が熱心に読み、またその言葉を愛していくことを勧めているのです。もちろん「主の教え」とはこの詩編に限定されるものではありません。元々この言葉は「トーラー」と言う「律法」を示す言葉が使われています。つまり、この言葉は「主の戒めを愛し」と言う言葉にも読み替えることが可能なのです。「律法」や「戒め」と言う言葉を聞くと、とかく私たちは人間を縛り付けるような堅苦しい決まりと考えがちですが、神の戒めはそれとは全く違うとこの詩編は私たちに教えているのです。それではこの「主の教え」、「主の戒め」は私たちにどんな働きをするのでしょうか。詩編の本文からさらにそのことを考えてみましょう。

3.幸いな人とは誰か
(1)この世においては魅力的な生き方

 「いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず」(1節)。

 「いかに幸いなことか」と言う言葉でこの詩編は始まります。この言葉はイエスの語られた山上の説教の言葉と非常に似ています。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」(3節)。この有名なイエスの言葉は日本語の訳では語順が違ってしまいますが、原文ではやはり「いかに幸いなことか。心の貧しい人々」と言う順序で記されています。このイエスの言葉もそうですが、この文章は「どうしたら幸せになれるか」と言う方法を私たちに教えているのではありません。むしろ、「今、心の貧しいあなたは、何と幸いでしょう」と言う祝福の言葉を語っているのです。この詩編の場合も「今、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ者は、何と幸いでしょう」と言っているのです。つまり、この祝福の対象は今、聖書を開いて、その言葉に耳を傾けようとしている私たちに向けられていることが分かるのです。
 さらに主イエスの語られた「心の貧しい者」と言う場合、世間では「貧しさ」は幸せとは全く逆の不幸の条件として考えられていることが前提となっています。「どうして自分はこんなに不幸なのだろう」と本当なら言わなくてはらない状況にある者に、主イエスは「いえ、あなたは不幸ではなく、幸せなのですよ」とこの言葉は教えているのです。詩編の言葉もこれと同じ意味を持っていると考えてよいでしょう。「主の教えを愛しても、それで金持ちになれるはずはないではないか」と世間の人々は語ります。むしろ返って、主の教えを愛して、その主に従おうとするときにこの世では様々な問題を負うことになるかもしれないのです。人々の目から見れば「あんな聖書の言葉に拘るばかりに、なんとかわいそうな生き方をしているのだ」と言われかねない状況の中にいる信仰者に「いえ、あなたたちこそ幸せな人です」とこの詩編は呼びかけていると言っていいのです。

 「神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず」。

 以前の文語訳や口語訳聖書ではこの最初の言葉は「悪しき者」と言う言葉になっていましたが、この新共同訳聖書はそれを「神に逆らう者」と言う言葉にしています。これは新共同訳聖書の訳し方の方がよいと思います。なぜなら、「悪しき者」、「悪人」となると人を困らせる悪行を繰り返す人々と言うイメージになってしまうからです。しかし、ここでの「神に逆らう者」、「罪人」、「傲慢な者」と言う言葉はすべて神様との関係の観点から語られる言葉なのです。つまり、ここで語られている人々はこの世の人々の目から見れば善良で、倫理的な行いを熱心にする人である一方、神との関係から見れば「神に逆らう者」、「罪人」、「傲慢な者」と言うこともできる人々なのです。
 そのような人々に「従って歩まず」、「道にとどまらず」、「共に座らず」と語られていますが、もしそれらの人々が世間の人々から恐れられている、あるいは嫌われている人々なら、わざわざそのような人と共に行動しようとは誰も思わないはずです。しかし、彼らはこの世の目から成功している人、また褒め称えられている人、誰からも認められている人である故にたいへんに魅力的なのです。だから人々はその人たちに「従って歩みたい」、「道にとどまりたい」、「共に座りたい」と思うのです。しかし、「幸いな人」は人々を魅了するそのような人々と共に行動することができないと聖書はここで教えているのです。

(2)主の教えを基準とする

 それはどうしてでしょうか。聖書はその理由を語ります。「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」(2節)。ほとんどすべての人々が「彼らの生き方は最高だ」と賞賛するそのような中で、幸いな人は、その本当の姿を見分ける基準をしっかりと持っています。それが「主の教え」です。どんなにたくさんの人々がそれらの人々の生き方を評価しても、幸いな人は神の目から見てそれは本当に正しいものなのか、自分たちを本当に幸せにするものなのだろうかと言うことを考えるのです。
 以前、『牧師の仕事』と言う題名の本が出版されたことがあります。あるベテランの一人の牧師がその牧師としての経験の中で培って来た知識をその書物に記したのです。ですからその本は牧師が教会で取り組む様々な問題についてどうのように対処すべきかを詳しく説明しています。中には教会員とけんかになったらどのように対応するかと言うことまで書かれています。ところがこの書物の書評をこれも有名な別の一人の牧師が記した文章を読みました。するとその書評にはこんな結論が書かれていたのです。「ここには牧師が身につけなければならない常識が記されている。しかし、残念なことにこの本はその常識が本当に正しいかどうかを聖書の言葉をもって検証していない」と言っているのです。
 私たちが社会人として生きていこうとするときに常識と言うのがどんなに大切であるかと言うことをよく教えられます。確かに牧師も教会役員も常識を身につけることは大切なことです。しかし、忘れてはいけないのはその常識が必ずしも神様の前に正しいかどうかは別であると言うことです。なぜなら、常識にははっきりとした基準がないからです。たくさんの人が歩み、そこに立ち止まり、座り込むところに常識は生まれます。そして、その常識は人々の流れと共にいつも変わってしまうのです。しかし幸いな人はそのような人々とは違った基準、「神の教え」を持って歩むと詩編は教えているのです。

4.すべて繁栄をもたらす

 「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻」(3〜4節)。
 次に詩編は主の教えを愛する人がどうして幸いなのか、逆に神に逆らう者がどうしてそうでないのかを語ります。その答えは命があるかないかの違いです。主の教えを愛する者は、流れのほとりに植えられた木のように命の源である神につながっていますから、決して枯れること、つまり死んでしまうことはありません。その人は永遠の命の中で生きることができます。しかし、神の逆らう者はそうではありません。農家の人は籾殻と実を分けるときには、風を送ってそれを選別します。風を送れば軽い籾殻は遠くに吹き飛ばされ、実だけが残るからです。神に逆らう者の生き方は実のない、籾殻でしかないと詩編記者は言うのです。なぜなら彼らは命の源である神につながっていないからです。
 ここで詩編記者は主の教えを愛する者は「その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」と語っています。とても興味深い表現です。この「すべて」とは「例外なく」と言う意味です。そう聞くと私たちは、本当にそうだろうかと言う疑問を抱きます。なぜなら、自分の信仰生活を顧みるとそんなふうにうまくいっているようには決して思うことが出来ないからです。しかし、この「繁栄」は私たちの目から見える、きわめて限られた繁栄ではなく、神の目からご覧になられる真実の繁栄であることを忘れてはなりません。このところの理解は私たちの教会で昔から大切にされてきたハイデルベル信仰問答の第一問の答えの一部がその意味を理解する助けとなります。

 「(イエス・キリストは)天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、私たちを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。」

 このように詩編の言う「繁栄」とはまさに「わたしたちの救い」が成就することを言っているのです。

5.神に知られている人

 ここで詩編記者は「神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない」(5節)と語ります。誰も主イエスの救いによらなければ神の厳しい裁きに耐えることはできません。私たちの罪は神の御前でことごとく厳しい裁きを受けるからです。しかし、主イエスを信じる者はその主イエスの御業によって罪が許され、罪なき者として神の前に立つことができるのです。私たちはその主イエスの救いに感謝してここに集まっています。しかし、この主イエスの救いを信ずることが出来ない人にとっては、教会生活は意味のないことであるばかりか、自分の生き方を邪魔するものでしかないのです。ところが、主イエスの救いを信じない者は「滅びに至る」と詩編はその末路を結論づけます。
 その一方で詩編は「神に従う人の道を主は知っていてくださる」と語ります。ここで私は「知る」と言うヘブル語の言葉、「ヨデア」と言う言葉を調べて見ると「接触して知る」と言う意味があることを知りました。なぜならこの言葉の最初のヨデと言う部分は「手」と言う意味があるからだと言うのです。つまりこのヘブル語の意味を考慮すれば、神に従う人を神に手で触れてよく知っていてくださると言うことになります。神様は遠くから私たちを眺めて知っていてくださるのではなく、いつも私たちの身近にあって、手で触って私たちを知っていてくだと言うのです。 
 詩編73編の中にはこんな言葉があります。「わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる」(口語訳聖書21〜23節)。
 ここで激しい試練の苦しみの中にある詩編記者は決して模範的な信仰者の姿を維持したのではなく、むしろ愚かで悟りがなく、獣のように神に向かって吠え立てた、不満と嘆きの声をあげていたと言うのです。しかし、誰からも見捨てられた存在であるような詩編記者を、その攻撃の対象であった神様だけがしっかりとその右の手を握っていてくださったのです。だから今の私があると詩編記者は告白しているのです。つかんでいるのが自分の手で、自分の力であればすぐに神から遠ざかって自分の勝手な道を歩み始めるのが私たちです。しかし、神は決して私たちの手を離されない、そのような方であることを私たちはこの詩編記者以上に知っています。なぜなら、私たちは私たちために命を捧げられたイエス・キリストを知っているかです。そしてこの詩編はそのような私たちを「何と幸いな人か」と呼んでいるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 私たちを知ってくださっているあなたに感謝いたします。私たちを決して離すことないあなたの御手の存在を、主イエス・キリストのみ業を通して教えてくださり感謝します。私たちはこの主イエスの御業によって、詩編の言葉を私たちの信仰の歌として歌うことができます。どうかさらに多くの人々が主イエスの救いによってこの詩編の歌を歌うことができるようにしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
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