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礼拝説教 桜井良一牧師
神の言葉と人間の言い伝え

(2009.08.30)

説教箇所:マルコによる福音書7章1〜13節

1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
3ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。
5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』
8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。
10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。
11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、
12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

1.昔の人の言い伝え
(1)汚れることを嫌う

 今日の聖書の箇所ではイエスとファリサイ派や律法学者との間に起こった論争が記されています。マルコはここに登場するファリサイ派や律法学者達を「エルサレムから来た」とわざわざ記しています。実はこのマルコの福音書ではイエスの活動はガリラヤ湖の周辺に限定されており、イエスはその生涯の最後にエルサレムに上り、そこで十字架にかけられたと紹介されています。ですから、このマルコの福音書にとって「エルサレム」という地名はイエスを十字架にかけようとする敵対者たちの本拠地の意味を持っていると言えるのです。つまり、この「エルサレムから来た」人々はイエスを罠に陥れるためにやってきた人々と言う意味があるのです。

 彼らは「イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見」(2節)て、そのことについてイエスに尋ねたと言われています。福音書記者マルコはここでユダヤ人の習慣を知らない読者も、事情をよく理解ができるように解説をわざわざ加えています。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(3〜4節)。

 食事の前に手を洗うことは現代人にとって衛生的観点から見て奨励される行為ですが、ユダヤ人が食事の前に手を洗うと言うのは全く違った意味を持っています。それは、ファリサイ派の人々がイエスに次のように問うている言葉からも分かります。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(5節)。彼らは食事の前に手を洗わなかった弟子たちの手を「汚(けが)れた手」と言っています。決して「ばい菌で汚(よご)れた手」と言っているのではないのです。ここでは「汚れ」、つまり宗教的な意味が食事の前に手を洗うと言う行為の中に秘められていたことが分かります。
 それではどうして当時のユダヤ人は宗教的な意味で「汚れる」ことを恐れ、嫌ったのでしょうか。それはこの「汚れ」が自分たちと神様との関係を邪魔をするからだと考えたからです。ご存じのように神様は汚れが一点もない聖なるお方です。そこでユダヤ人たちはその神様と共に生きるためには自分たちも「汚れた」存在であってはならない、神様の聖なる性質にふさわしい存在でなければならないと考え、そのために「汚れる」ことを忌み嫌ったのです。確かに私たちは神様との関係の中で、この汚れの問題は大変に重要です。なぜなら、この問題を解決しない限り、私たちと神様との正しい関係は確かに回復されないからです。しかし、ユダヤ人たちはこの問題の解決を誤った形で処理しようとしたことが今日の聖書箇所のイエスの言葉から明らかになるのです。つまり、彼らはこの問題を「昔の人の言い伝え」を通して解決しようとしたのです。

(2)共同体の掟

 実はこの「昔の人の言い伝え」を守るかどうかは、別の意味でも大きな問題を投げかけています。なぜなら、ユダヤ人たちはこの「昔の人の言い伝え」を守ることがユダヤ人としての当然の義務であって、それを守らない者はユダヤ人ではありえないと考えていたからです。つまり、この「昔の人の言い伝え」は神様との関係だけでなく、ユダヤ人にとっては共同体の一員としての横の関係を維持する大きな意味を持っていたのです。ですから、ここでもし「自分は昔の人の言い伝えなど、気にしていない。自分には関係ない」と言ってしまえば、その人はユダヤ人の共同体からつまはじきにされる可能性があったのです。
 そう考えて見ると、この問題は現代の日本と言う場所に生きる私たちにも深く関係してきます。なぜなら、私たちはたびたび国家や地域、あるいは家族が持っている「昔の人の言い伝え」、風俗や習慣に対して信仰の故に衝突することがあるからです。「夏祭りの寄付金を出してほしい」とか、「お盆には先祖の墓に参って、線香を上げるべきだ」と言うように私たちのまわりには異教的な掟がたくさん存在しています。そして、私たちはたえず、そのような共同体の掟にどのように対処すべきかを問われるのです。ここにはこの問題についての丁寧な回答は記されてはいません。しかし、私たちに分かることは、イエスがこのような共同体に伝わる掟よりも、大切なものがあることを教えてくださっていると言うことです。そして、さらに神様は私たちに形ばかりの従順を求められるのではなく、私たちが心から神様を礼拝することを求めておられると言うことです。

2.神の言葉を無にしてしまう人間
(1)言い伝えとはどうして生まれたか

 さて、イエスはここでファリサイ派の人々や律法学者たちの問いに対して次のように答えています。

 「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(6〜7節)。

 ここでイエスは旧約聖書のイザヤの言葉を引用して彼らの行為を批判しています。イエスの言葉は大変厳しいもので彼らを「偽善者」と呼んでいます。これは舞台に上がる役者の行為を表す言葉で、彼らは演技をしているだけだと言っているのです。つまり、神様の前で敬虔そうな演技をしながら、その心は神様から遠く離れているとイエスは語っているのです。そしてその原因は、「神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」からだと言うのです。
 もちろん、彼らが守っていた言い伝えは全く聖書とは無関係であったものではありません。その言い伝えの根拠は確かに聖書に基づいていました。たとえば、ここで問題にされる清めや汚れといった戒めは旧約聖書の特にレビ記と言った文章の中に登場しています。しかし、残念ながら彼らが熱心に主張した「念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど」と言った戒めは聖書の中にそのままの形では登場しません。
 それではどうしてこのような言い伝えが生まれたのでしょうか。そこにファイリサ派や律法学者たちの重要な役目があります。実は彼らは聖書に記している様々な掟を人々にそのまま教えるだけではなく、それを実生活の中で実現させる方法について事細かく考え、また指導する役目を持っていたからです。
 イエスの時代は、昔モーセが神様から律法をいただいた時代とは全く違った文化や生活が存在するようになっていました。ですから昔なら、簡単に守れた戒めも、そのままではどう守っていいのか分からないと言うような問題が生じていたのです。そこでファリサイ派の人々は、そのような問題に対処する使命を負い、さまざまな教え、つまり言い伝えを作っていたったと考えることができるのです。ところがこの言い伝えは時代を追うごとに膨大なものとなり、イエスの時代には返って人々の生活を細かく縛りつけ、彼らの自由を奪うようなものになってしまっていたのです。

(2)言い逃れのために

 イエスはその矛盾を明らかにするために次のような事実を指摘されています。

 「モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と」(10〜12節)。

 『父と母を敬え』と言う戒めは有名な十戒の中の五番目に出てくる戒めです。ハイデルベルク信仰問答の解説では「神が彼らの手を通して、わたしたちを治めようとなさるからです」(問104)とこの戒めの根拠を神が造られた秩序であるからこそ大切にすべきであると教えています。
 ところがここで問題にされているのはたとえ両親に何かを捧げるべき義務があっても、それはコルバン、つまり神への供え物ですからと言う理由があれば、その義務から逃れることができると言う解釈です。間違ってはいけないのは、ここでは戒めにおいて神様が優先されるべきか、それとも両親が優先されるべきかと言うことが問題になっているのではないのです。そうではなく、律法が教える両親への義務から逃れるために、神様を利用すること、「両親よりも神様の方が大事である」と口先では語りながら、本当はその義務を果たすことをしたくないために神様のことを利用していることが非難されているのです。
 おそらく、当時のユダヤ人たちはとても複雑で煩瑣な言い伝えから、自分を守るためにこのような手口をよく使っていたと考えることができるのです。しかし、このような問題が起こるのは神様の戒めのせいではなく、それを勝手に解釈している人間の側の責任だと言えるのです。

3.神の戒めを通して神に向き合う
(1)マニュアルの弊害

 先日、テレビを見ていましたら、たいへんおもしろい話を聞くことができました。皆さんもときどき利用されるかもしれないのですが、今はどの町にもファーストフードの店が建ち並ぶようになりました。私が若かった頃は今と違ってハンバーガーやドーナッツを売るファーストフード店はまだ珍しく、それがあるだけで「ここはずいぶん都会だな」と言った感想を持った経験があります。元々はアメリカからやってきたこのファーストフードのチェーン店はとても便利で安価な食事を私たちに提供してくれると言う特徴がありますが、それとともに精巧なマニュアルが作られていて、どこにいってもお客は同じサービスが受けることができることでも有名なのではないでしょうか。
 ところがそのテレビで紹介されたあるチェーン店は他の同業者との争いに立ち後れてしまったために、むしろ同じことで勝負するのではなく、他のお店にはない独自色を表すことを心がけ始めたと言うのです。そしてその中の一つが、精巧な接客マニュアルを廃止することだったと言うのです。そしてその理由は店員がお客様と向き合う機会を作るためだと言うのです。確かに従業員はマニュアルに従って動けば、大きなトラブルを避けることができ、会社はそつなくお店を経営することができます。しかし、その反面、店員はマニュアルを覚えることを第一として、目の前のお客さんと向き合いことを忘れてしまう弊害が生まれると言うのです。
 おそらく、イエスの時代のユダヤ人たちも同じような問題に遭遇していたのではないでしょうか。彼らの持っていた昔の人の言い伝えはまさに現代のファーストフード店が持っている精巧なマニュアルと同じだったのです。ですから、それを形だけ守れば、確かにそつなく日常生活を送ることができたのです。しかし、その弊害は目の前の隣人を忘れ、また神様と本当に向き合う機会を奪ってと言うところに現れたのです。

(2)救い主を示し、神と共に生きる道を教える戒め

 「父と母を敬え」と言う言葉を聞くたびに、私は自分の両親のことを思い出します。自分は今まで両親を本当に敬って来ることができたのだろうか。そして今はどうか。そう問われると自信を持って「はい」とは答えることができない自分の姿に気づかされるのです。十戒のすべての戒めの前で、私たちはむしろ演技ではなく、本当の自分の姿と向き合わざるを得なくされと言えます。それは私たちにとって辛く、また恥ずかしい経験かもしれません。しかし、実は私たちにとって、私たちが本当の自分と向き合うことがとても大切なことだと言えるのです。なぜなら、私たちは真実の自分と向き合うことを通して自分が神様の助けなしには、神様の赦しなくしては生きていくことができない罪人であることを知るからです。そして救い主イエス・キリストは本当にこの罪人の自分を助けるために、この地上に来てくださり、十字架についてくださったと言うことを確信することができるようになるのです。このような意味で、神様の律法は罪人の私たちに救い主の必要を指し示す福音の言葉となるのです。
 また、私たちが人間の言い伝えではなく、神様の戒め、神様の言葉を大切にしなければならない第二の理由は、この神様の言葉が語られ、また実践されるところには必ず聖霊なる神が働かれることを私たちは聖書から教えられているからです。神様は救いを受けた私たちに、厳しい戒めだけを与えるのではなく、私たちと共にあって、み言葉に従おうとする私たちを通して働いてくださるのです。そのような意味で私たちは神様のみ言葉に従って生きるとき、私たちと共におられる神様の働きを実感することができるのです。
 ユダヤ人たちが誇った、昔の人の言い伝えは、彼らから救い主イエス・キリストとの出会いを奪い、そして結果的には彼らが神様との共に生きる道を奪っていったのです。だからこそ、主イエスはここで彼らに厳しい言葉で対処される必要があったのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 昔の人の言い伝えや、人間の作り出した決まりは確かに私たちの現実の生活を維持するために大切です。しかし、私たちが忘れてはならないことはその言い伝えや決まり事には私たちを罪から救い出す力は何もないと言うことです。どうか、私たちが神様の言葉を大切にし、その言葉に従うことで、私たちと救い主イエス・キリストの関係を強めることができるようにしてください。誰のためでもなく、この自分のためにイエスが十字架につけられたこと、そのイエスによって自分の罪が許されていることを教えてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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