1.嘆きの詩編
(1)嘆きと信頼
今日、私たちが読む詩編第3編は詩編の分類の中で言えば「嘆きの詩編」と呼ばれるグループに入る詩の一つです。本文を読むとすぐわかりますようにこの詩編の作者は苦難の中に立たされて、自分のおかれている厳しい窮状を神に訴えています。ただ、詩編記者は自分の窮状を訴えるだけではなく、そのような状況に立たされてもなお、神様を信頼し、神様からの助けを祈り求めていることがわかります。
私たちは他人の嘆きの声に耳を傾けることが苦手です。中でも自分が一生懸命がんばっていると考えている人はなおさら、他人が嘆き出すと、「何でそんなことで弱音を吐くのか。何も頑張っていないくせにけしからん」とその人を非難しはじめたりすることがあります。しかし、私たちが他人の嘆きに耳を傾けることのできない一番の理由は、私たちにその嘆きを受け止めるだけの力がないと言うところにあるのではないでしょうか。むしろ、私たちはその嘆きを訴える人の問題に自分までが引きずり込まれてしまうことを恐れます。しかし、私たちの神様はそのような方ではありません。神様は私たちの嘆きの声を受け入れることができますし、その嘆きの原因である問題を解決する力を持っておられるのです。詩編記者が自分の嘆きの言葉を素直に、そして大胆に神に向けて語るのは、神様ならこの嘆きの問題を解決してくださることができると言う信頼の心の現れでもあると言えるのです。
(2)朝の歌
ところでこの詩編3編は6節の「身を横たえて眠り/わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます」という言葉が有名で、この言葉からこの詩編は「朝の歌」と多くの人々に呼ばれています。厳しい苦難の中にあっても、詩編の作者は眠ることができます。そして彼は朝、目覚めるときに自分を夜の眠りの間も支えてくださっていた神様を褒め称えているのです。ついでに、この詩編に続く第4編の9節には次のような言葉が記されています。「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります」。ここでも同じように眠りが取り上げられています。そしてこちらの方はこれから眠る、つまり「夜の詩編」と言う名前がつけられているのです。
夜、私たちは寝床につきます。しかし、私たちはなかなか寝付くことができずに、いつのまにか朝を迎えると言うことがよくあります。問題を抱えて、その解決策も見いだせぬままに送る不安な夜もあります。しかし、私たちのおかれている状況は何であっても、神様はその夜の間も支えてくださる方なのです。私たちの目には夜の闇しか感じられないときにも、神様は私たちをしっかりと支えてくださっていることをこの詩編記者は告白しています。
2.ダビデとアブサロム
(1)表題と詩編の内容
さて、この詩編には最初に短い表題がつけられています。「賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子/アブサロムを逃れたとき」(1節)。この詩編はダビデの作であり、そのダビデが息子であったアブサロムから逃れたときに作った歌だと説明しているのです。この出来事は旧約聖書のサムエル記下の15章〜16章あたりに詳しく記されています。
この表題については聖書学者の中でも議論があります。なぜなら、この詩編の成立はダビデの時代よりもずっと後であると主張する人が多いからです。つまり、この詩編の作者はダビデではなく、誰か後代の別の人物であると考えると、そこに付け足されている事情についてもあやしくなってくると言うのです。
ここで私たちがその決着をつけるのは難しいかもしれませんが、むしろ、この詩編の内容は表題の事情を通して読んだ方が豊かな意味を持ってくると語る聖書解釈者や説教者も多いのです。ですから、私たちもまずこのダビデの人生に起こった出来事を通してこの詩編を読み解くことにしたいと思います。
(2)アブサロムの反乱とダビデの逃亡
サムエル記によればダビデの息子の一人アブサロムは陰謀を企み、イスラエルの王であった父ダビデの王座を自分のものにしようとしました。彼の作戦は、ダビデの治世に不満を持つ人々に「自分だったら、あなたたちの問題をうまく解決してあげられるのに。しかし、今の王ではだめだ」と語りかけます。ダビデの政権担当能力を疑わせ、民衆の心を自分の元に集めようとしたのです。聖書には「アブサロムは…、イスラエルの人々の心を盗み取った」(15章6節)と語っています。アブサロムの作戦は見事成功し彼はヘブロンで自分が王に即位したと宣言します。この知らせを聞いたダビデはイスラエルの民の心が自分から離れて、アブサロムに移ってしまったことを始めて悟り、家臣たちと共にエルサレムの王宮を脱出して、逃亡生活を始めることになりました。この詩編の内容はこの窮地に立たされたダビデがその境遇の中で詠んだ歌だとされているのです。
「主よ、わたしを苦しめる者は/どこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい/多くの者がわたしに言います/「彼に神の救いなどあるものか」と」(2~3節)。
大半の人々の心はアブサロム支持に変化し、自分の手元にはわずかの家臣しか残っていません。何よりもダビデを攻撃する人々は、このようになったのは神のみ業の結果であり、神様の守りはすでにダビデから離れてしまったと言うのです。信仰者ダビデにとってこれほどつらい言葉はなかったと思います。サムエル記下16章にはダビデの前にイスラエルの王であったサウルの一族の出でシムイと言う名の人物が登場し、ダビデに次のような呪いの言葉を投げかけています。
「出て行け、出て行け。流血の罪を犯した男、ならず者。サウル家のすべての血を流して王位を奪ったお前に、主は報復なさる。主がお前の息子アブサロムに王位を渡されたのだ。お前は災難を受けている。お前が流血の罪を犯した男だからだ」(7〜8節)。
このシムイの言葉がどこまで正しいのかどうかは別として、確かにダビデ自身もサウル王との流血の戦いを繰り広げた上でイスラエルの王となりました。そして、それはダビデを新たな王とされた神様の御心でもあったのです。「今、神様は新たにダビデに変わってアブサロムを王とされた」と言われれば、彼は何も文句をつけることができません。この詩編の言葉はこのような窮状に立たされたダビデの嘆きそのものだと言うのです。
3.あなたはわたしの盾
ところがこの嘆きの詩編はすぐに語調が変わってしまいます。ここからは詩編記者によって「嘆き」ではなく、主なる神様への信頼の言葉が語り始められるのです。
「主よ、それでも/あなたはわたしの盾、わたしの栄え/わたしの頭を高くあげてくださる方。主に向かって声をあげれば/聖なる山から答えてくださいます」(4〜5節)。
詩編記者は今まで自分の周りの敵を眺め、その多さに驚き、嘆いていたのですが、ここではその目を「主」なる神様に移しています。そしてその神様が自分にとってどのような存在であるかをここで確認しているのです。
四方八方からやってくる反対者たちの攻撃に対して、そこから自分を守ってくださるのは神ご自身であることを表すために詩編記者は神様を「わたしの盾」と呼んでいます。
また、詩編記者は神様が自分の呼びかける声に答えてくださる方であることをここで明らかにしています。「聖なる山」とこは神の箱が置かれているところ、神の臨在を象徴的にあらわす場所です。ところでこのことについてはサムエル記下が興味深い話を伝えています。ダビデ一行がエルサレムを脱出するに際して、神の箱に仕える祭司のツッドクを始めとするレビ人全員が神の箱をエルサレムの町から運び出し、ダビデの後を追ったのです。するとこのことを知ったダビデはツッドクを呼び出してこのように語り、神の箱をエルサレムに戻すように命じたと言うのです。
「神の箱は都に戻しなさい。わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださるだろう。主がわたしを愛さないと言われるときは、どうかその良いと思われることをわたしに対してなさるように」(15章25〜26節)。
ダビデたちにとって神の箱が自分たちと共に進むと言うことは大きな慰めと励ましになったはずです。また、むしろ神の箱が自分たちの側にあることによって自分たちの立場の正当性も訴えることができたかもしれません。しかし、ダビデはそのようにして神の箱を、自分たちを有利にする道具として用いることをここで拒否しているのです。人は自分の願望を実現したり、自分の立場が有利に運ぶために神様を利用することがよくあるのではないでしょうか。しかしそのような人にとって神様の存在は自分の有利になれば大切にするし、そうでなければ必要ないと捨ててしまうものにすぎなくなってしまうのです。しかし、ダビデは自分が神様を用いのではなく、神様が自分をその計画のために用いてくださることをよく知っていたのです。そしてむしろ神の最善の計画のために、自分が用いられることを喜んだのです。
「身を横たえて眠り/わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。いかに多くの民に包囲されても/決して恐れません」(6〜7節)。
ダビデは自らの目で確認できる出来事や、経験だけで早急に神様の御心を判断することはありませんでした。むしろ、神様の約束の言葉に基づいて神様の御心を判断しようとしたのです。だから彼は多くの敵に包囲されても恐れることなく、眠りにつき、朝目覚めることができると告白しているのです。
4.神の正義が実現されるように
「主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち/神に逆らう者の歯を砕いてください」(8節)。
ここで詩編記者は神様が立ち上がって、自分に変わって敵と戦ってくださるようにと祈りだしています。「敵の顎を打つ」は新改訳聖書では「敵の頬を打ち」と翻訳されています。敵に頬を打たれることは当時の人にとって最大の屈辱、侮辱と考えられていました。また、「歯を砕く」とは悪口を繰り返す敵のその口を閉ざすと言う意味を持つ言葉です。ここで注目すべきことはこれらの人々を「神に逆らう者」と詩編記者が呼んでいることです。私に逆らう者ではありません。ですから、もし自らもまた神に逆らっている者であるとしたら、自分も同じ裁きを受けなければならないのです。
神学校の学生時代のことです。今でもそうだと思いますが、神学生は毎朝、朝食の前に集まって祈祷会をして一日を始めます。交代に神学生が短い聖書の解き明かしを行い、その後神学生がそれぞれ祈るのです。私はその祈祷会の中で一人の神学生の祈る祈りにとても違和感を感じたことがありました。その神学生の特徴は「こういう人がいます」と言う感じで、他人のいろいろな問題点をあげ、その人々が悔い改めて正しい生活をするようにと祈るのです。私はその祈りの中で指摘されている人物は自分のことだなと思えて、いやな気分になったこともありますが、それ以上に私が彼の祈りに抵抗感を感じたのは、彼は決して「私たちは」と言う言葉を使わないで、「こういう人たち」と祈り出すことにありました。つまり、自分だけはいつもその罪を犯している当事者とは別であり、自分だけは潔白であると言うような祈りの内容になっているのです。
しかし、神様の裁きの前に自分には何も罪がない、自分だけはその裁きから除外されていると言える者はこの世に誰一人いないのです。詩編の言葉を読み間違えると私たちはこの言葉が独り善がりの独善的な言葉に変わってしまいます。いえ、確かにこの詩編の言葉を自分の祈りとして祈れる方が一人だけをおられることを私たちは知っています。その方こそ、私たちの救い主イエス・キリストです。この方は何一つ罪を犯されることなく、この地上の生涯を歩まれ、十字架にかけられました。そして、私たちの罪をその十字架で負ってくださったのです。
「救いは主のもとにあります。あなたの祝福が/あなたの民の上にありますように」(9節)。
私たち主イエスこそ、神に敵するすべてのものに勝利し、私たちに祝福を与えてくださる方です。そして、このイエス・キリストの与えてくださる恵みによって、私たちもこの詩編の祈りを自分が捧げる祈りの言葉として祈ることができ者とされているのです。
【祈祷】
天の父なる神様
逆境の中でも、そして夜の闇の中でも私たちを守ってくださるあなたの御手の業に心から感謝を捧げます。イエス・キリストをとして私たちの祈りに、いつも親しく耳を傾けてくださるあなたを信頼して、嘆きの言葉を語ることができるようにしてください。そしてさらに私たちのあなたへの信頼を強めてくださいますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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