Message 2007 Message2006 Message2005 Message2004 Message2003
礼拝説教 桜井良一牧師
地獄に投げ込まれるよりは

(2009.09.27)

説教箇所:マルコによる福音書9章38〜48節

38[そのとき、] ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
39イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
40わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
41はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。
42わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
43もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
45もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
47もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
48地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 」

1.小さな者の価値は

 先週の礼拝の箇所で、イエスは弟子達に「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(37節)と語られています。イエスを信じる者は幼子のような存在を受け入れる人でならなければならないとイエスはここで語っているのです。そこで私たちは当時の人々が幼子のような存在の価値をどのように考えていたか、そしてイエスのこの言葉はどんな意味を持っているかについて学んだのです。
 私たちはこのイエスの言葉の中で「わたしの名」と言う言葉が挿入されていることに注意を向ける必要があります。なぜなら、今日の箇所でもこの「わたしの名」と言う言葉が繰り返し登場しているからです。
 イエスの弟子達はこのとき「だれがいちばん偉いか」と言う議論をしていたと言うことを前回学びました。これは言葉を換えて言えば弟子たちの中で「誰が一番、イエス様のお役に立っているのか」と言う議論であったと言えます。つまり、イエスが一番にその功績を認めている者が弟子達の中で一番に偉い存在になるはずだと言うことになるのです。ですから、弟子達は「自分はいつもイエス様のためにこんなことをしている」、あるいは「あのとき、私はこのようにしてイエス様をお助けした」と自分の功績を並べて、誰が一番評価できるかを争い合っていたに違いありません。それはまるで壁に掛けられた売り上げ額のグラフを見て、その成績を競い合っているセールスマンと同じです。しかしそのときに、イエスは小さな子供を弟子達の前に示して「この子供の価値を認めなさい」と教えられたのです。営業成績はゼロ、むしろ幼いために大人達に面倒を見てもらわなければ生きられない子供のような者の存在の価値を認めなさいとイエスは言うのです。しかし、このときの弟子達の価値観から考えるなら絶対にイエスの言葉のように子供を受け入れることは困難であったのです。
 しかし、大切なのは「わたしの名」のため、つまり「イエスの名」によってこの子供の価値を認めなさいと言うところです。なぜなら、この小さな子供も神の愛の対象であり、イエスの命に代えてまで買い取られるべき神の子の一人だからです。つまり、イエスの示した価値観は、その人が何をしてどのような成績を上げているかに基準が置かれているのではなく、その人が神の無限の愛の対象であり、イエスの命に代えてまで大切にされているところに規準があるのです。だから、小さな子供にも無限の価値がありますし、もちろん、すべての人にも同じような価値があるのです。そしてイエスの弟子達は本来、この神様の価値基準をすべての人々に向けて伝えるために召された人々でした。だからこそ、彼ららは真っ先にこの真理を知る必要があったと言えるのです。

2.ヨハネの見方とイエスの判断
(1)自分を受け入れない人々

 さて今日の箇所は、弟子のヨハネが語った報告から始まります。そしてイエスがこのヨハネに答えたお話が記されているのです。このイエスのお話は大きく分けて38節から41節と42節から48節の部分に分かれています。前半部分は弟子のヨハネの報告に直接答えられて「誰がイエスの味方か」と言うお話が語られています。そして後半部分は「小さな者たちをつまずかせることへの警告」と言ってよいお話が記されているのです。前半部分のヨハネのお話はイエスが語った「子供の一人を受け入れる」と言う言葉の「受け入れる」と言う言葉から続く物語になっており、後半部分はむしろ「子供」つまり「小さな者」と言う言葉から「小さな者をつまずかせる」と言うお話しが始まっているのです。
 ヨハネはこのときのイエスのお話を聞いて「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」(38節)と語り出します。子供を受け入れることも大切だが、それでは私たちを受け入れない人の問題はどうすべきなのかと、ヨハネはイエスの話の方向をここで変えようとしたのです。おそらく、ヨハネにとってはこちらの話の方が深刻で、身近な問題であったと思われます。

(2)悪霊を追い出す人々の存在

 ここにはイエスの弟子団に属さないがイエスの名前を使って悪霊を追い出している人が登場しています。興味深いのはこのマルコによる福音書は同じ9章の前半の方でイエスの弟子たちが悪霊を追い出せずに人々の間で騒ぎが起こしたという事件を記録しています(14〜29節)。この部分を読むと悪霊を追い出すという行為はイエスの弟子たちにも簡単にはできなかったことが分かります。もともと、弟子たちはイエスによって宣教旅行に派遣される前に、「汚れた霊に対する権能」を授かっています(6章7節)。つまり、このイエスの与える権能がなければ誰も悪霊を追い出すことはできないはずなのです。しかも、このマルコによる福音書9章の前半部の物語では、その権能をイエスから授かりながらも悪霊を追い出すことができなかった弟子たちに、「祈り」の必要性が説かれています(29節)。まさに、神に対する信頼を持って熱心に祈らなければ悪霊の力に勝利することが弟子であってもできないと教えられているのです。もし、ヨハネがこのとき目撃した人たちが本当にイエスの名を使って悪霊を追い出していたとしたらどうなるでしょうか。彼らもまたどこかでイエスから権能を授かっていたと考えなければなりませんし、また、イエスをこの地上に遣わされた神に対する熱心な信仰を彼らも持っていたのではないかという推測がそこで生まれます。
 ですから、ヨハネは本当ならイエスにこう尋ねるべきだったのです。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ました。彼らはどうして悪霊を追い出す権能を持っているのでしょうか。彼らも先生の弟子なのでしょうか」と。そうすれば、ヨハネはイエスから全く違った答えを聞くことができたと思います。しかし、ヨハネはそうは尋ねていないのです。

(3)私たちの関心はどこに置かれるべきか

 このヨハネの質問で特徴的なのは彼が「わたしたちに従わないので」と言っていることです。ヨハネは「先生、つまりイエス様に従わないので、彼らをやめさせました」と言っているのではないのです。ヨハネが許せないのは彼らが自分に従わないこと、つまりイエスの活動の最初から一緒にいて、イエスの弟子の中でももっとも重要な自分の言葉を無視したことだったのです。だからヨハネは彼らの存在を受け入れることができなかったのです。つまり、ここでの問題はヨハネの存在が無視されたと言うところにあったと言えるのです。
 実はこの問題も「誰が一番偉いのか」と言う議論の延長線上にあったと考えることができます。だから、ヨハネにとってイエスの名によって悪霊が追い出されていると言う出来事よりも、自分が無視されてしまったと言うことが重要になっているのです。
 ここには教会が遭遇する問題の一つが隠されていると考えることができます。イエスを信じ、イエスのために生きる者たちであっても、必ずしもいつも一つに一致して行動することができるとは言えません。そこに集う人々の抱える様々な問題上、様々な不一致が生まれることがあるのです。しかし、そのときに私たちは何を一番に考えるべきなのでしょうか。自分たちのことが無視されているので、それをどのように解決すべきか。そこに私たちは関心の中心を置くべきなのでしょうか。いえ、私たちの関心の中心はいつも神様の福音が伝えられているかと言うところに置かれるべきなのです。この出来事はまさに私たちの教会の関心をどこに置き、何のために神様から与えられた大切な時間を使っているのかと言うことに反省を促す物語となっているのです。

 「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(39〜41節)。

 私たちが人の言葉や態度に左右されていたならば、私たちの歩みは不安定で、心もとないものになります。だから、私たちは神様のために生きるべきなのです。誰も認めなくても、神様が必ず認めてくださるとイエスはここで言ってくださっているからです。

3.つまずきに対する警告
(1)「つまずき」とは何か

 後半部分のお話はこのヨハネとイエスの会話とどのようにつながるのか、無理につなげようとすれば、ヨハネはここでイエスの名によって悪霊を追い出していた者たちの行為をやめさせています。そこでヨハネはこの人たちをつまずかせてしまったのです。それはヨハネが軽はずみにしてしまったことなのですが、そのことがどんなに大きな過ちであったかを教えるためにイエスが語られたとも考えることができます。なぜなら、この後半の部分では「つまずき」と言う問題が取り上げられているからです。
 もうだいぶ以前のお話です。平日の日に教会に一人の婦人が尋ねてきました。その人はその前にも教会の礼拝に何度か出席されたことがあった人でした。その方が本当に久しぶりに教会に来られたのです。実はその方は精神的な病を抱えておられる人で、その日の訪問の理由を私にこう語られたのです。自分は以前、この教会の礼拝に出席して、ある人に「自分は精神的に苦しくて、なかなか思うように礼拝にも、教会にも出席しできない」と語った。するとその人から「それはあなたの心の持ちようよ。もっとがんばらないと」と言われてと言うのです。そのご婦人はそれ以来、その人の言葉が忘れられず、その人のことを許すことができずに苦しんでいると言うのです。
 私はその人の話もわかりましたが、その人に「がんばりなさい」と言った人も全く悪意なく、本当にその人を励ますために言ったのだろうなと言うこともわかりました。しかし、私たちのまわりで「つまずいた」と言う言葉が語られるとき、その多くの場合はこのようなわずかな人間同士の言葉のやりとりの食い違いが原因になっていることが多いのです。そして、この場合はその当事者の誰に対しても責任を問うたり、責めることはできないと言えるのです。
 ところがここでイエスが問題にしている「つまずき」はこれとは全く違ったことを言っています。なぜならば、ここで言われる「つまずき」と言う言葉はもともと「わな」と言う言葉から生まれた言葉だからです。つまりここでは、人間関係での誤解や行き違いから生まれる「つまずき」ではなく、「イエスとのつながりを邪魔するわなを張り、罪を犯させる」と言う深刻で意図的な企みが問題とされているのです。だから、イエスはそれよりも「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」とか、「片手になっても命にあずかる方がよい」、あるいは「片足になっても命にあずかる方がよい」、そして「一つの目になっても神の国に入る方がよい」とまで言って厳しい言葉をかけているのです。

(2)迫害に勝利する力

 ただ、このイエスの言葉は実際に「片手、片足を切り離しなさい」とか「片目をえぐり出しなさい」と言う勧めを語っているのではないことにも注意すべきだと思います。なぜなら、人をつまずかせるのは実際には私たちの片手でも、片足でも、片目でもないからです。むしろそれらは私たちの心に思ったことを実現させる手段でしかありませんから、たとえそれらを切り取っても肝心の私たちの心が変わらない限り、私たちはその罪から決して解放されることができないのです。つまり、イエスはこれらの言葉を語ることで私たちに小さな者をつまずかせることがどんなに深刻な問題であるかを気づかせようとしたのです。
 ところである聖書学者はここに片手や片足、片目と言う言葉が登場する理由は別にもあったと説明しています。なぜなら、この福音書を受け取った人々は当時、信仰に対する激しい迫害の中に生きていた人たちで、その迫害の中で実際に体を傷つけられることはもちろんのこと、命まで奪われる危険に遭遇していたからです。そして、マルコによる福音書は、そのような迫害の中にある信者を励まし、支えると言う役目を持って書かれたものだと言えるのです。
 時代は流れてキリスト教会は激しい迫害の嵐を乗り越え、ローマ帝国の国教となり、教会の活動が公認されることになりました。教会の活動が公になり、これからの教会はどうすべきかを論議するために世界の各国から教会の指導者が集められました。この最初の歴史的な会議を記録した文章には、そこに集まった人たちの多くが迫害の故に片手を失い、片足を失い、片目を失っていたと記しています。彼らは実際にこのイエスの言葉を大切にし、この言葉に従って信仰生活を生き抜いてきた人々だったのです。
 そのような迫害の中で生きた一人のクリスチャンの証が伝えられています。迫害者が「信仰を捨てれば、お前の命を助けてあげよう」と語ったとき、その一人のクリスチャンはこのように答えたと言います。「私はいままで主イエスを信じて長い歳月を送ってきました。その間、主イエスはいつも私とともにいてくださり、私を守ってくださったのです。そして主イエスは今まで私をただの一度も裏切られたことはありませんでした。だからどうして、私がその主を裏切ることができるでしょうか」と。
 このクリスチャンの証でもわかるように、彼らが迫害の中でも信仰を守り続けることができたのは、地獄に対する激しい恐怖があったからではありません。むしろ、自分を大切にしてくださり、世の誰もが無視したとしても、決して自分の存在を忘れることがない主イエスへの信頼が、その信仰を守り続ける力となったのです。
 イエスの名の故に私たち小さな者が、神の子とされていること、イエスの命に代えてまで神様から大切な存在として扱われています。ですから私たちはもう一度この事実を感謝し、私たちの信仰生活の力として行きたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様。
 私たちの存在の価値を、主イエスを通して知らせてくださる恵みを感謝します。そして主イエスを離れては私たちの命の価値はありません。私たちがその主とともに生きることができるように、日々、私たちを強めてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
このページのトップに戻る