1.詩編1編との関係
(1)一つの詩編
今日は詩編の第二編について学びます。第二編の一つ一つの言葉を省察する前に、この第二編と前回学び見ました第一編との関係について少し考えてみたいと思います。なぜなら、この第二編と第一編は元々、一つの詩であったものが二つに分けられたのではないかと言う見解が多くの聖書学者たちによって主張されているからです。その一番の根拠はこの第二編の最後を締めくくる言葉に表されています。
「いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて」(12節)。
この文章はこの間学びました詩編の第一編の「いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず/主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」(1節)の文章と同じように「いかに幸いなことか」と言う言葉で始まっているのです。古代のヘブライ人たちは詩を作るとき、最初と最後に同じフレーズを繰り返す技術を使ったと言われています。つまり、その理由から考えると第一編はそのままでは尻切れとんぼで終わっており、この第二編を続けて読めば一つの詩としての形が成立すると言うのです。
そう考えてみると二つの詩には内容的にも深い関係があるようにも思えます。たとえばこの二編の冒頭は「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して/主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか」(1〜2節)と言う言葉が登場します。これは第一編の幸いな人は「神に逆らう者の計らいに従って歩まず」と言う場合の、その神に逆らう者の計らいが具体的に表現されているとも考えられる言葉です。さらに第一編で「罪ある者の道にとどまらず」とも語られていますが、この第二編では「主の憤りを招き、道を失うことのないように」(12節)と人々が誤った道に迷い込まないようにと言う警告が語られています。
(2)神学的な展開
このように二つの詩編が一つの詩であったと言う根拠は、文体や内容だけではなく、さらには神学的な展開においてもうなずけるところがあるのです。私たちは先日第一編の中心的な言葉として「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」(2節)があると学びました。主の教え、「トーラー」を愛し徹底的にそれに従う者こそ幸せな人だとこの詩編は語っていると言いました。しかし、その結論が実は私たちに大きな問題を提起するのです。なぜなら、私たちは本当に主の教え「トーラー」を愛し、その教えに心から従うことができるかと言う問題です。
先日、水曜日の夜の学びで私たち改革派教会の神学的な主張点の一つといえる「全的堕落」と言うテーマについて学びました。私たち人間の最初の祖先であるアダムとエバが罪を犯したとき、私たち人間はすべて堕落して、神に従い、神を満足させる能力を全く失ってしまったと言うのがその教えです。そうなると、私たちは「主の教えを愛せば幸せになれる」と言われても、それができない存在であると言うことになるのです。これでは詩編の主張は人間に実現不可能な理想を語っていることになります。
使徒パウロはこのような存在に堕落した人間の悲惨さをローマの信徒への手紙の7章で次のように語っています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(18〜19節)。そしてパウロは続けてこのような嘆きを語ります。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(24節)。ところがパウロの口調は次の瞬間すぐに変わってこう語っています。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(25節)。嘆きの言葉がすぐに感謝の言葉に変わるのは、主イエス・キリストの救いが私たちのために与えられたからです。罪によって無能力にされた私たちをキリストは救い出し、神の子としてくださるのです。つまり、私たちが「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」となるためには救い主イエス・キリストの存在が不可欠となるのです。
この第二編の中に「主の油そそがれた方」(2節)が語られています。この油注がれた方とはヘブライ語でメシア、ギリシャ語ではキリストと言う言葉で表現されるものです。つまり、この第二編にはイエス・キリストが主題となって展開されるのです。第一編だけでは、私たちは私たちに実現不可能な理想が語られるだけですが、この第二編が語られることによってこの理想は現実のものとなり、私たちは本当に幸いな者となるのです。ですから「いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて」と言う言葉はパウロの感謝の言葉に通じるものであると考えることができるのです。
2.油注がれた者に敵対する人々
(1)誤った自由を求める敵対者
「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して/主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか「我らは、枷をはずし/縄を切って投げ捨てよう」と」(1〜3節)。
数日前、テレビのニュースで「暑くて教会の礼拝に出たくなかった」と考えた少年が両親の自動車を勝手に運転して、警察官とカーチェイスを繰り広げたと言うアメリカでの話が紹介されていました。しかし、この詩編に登場する国々の支配者たちは教会から逃げるのではなく、神様に敵対し、その神が任命した「油注がれた方」に敵対するために結束しています。彼らはなぜそのようなことをしようとするのか、その目的を「我らは、枷をはずし/縄を切って投げ捨てよう」と語ります。彼らにとっては神様も、またその神の御心を地上に実現するために任命される「油注がれた方」も自分たちの自由を奪うものでしかないと考えられているのです。それはどうしてでしょうか。彼らが本当の意味で、油注がれた方、キリストに出会い、その救いに与ってはいないからです。救われていないものにとって、主の教えは私たちを縛るものにしかすぎません。しかし、救われた者にとって神様と神様が遣わされる救い主の存在は私たちに本当の自由を与えるものとなるのです。
(2)実現した預言
ところでこの詩編の言葉は新約聖書の使徒言行録4章に引用されています。当時、生まれて間もないキリスト教会ははやくも大きな問題に出会っていました。ユダヤの議会に引き出されたペトロとヨハネは彼らから「キリストの名によって、今後は何も教えてはならない」と命令され、脅されたのです。この最初の迫害を経験した教会はユダヤ人の脅しに屈してしまったのではなく、むしろ聖書の預言が実際のものになったと言うことを確信し、喜びながらこの詩編を歌ったのです。
『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、/諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、/指導者たちは団結して、/主とそのメシアに逆らう』(25〜26節)。
実際にこの世の権力者であるヘロデやローマ総督ポンティオ・ピラトは救い主イエス・キリストを十字架につけ殺すと言う暴挙を行いました。しかし、それは既に聖書に預言されていたものであり、しかも、神様の計画はその彼らの行動をも用いて地上に成就されたのです。キリスト教会はたとえ自分たちの歩みに不都合なことが起こっても、それらを用いて救いの計画を成就してくださる神様に信頼して歩み続けます。そしてこの信仰の確信は続けて語られる詩編の言葉によって明らかにされています。
3.地上の企てを笑われる神
「天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲り憤って、恐怖に落とし/怒って、彼らに宣言される。「聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた」」(4〜6節)。
地上の支配者たちが自分たちの計画こそ、水も漏らさぬ完璧なものだと確信しているときに、天におられる神様は、その地上の支配者の姿を見て「笑う」と言うのです。この笑うは、声を出して大笑いすると言う意味で、地上の支配者たちの計画が無意味なものであるとともに、返って自分たちへの裁きを確実なものにしていることを表しています。そして天の父なる神の計画はどのような出来事が起こったとしても、決して妨害されることなく、実現するのです。神はその計画を地上に実現するために、油注がれた方を私たちの王としてお遣わしになられたのです。
ローマの皇帝ディオクレチアヌス(245〜313、皇帝在位284〜305)は組織的で、大変に厳しい迫害をキリスト教会に行った人物として有名です。彼はすべての教会の門を閉ざし、すべての聖書を廃棄させ、すべてのキリスト者の集まりを禁止して、その決まりを破るキリスト者の命を容赦なく奪いました。そして「これでキリストの名前はこの地球上から永遠に消え去った」と宣言したのです。ところが皆さんも歴史で習ったと思いますが、このディオクレチアヌスが死んだ年である313年に、新たにローマの皇帝となったコンスタンティヌス帝によってキリスト教はローマの国教とされているのです。
キリスト教会が今もなお、存在し、私たちが神を礼拝するために集まることができるのは、この歴史を導かれる神様のみ業があってこそ可能であることを詩編の言葉は私たちに教えています。
4.イエスによって成就した詩編
(1)イスラエルの王家を讃える詩
「「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし/地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く」」(7〜9節)。
おそらく、この詩編は本来ダビデやソロモンと言った、イスラエルの王を讃え、その王の即位を心から祝う歌として作られたと考えられています。詩編記者にとっては真の王である神のみ業をこの地上で代行するのが地上のイスラエルの王の使命であると考えられているのです。それ故、彼らは人間でありながらも、神様から「神の子」に等しい取り扱い方を受けていると語っているのです。しかし、実際のイスラエルの王家はソロモンの死後には王国が北と南に分裂して、それぞれ衰退を遂げ、滅亡してしまいました。詩編の語る「求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし/地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く」(8〜9節)。決して現実には実現されることがなかったと言えるのです。しかし、それだからこそ、この詩編はイエス・キリストの存在がなければ無意味になってしまう詩なのです。なぜなら詩人の言葉はすべてやがて地上に遣わされたイエス・キリストによって成就されているからです。
(2)
使徒言行録13章の中に記された使徒パウロの言葉はこのことを明確に私たちに証言しています。
「わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、/『あなたはわたしの子、/わたしは今日あなたを産んだ』/と書いてあるとおりです」(32〜33節)。
まぎれもなく、この詩編の中で約束されている油注がれた方、真の王であり、神の子と呼ばれる方こそ救い主イエス・キリストであるとパウロはここで語っています。なぜなら、イエスの復活がこの詩編の言葉を実現させたからです。「求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし/地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く」。神が立てられた王の支配の及ばないところはどこにもありません。またこの王の支配に反抗する力はこの王自身によってすべて打ち砕かれるのです。そのことが明確に実現したのは主イエス・キリストの復活の出来事なのです。なぜなら、主イエスの復活は私たち人間の最終的な敵であった「死」の力を完全に滅ぼされたものだからです。つまり、この詩編に語られている王の支配は地上の、現れては消える王国盛衰史を語るのではなく、イエス・キリストによって立てられる霊的な神の国の支配を語っているのです。ですから、そのイエス・キリストの最終的な戦いを語る黙示録の記事にはこの「お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く」と言うメッセージが繰り返し語られています(12章5節、19章15節)。このようにこの詩編の言葉はイエス・キリストを通して確かに私たちの上に実現しているのです。
5.子に口づけせよ
「すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。畏れ敬って、主に仕え/おののきつつ、喜び躍れ。子に口づけせよ/主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて」(10〜12節)。
詩編記者は主に逆らい、主の油注がれた方に逆らおうとする地上の諸国の王たちが、悔い改めることをここで勧めています。なぜなら、それこそが彼らの救われる唯一の方法であり、本当の自由を受ける道だからです。
「子に口づけせよ」と言うのは、厳密に訳せば「子の足下に口づけせよ」と言う意味です。これは当時の中東地方の習慣に基づくもので、相手に対する絶対的な信頼と服従を表す表現です。私たちが救い主イエス・キリストを信頼し、その方に服従して生きることを勧める言葉となっています。そして、そのような信仰の告白をする者に詩編記者は次のように約束の言葉を語るのです。
「いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて」(12節)。
神が遣わしてくださった救い主イエス・キリストを信じて生きる人こそ、本当に幸いな人であると詩編記者はここで語っているのです。
【祈祷】
天の父なる神様
私たち人間の愚かな計画と行動にもかかわらず、むしろそのすべてを通してご自身の計画を実現したくださるあなたのみ業を心から褒め称えます。私たちのために遣わされた方、イエス・キリストによってあなたの敵はすべて滅ぼされます。しかも、あなたは同じように滅ぼされても仕方のないような神様の敵であった私たちを救い出してくださいます。すべての幸いはそのために地上に遣わされたイエス・キリストにあります。私たちがそこことを確信し、この救いの出来事を語り続けることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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