1 【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。】 2 呼び求めるわたしに答えてください/わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください/憐れんで、祈りを聞いてください。 3 人の子らよ/いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか/むなしさを愛し、偽りを求めるのか。〔セラ 4 主の慈しみに生きる人を主は見分けて/呼び求める声を聞いてくださると知れ。 5 おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り/そして沈黙に入れ。〔セラ 6 ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。 7 恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。 8 人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください。 9 平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです。
1.苦難の中からの祈り (1)眠ることができる幸い 先日も学びましたように、第三編の詩編が「朝の歌」と呼ばれているのに対して、今日、私たちが学ぼうとする詩編第四編は「夜の歌」と呼ばれています。なぜなら、この歌の結論部分が「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです」(9節)と言う詩人の言葉で終わっているからです。激しいストレスを感じざるを得ないような厳しい状況に立たされた詩編記者が、それでも平和のうちに身を横たえて、眠りにつくことができる訳がこの詩編には語られているわけです。 「眠る、眠りにつくことができる」。中には不眠症などと言うことには一切関係なく、床につけばすぐにぐっすりと眠ることができると言う特技を持った方がおられるかもしれません。しかし、この詩編を書いた著者は別にそのような特技を持っていた訳ではありません。むしろ、彼が「眠ることができる」と事実をここで、自分の人生でこの上ない喜びと表現するのは、逆の意味で眠ることができない苦しみをこの詩人がよく知っていたからではないかと思います。きっと、著者はたいへんな試練の中で苦しめられて今まで眠ることができない夜を過ごす経験が幾度もあったのではないでしょうか。だからこそ、彼は平和のうちに眠ることができることがどんなに幸いなことであるかを知っています。食べ物に飽き足りている人は、食べ物のありがたさをなかなか理解することができません。しかし、食べ物に深刻に困った経験がある方は毎日の食事が準備されていると言うことがどんなにすばらしいことかを知っているのです。この詩の作者はそのような意味で、自分が床に入って眠ることができるのは、当たり前のことではなく、神様の恵みであることをよく知っているのです。だから、その恵みを与えてくださる神を賛美していると言えるのです。 (2)自分の正しさを証明してほしい それではこの著者はこのときいったいどのような苦難の中に置かれていたのでしょうか。詩編記者は祈りの中でその事情に触れています。 「呼び求めるわたしに答えてください/わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください/憐れんで、祈りを聞いてください。人の子らよ/いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか/むなしさを愛し、偽りを求めるのか」(2~3節)。 自分が出会っている苦難から解放されることを祈りの求める詩人は、特にここで神様を「わたしの正しさを認めてくださる神よ」と呼びかけています。この言葉からわかるのは今、詩人が一番求めていることは「自分の正しさが認められる」ことだと言うことがわかります。それはどうしてなのでしょうか。詩編記者は続けて語ります。「人の子らよ/いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか/むなしさを愛し、偽りを求めるのか」。ここで言われる「人の子」とは単なる「人間に過ぎない者」と言う意味を持った言葉です。どんなに外面は立派で力がありそうに見えても、人間は誰も同じように神の正しい裁きを受けなければなりません。その裁きを逃れることのできる人はこの世には誰一人いないのです。しかし、ここで登場する「人の子ら」は、その神の正しい裁きを忘れて「むなしさを愛し、偽りを求めて」いる人々なのです。 詩編第一編にもあったように、自らのうちに神のみ言葉と言う正しい判断基準を持ち得ない者は、目に見える栄華にだけ迷わされ、人々の物まねをして生きることしかできません。しかし、彼らの歩く道の行く手には滅びだけが待っていると詩編記者は語りました。ここに登場する人々も間違いなくそのような道を歩んでいる人々です。しかし、彼らは自分たちだけがその道を歩むだけでは満足することができず、彼らに同調しようとしない「正しい人」、信仰者たちを攻撃しているのです。そしてこの詩人はそのような人々の攻撃にあって苦しんでいるのです。 カルヴァンの注解はこの詩の背景にダビデがサウル王に命を狙われ、逃亡生活を送っていたときのことをあげています。ダビデは一度も、サウル王に対して反逆の思いを抱いたことがないのに、サウルは民衆の人気を集めるダビデを邪魔者と感じ、彼に謀反人の汚名をつけて、その命を付け狙ったのです。そう考えるとここで詩人が求めている「正しさ」は、罪を一切犯したことがない正しさと言うよりは、自分につけられた謀反人の汚名を晴らすこと、自分はこの罪に対して全く潔白であると言うことを主張していると考えることができます。そしてその正しさを証明してくださるのは、神様だけだとこの詩編の記者は語っているのです。 2.神を信頼する (1)今の自分に何ができるか ところで先日、ある本を読んでいましたら企業家で有名な松下幸之助が生前、「自分は今まで難儀はしたが、苦労はしてこなかった」と言う言葉を繰り返し語っていたと言う話を知りました。「難儀はしたが、苦労はしていない」と言う言葉をどう理解したらよいのか、難しいところなのですが、その言葉を紹介する文章には松下氏の生き方について次のような解説がつけられていました。松下氏の実家は彼が幼いときに没落し、彼は丁稚奉公に出ることになります。また、その後も家族のほとんどが相次いで病気で死に彼は天涯孤独の身となってしまいます。その上で彼自身も若いときから病を得て苦しんだと紹介されているのです。つまり、松下氏は普通の人が考えるならその人生で苦労を経験し続けた人物であったとも言うことができるのです。しかし、松下氏の特徴はそのような出来事を苦労として考えず、自らの人生に起こるべくして起こった出来事として受け止めたと言うのです。そしてむしろ、自分が今、置かれている状況で何ができるのかを考え、それを実行し続けたと言うのです。 おそらく私たちの多くは苦しみに出会うと、「どうして自分はこうなってしまったのか。だれのせいでこのような苦しみに会うのか」と過去を恨んだり、他人を責めることで多くの時間を過ごしてしまうと思います。しかし、過去と他人は人間の力では決して変えることはできないとよく言われます。ですから松下氏は自分にできないことために人生の大切な時間を使ってしまうのではなく、今の自分にできることにその関心を集中させたと言うのです。 (2)神に目を向け、神を信頼する それではこの詩編記者どうだったのでしょうか。彼もまた過去を悔い、他人を責めることで時間を使おうとはしていません。むしろ、彼はその視点を神様に向けているのです。 「主の慈しみに生きる人を主は見分けて/呼び求める声を聞いてくださると知れ。おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り/そして沈黙に入れ。ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め」(4~6節)。 「主の慈しみ」は人間の愛や好意とは違いいつまでも変わることがないものです。ですから他人がどのようにこの詩編の著者を攻撃しても、この主の慈しみは変わることがありませんから、その主の慈しみを信頼する彼は安心できるのです。そして、彼は過去を振り返ることは同じですが、この主なる神の慈しみが今までの自分の人生にどのように表されてきたかをここで思い返しているのです。 ですから、詩編記者にとっていつもいちばんに大切なことはこの神様との関係です。興味深いことに、詩編記者はこの部分にさしかかると自分の心に語ると言うよりは、むしろ、この詩編を読むすべての人に語りかけています。それはこの詩編記者が神様から受けている祝福を誰もが受けることができるようにするためです。 「おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り/そして沈黙に入れ」。 私たちの周りには様々な声が飛び交っています。そしてその声を聞いたが故に、試み出され、平安を失ってしまったと言うことがよくあるのです。詩編記者はそのために私たちが静かになって耳を傾けなければならないお方は一人しかいない、神様の前に静まって、私たちに語りかけてくださる声を聞きさいと呼びかけます。 「ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め」と言う言葉は、まさしくこの神様との関係を正しくすることをあなたは真っ先に考えなさいと言うアドバイスなのです。 3.狭いところから広いところへ (1)御顔の光 「恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください」(7節)。 人々はいつでも「自分を幸せにしてくれる者は誰か」と問うていると、ここで詩編記者は語っています。まさに人々が抱いているその問い自身は正しいものです。しかし、多くの人々はこの問いに対する答えを間違えています。彼らはその答えを変わらない神の慈しみに求めるのではなく、すぐに変わってしまいがちなこの世の頼りにならないものに答えを求めてしまっているのです。だから、その幸いは一時的なもので、かならず裏切られる結果になってしまうのです。詩編記者そのことがすべての人々に明らかになるようにと主の御顔の光が降り注ぐことを求めています。そしてカルヴァンはこの「御顔の光」を、私たちを真理に導く聖霊の働きと解説しているのです。 詩編記者が困難や誤解の中でも主に信頼することができるのは、この聖霊の働きを受けて、神に対する信頼へと導かれているのです。そして、その聖霊が彼に与える祝福はこの世の何者にも勝ってすばらしいことを詩編記者は最後に告白しています。 「人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください。平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです」(8~9節)。 (2)主イエスの約束 このように困難の中でも詩編記者の心が取り乱されることなく、平和であり得るのは、彼が変わることのない主なる神の慈しみに心を向け、その慈しみを信頼しているからであることがこの詩編から分かります。 しかし、私たちが最後に誤解してはならないことは、詩編記者が語る平和や安眠は、主が聖霊によって与えてくださる祝福の一つであって、信仰者が絶対に得なければならない何らかの救いのための条件ではないのです。なぜなら、新約聖書の中でも使徒パウロのような人は眠れない夜を何日も過ごしたことがあるし、様々な心配事で弱り果てたこともあったと正直に告白しているからです(コリント第二11章23〜29節)。ですから、自分は今、不安を抱えているから、あるいは夜眠れないからと言って不信仰なクリスチャンだと私たちが考える必要はないのです。むしろ、この詩編は私たちがたとえどのような状況に置かれても、主なる神を信頼することができること、またその神が私たちをその困難から必ず導き出してくださることを語っているのです。 この詩編の最初に語られる「苦難から解き放ってください」と言う言葉の「苦難」と言うヘブライ語は元々「狭い」と言う意味を持った言葉からできています。まさにどこにも逃れ場がないと言う状況が視覚的に表現されているのです。しかし、それに対して「解き放つ」と言う言葉は逆に「広い」ところと言う意味を持っている言葉です。ですからこの祈りは狭いところから広いところへと導いてくださいと言っていることになります。私たちがどんなに暗く、狭いところに閉じ込められたとしても、神様はそこから私たちを導き出して広いところへと連れ出してくださるのです。 イエス・キリストは私たちに次のように約束してくださっています。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14章27節)。私たちに与えられる平和はこのキリストが与えてくださる平和です。キリストはすべての人が打ち破ることのできなかった死の壁を打ち破り、命へと甦られた方です。この方が与えてくださる平和であるからこそ、私たちはどんな苦難の中にあっても、神様がその壁を打ち破って広い世界へと導いてくださることを信じることができるのです。 【祈祷】 天の父なる神様 様々な出来事の中で激しいストレスに出会う私たちを、あなたは助けてくださる方であることを感謝します。すべての人々が主イエスの約束してくださった平和に与ることができますように、私たちに御顔の光である聖霊を与えてください。そして私たちの心を変わることのないあなたの慈しみへと導き、その愛を信頼することができるようにしてください。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 このページのトップに戻る