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礼拝説教 桜井良一牧師
財産は頼りにならない

(2009.10.11)

説教箇所:マルコによる福音書10章17〜30節

17[そのとき、] イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
18イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
19『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
20すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
21イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
22その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
23イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
24弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
26弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
27イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

1.財産は大切?

 今日の説教題を「財産は頼りにならない」として、その題名をそのまま掲示板にいつものように貼っていただきました。そうすると早速、「財産は頼りにならないのですか。でもやはり、財産が必要ですよね」と言うある方の反応が返って来ました。おそらく、私たちのほとんどは、この地上の生涯を歩もうとするとき、幾ばくかの蓄えが大切であると考えているはずです。ですから、今日の聖書の箇所で一人の人にイエスが「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われた言葉に衝撃と疑問を抱くのです。「そんなことをしないと、私たちはイエス様に従うことができないのだろうか」と私たちは心配になってしまうからです。もっとも、後半部に登場する「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言うイエスの言葉に至ると、「自分はそれほど金持ちではない」と改めて安心する人も出てくるのかもしれません。
 しかし、この「財産を施しなさい」と言うイエスの言葉をすべての人々に命じられている言葉と考えると、実際の聖書の記述に矛盾することが出てくるのです。なぜならイエスの弟子の中にも財産を持っていた人がいたと推測されるからです。たとえば徴税人のザアカイと言う人物はイエスと巡り会い、その人生の歩みを変えられています。ザアカイのそのときにイエスに貧しい人に自分の財産の半分を施すことを申し出ていますが、すべての財産を捨てたとは書かれていません(ルカ19章1〜10節)。また、イエスの弟子の一人であったアリマタヤのヨセフはやはり多くの財産を持っており、その財産で購入した自分のための墓を十字架から降ろされたイエスのための墓として提供しています(マタイ27章57〜60節)。このような例を考えると、今日の箇所でのイエスのメッセージはここに登場する人の持っていた何らかの理由が前提となって語られたと考えることができるのです。ですから、その理由を考察しないまま、このイエスの言葉を私たちの生活に直接適用することは乱暴であるとも言えるのです。

2.答えは神様に
(1)真剣な問い

「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」」(17節)。

 一人の人が永遠の命への問いの答えを求めてイエスの元を訪れたところからこの物語は始まります。この人物について同じ物語を報告するマタイによる福音書(マタイ19章16〜30節)は「金持ちの青年」と紹介していますし、またルカによる福音書(ルカ18章18〜30節)では「議員」つまり、ユダヤ人を代表する最高法院のメンバーであったと紹介しています。彼は若者でありながらも財産と名誉を兼ね備える人物であったことが分かります。今「世襲議員」と言うのが日本では問題になっていますが、ひょっとして彼もまたユダヤでは名門と言われる家系の出身者であったのかもしれません。
 ヨハネによる福音書では夜、人目をはばかってイエスの元を訪れたニコデモの話が紹介されています(3章)。彼もまた最高法院のメンバーの一人でしたが、だからこそ、その自分の名誉が傷つくことを恐れて夜、こっそりとイエスを訪ねたのです。しかし、このお話に登場する人はその点ではもっと大胆であったと言えます。弟子たちや多くの人がいる前でイエスに近寄って「ひざまずいた」と言われているのです。この人は真剣な姿勢でイエスに尋ねています。それはまさに彼の抱いていた「永遠の命」への疑問が深刻な問題であり、どうしてもその答えを知りたいと願う彼の気持ちが表されています。

(2)神様だけが答えることができる

 ところでこんなにも真剣にイエスに答えを求めた人に対して、イエスの姿勢は少し冷淡ではないかと言う印象を与えます。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」(18節)。

 しかし、私たちはこのイエスの言葉の意味を誤解してはいけないと思います。イエスは真剣に答えを求める人に、冷淡な態度を示しているのではありません。むしろ、彼の持っていた問いが人間にとって最も重要な問いであったからこそ、その問いに答えられるのは「神」おひとりしかいないと言うことを教えているのです。経験の浅いカウンセラーは、自分ところにやってくる人のすべての相談を引き受けて、かえって事態を悪くしてしまうことがあります。しかし、経験のあるカウンセラーはまず、その相談者の問題が自分の手に負えるかどうかを判断し、その相談者を引き受けることのできる適切なカウンセラーを紹介します。もちろん、イエスはここでこの人に「その問題は他の人に聞きなさい」と言っているのではないのです。そうではなくここでイエスは一人の「善き先生」としてではなく、この人の命を救うために神の元から遣わされた「神の子」として接することを望んで、このような言葉を語っているのです。

3.何をなすべきか=律法主義の誤り

 この人の疑問に答えてイエスは次のように語ります。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」」(19節)。

 イエスはこの答えでユダヤ人であるなら誰もが子供の頃から聞いているモーセの十戒の後半部の戒めを引用しています。だからイエスは「あなたも知っているはずだ」とこの人に言っているのです。この人はたぶん、イエスの口から特別な答えを聞き出そうとしていたはずです。だからこの人はこのイエスの言葉を聞いてがっかりして「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えているのです。
 ところでこの人ががっかりしてしまった原因は、誰もが知っている律法の文章をイエスが繰り返したところにあると言うよりは、それ以前に彼が永遠の命に対して抱いていた大きな誤解に原因があると考えることができるのです。ですから彼はむしろ、最初の一歩から誤った出発をしているので、このときのイエスの答えにがっかりしてしまったと言えるのです。なぜなら彼は次のようにイエスに最初に尋ねているからです。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(17節)。「何をすればよいのでしょうか」と聞くこの人の思考の中心には「自分にはそれができる」と言う前提が隠されています。つまりここには神の救いを自分の行う行為によって得ようとする「律法主義」の伝統的な誤りが潜んでいるのです。イエスはまさにこの人の「律法主義」の誤解を解きたいと考えていたと言えるのです。それは、この問答の結論部分の言葉に明確に表されています。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(27節)。
 永遠の命に入るために人間にできることはありません。それは金持ちであっても、貧乏に人であっても不可能なのです。しかし、その不可能を神様は可能としてくださるのです。そのためにイエス・キリストをこの地上に遣わしてくださったからです。イエスは私たち人間には不可能であった永遠の命を、ご自身の命を持って私たちのものとしてくださるのです。この文章は「イエスが旅に出ようとされると」と言う言葉で始められています。実はこの旅とはイエスのエルサレムへの旅を語っています。イエスはこの旅の末に十字架にかけられ、私たちのための救いのみ業を成し遂げたのです。だからこそ、次の呼びかけはそのイエスの旅にこの人を招く言葉であったと考えることができるのです。

4.神への信頼への招き
(1)イエスの招きの意味

「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」」(21節)。

 ここでイエスが「慈しんで」と言う言葉はギリシャ語原文では「アガパオー」、「愛して」と言う言葉が使われています。イエスはこの人を心から愛して「わたしに従いなさい」と語られているのです。そうすればイエスによって永遠の命が与えられることをこの人が知ることになるからです。しかし、このイエスの招きに対してこの人は「気を落とし、悲しみながら立ち去った」と聖書は記しています。そして「(彼は)たくさんの財産を持っていたからである」と言う理由を付け加えているのです。
 結果的に見て、この人はイエスの「わたしに従いなさい」と言う招きよりも、自分が持っていた財産の方を大切にすることを選んだと言うことになります。そしてこの後に語られるイエスの言葉「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」と言う言葉をこの人は信頼することができなかったと言うことを聖書は教えているのです。なぜならこの物語は財産を貧しい人に施すことの大切さを教えると言うよりは、イエス・キリストを私たちのために遣わされた神への信頼を強調していると考えることができるからです。
 財産を捨てることがここでは救いの条件となっているのではありません。むしろ、地上の財産は私たちが永遠の命を得るためには何の役にも立たないのです。実は当時のユダヤ人たちは自分たちがこの地上で得る財産を神が与えてくださる祝福と考えていました。財産はその人が神に愛されている信仰者である証拠を示していると解釈したのです。そしてその財産を持っている者こそ律法を厳格に守ることができると考えていたのです。彼らが貧しい者たちを軽蔑した原因は信仰的な意味があったのです。しかし、イエスは私たちの救いの確信を地上の財産に求めることも、また律法主義に求めることも誤りであるとここで教えているのです。大切なのは、私たちが永遠の命を得るために神が遣わされた救い主イエス・キリストを信頼することです。そしてここでは永遠の命を得るためにこのイエスに従うことが求められているのです。その点においてここに登場する人はイエスを信頼することができなかったために、彼に従うことができなかったと言えるのです。

(2)祝福への招き

 旧約聖書の列王記上の17章に預言者エリヤの生涯に関わる「サレプタのやもめ」の物語が記されています(8〜16節)。イスラエルに干ばつが続き食べるものが何もなくなってしまったとき、サレプタのやもめは自分の子供と共に残されたわずかの小麦と油でパンを焼き、それを食べて死のうと決心します。ところがそこに現れた預言者エリヤはそのパンをまず自分に捧げなさいとやもめに命じるのです。そうなるとやもめの手元にはもうパンを焼く小麦は残されていないのに、エリヤは「わたしに捧げた後に、あなたたちは自分のためにパンを焼きなさい」と不可能なすすめをしています。しかし、やもめが決心して最後のパンをエリヤに捧げると不思議なことが起こりました。何とやもめの家の壺の粉も油もつきることがなく、彼らは幾日も食べ物に事欠くことがなかったと言うのです。
 エリヤの命令はこのやもめにとって残酷なように聞こえたかもしれません。しかし、彼女はこの命令に従うことで、神様の言葉がかならず実現すること、神様には不可能なことがないことを知ることができたのです。今日の箇所でのイエスの招きはこのエリヤの言葉に似ているのかもしれません。彼は誰にも不可能な永遠の命を得る道をイエスが実現してくださったことを、神様の言葉が真実であることを知る必要があったのです。そしてイエスはそのために、この人を招いたのです。確かに「財産をすべて貧しい人に施しなさい」と言う命令はこの人の特別な事情に向けられた命令です。しかし、私たちはイエスの招きに従うために、この人と同じように何らかの犠牲を払う必要があるかもしれませんし、実際にそれを支払っている人もいるはずです。そのような人に今日の物語はイエスの招きは神の言葉が真実であることを知らせるための招きであり、神には不可能なことが何もないことを教える招きであることを教えているのです。そしてイエスは私たちを心から愛して、今日も「わたしに従いなさい」と言ってくださる方なのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
 私たちが永遠の命を受けるためには、私たちの地上の財産も律法主義も何の役にも立ちません。しかし、あなたは私たちができないことを主イエス・キリストを通して実現してくださいました。イエスの十字架を通して、私たちが永遠の命に与ることができたことを感謝いたします。イエスの招きを信仰生活の中で、いつも受けている私たちです。どうか、私たちがそのあなたの招きに答えてことができるようにしてください。そして、私たちにあなたのみ言葉すべて真実なものであることを教えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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