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礼拝説教 桜井良一牧師
何を願っているのか

(2009.10.18)

説教箇所:マルコによる福音書10章35〜45節

35ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
36イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
37二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
38イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
39彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
40しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
41ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
42そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
43しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

1.苦しみや死には意味があるのか?
(1)私たちにとっての重要なテーマ

 神学生のときに神学校で学んでいた韓国人牧師から初めて韓国語で記された一冊の説教集をもらい、韓国語の辞書を引きながらあの不思議な文字で取り組んだ記憶があります。そのとき貰った説教集は「苦しみには意味がある」と言う題名の本であったことを今も思い出します。おそらく、私が辞書を使って韓国語の本を読もうとしたのもその題名が示すテーマに興味を持ったせいかもしれません。その説教集に何が書いてあったのかは思い出すことができません。しかし、わからない韓国語の本を必死になって読もうとさせるだけの魅力をその本の題名は私に与えたのです。
 私たちがそれぞれの人生で遭遇する苦しみにはどんな意味があるのでしょうか。それは誰もが人生の中で抱く重要な問題であると言えます。ところがこの問題の答えはそんなに簡単なものではありません。もちろん、私たちはそれぞれ自分が経験した苦しみについて何らかの答えを見いだしているかも知れません。しかし、そこで自分が得た答えが必ずしもほかの誰にでも当てはまる普遍的な答えとは言えないのです。

(2)ヨブとその友人

 旧約聖書にはヨブ記と言う不思議な書物が収録されています。信仰者であったヨブと言う一人の人物が受けた過酷な苦しみを巡ってこの書物のお話は展開していきます。苦しむヨブを励まそうとしてそこにはヨブの何人かの友人が登場します。彼らは皆、自分が見いだした苦しみの普遍的な意味についてヨブに説明して、ヨブを慰め励まそうとしたのです。しかし、彼らは結局、ヨブの遭遇している苦しみの意味を説き明かすことはできずに、かえってますますヨブを苦しめてしまうと言う悲劇を繰り返します。この書物はそういう意味では、人類の苦しみの意味を正しく説き明かす普遍的な答えを私たちに提供しているようには思えません。むしろ、その人が遭遇する苦しみは一つ一つ違った意味があるし、そしてその意味を私たちはそれぞれ自分自身で神様と向き合いながら、見つけ出していなかければいけないことを教えているように思えるのです。
 おそらくヨブの友人たちは苦しみヨブの姿をいつまでも見続けることが耐え難かったのではないでしょうか。彼らは早くこの問題の解決を導き出したいと思うがあまり、自分の考えだけをヨブの前で朗々と語り、肝心のヨブの叫びに耳を傾ける余裕を失ってしまったのです。そう考えると彼らの犯した失敗は、私たちも犯し得る過ちであったとも考えることができるのです。

2.ヤコブとヨハネの願い
(1)求められた覚悟

 私たちは好んで苦しみを選び取る必要ありません。しかし、苦しみのない人生はやはり存在しないのではないでしょうか。問題は私たちがその苦しみにどう対処するのか。それが大切です。今日の箇所ではイエスの弟子の中のヤコブとヨハネ、この二人の弟子が語ったイエスへの願いが語られています。実はこの願いこそ、彼らが選んだ苦しみに対する対処法であったと考えることができるのです。
 「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」(35節)。どうしてヤコブとヨハネの二人の弟子はイエスにここでこんな願いごとをしたのでしょうか。実はその理由はこの物語の直前に書かれている出来事に原因があったと考えられるのです。そこではエルサレムに向かうイエスの姿と、その旅の意味についてのイエスの説明が記されています(32〜34節)。このときエルサレムに向かうイエスの姿を見て「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」(32節)と聖書には記されています。そしてイエス自身がこの旅の意味を「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(33〜34節)とも説明しているのです。当時のエルサレムの町にはイエスに敵対する人々が多く存在しています。ですからそこにイエスが行ったなら何が起こるかわかりません。その上でイエス自らがここでは弟子たちを不安にさせるような説明を付け加えているのです。きっと、この旅でイエスに同行する弟子たちは相当の覚悟をしなければならなにと思ったに違いないのです。

(2)ご褒美をほしがる二人

 私たちは自分がしたくなかったり、気乗りのしないことをどうしてもしなければならないと言うことがあります。そんなとき、皆さんはどのような対処をしているでしょうか。それをしようと考えるだけで気が重くなってどうにも手をつけられないと言うことがあります。私はよく、そんなときにそれをする目的を自分にとって何か別の快い目的に変えて、そのついでに自分にとって苦手なこともやろうとすることがよくあります。
 たとえばどうも出席することが苦手な会議があるとします。そうすると私は、「そうだあの会議の場所に近くには、本屋があったはずだ。会議の前にその本屋に寄ってみよう。そのついでに会議にでればよいのだ」と、自分の外出の目的を会議のためではなく、本屋に寄るためのものと変えてしまうのです。そうすると、どんな本が新しく出ているだろうかと想像をふくらませながら、会議にも参加することができるのです。これはよく心理学で教えられる方法です。苦手なことをするために、それをしたら自分にとって快いご褒美をあげると言うものです。
 おそらくヤコブとヨハネはここでイエスとともにたくさんの危険が待っているエルサレムに一緒に行くためには、何か自分たちの心を動かすことのできるご褒美がほしいと考えたのだと思います。そうすれば、多少のつらいことも自分たちも耐えられると思ったのではないでしょうか。
 「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)。おそらく二人にとって、この願いが一番自分たちに快く、また魅力的なものであったに違いありません。これをイエスから貰えればどんな苦しみにも耐えられると彼らは思ったのです。

3.イエスの苦しみと死の意味
(1)それはあなたたちにも私にも関係がない

 しかし、イエスはこの二人に「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(38節)と逆に尋ね返されています。イエスはヤコブとヨハネの二人がやはりイエスが何のためにエルサレムに向かおうとしているのか全く理解していないとここで語っているのです。その上で、このイエスの問いに安易に「できます」と応えた二人に、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」(39〜40節)と語られたのです。ヤコブとヨハネの二人の弟子の願いはイエスの関与すべきことがらではないばかりか、イエスの弟子として生きようとする彼らには考える必要のないことだとここでは語られているのです。そしてその上でこの二人を含めたすべての弟子にイエスは「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(43〜44節)と語り、弟子として生きるべき彼らが考えなくてはならないことはこれであると教えられたのです。

(2)苦しみ、死ぬことに意味と目的がある

 それではいったい、イエスとヤコブとヨハネの二人の弟子の間にはどんな考え方の相違が生まれていたのでしょうか。それは今日の箇所の最後のイエスの言葉に表されています。
 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(45節)。イエスはここで自分は「仕えられるためではなく使えるために来た」と語り、自分がエルサレムで苦しみを受け十字架にかけられて死ぬのはそのためであると説明されているのです。つまり、イエスにとって苦しむこと、また十字架で死ぬことは彼の人生に偶然に起こることではなく、この地上にやってきた目的がそこにあると語っておられるのです。しかし、ヤコブとヨハネは違いました。自分たちがエルサレムにイエスとともに言って、そこで苦しむこと、ひょっとすると命まで危なくなるような危険に遭遇することは、彼らにとっては起こってほしくないこと、意味がないことだったのです。だから二人はそこに自分にとって快い、また魅力的な別の意味を見つけ出し、それを自分たちの目的としようとしたのです。しかしイエスにとっては苦しむこと、また死ぬことそれ自身に大きな意味があり、彼の人生の目的自身であったと言えるのです。そしてこの二人の弟子はイエスの死や苦しみに何らの意味も見いだせなかったのです。イエスと二人の弟子の相違点はそこにありました。そして、おそらくこの相違点はこの二人だけではなく、すべての弟子たちがこのとき抱えていた問題であったと言えるのです。
 イエスの苦しみと死は「多くの人の身代金として自分の命を献げる」ためものでした(44節)。ですからイエスがエルサレムで苦しみ、死ななければ私たちの命は助からないのです。そして弟子たちはこのイエスの苦しみと死の意味をまず悟らなければならなかったのです。ここでイエスは弟子たちにも自分と同じように「使える者となりなさい」と教えています。つまり、使えるためにやってこられたイエスに習い、その苦しみと死に預かるものとなりなさいと教えていると言えるのです。

4.イエスの苦しみに預かる人生
(1)キリストの苦しみの欠けたところ

 ヨハネとヤコブは自分たちが出会わなければならない苦しみや死には何の意味もないと考えました。だからそれを乗り越えることのできる何か別の理由を必要としたのです。しかし、イエスにとってはそうではありませんでした。苦しむことが死ぬことが、それ自身で大きな意味を持っていたのです。そしてそれがイエスの人生の目的だとも言われているのです。
 それなら、イエスの弟子として「仕える者」となりなさいと教えられている私たちは自分の人生に起こる苦しみや死にどのような意味を見いだすことができるのでしょうか。イエスの弟子として生きた使徒パウロはこのことについて興味深い言葉をコロサイの信徒への手紙で述べています。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(1章24節)。
 パウロはここで自分が苦しむことで「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」と語っています。しかし、もしキリストの苦しみの欠けたところが本当にあったとしたら、私たちの救いは今も未完成であると言うことになってしまいます。つまり、イエスが地上の生涯で担った苦しみと死は、私たちの救いのために不完全なものだと言うことになってしまうのです。しかし、パウロはそんなことをここで言っているのではないのです。彼はここでわざわざ「キリストの体である教会のために」と前置きしています。キリストの救の出来事の上に立てられ、またその救いを多くの人々に宣べ伝える教会の使命のために彼は今苦しんでいるのだと言っているのです。

(2)苦しみと死を通してキリストを証しする

 ここで語られているのは私たちがイエスの弟子として生きようと決心し、そのために生涯を送るときに受ける苦しみが、私たちの救い主であるキリストを証しするものとして意味を持つと言うことなのです。キリストの弟子の使命はキリストをいつも証しすることです。その使命を実現するために私たちの受ける苦しみや死は意味を持ってくるとここでパウロは教えているのです。
 ここで誤解してはならないのは、私たちはキリストの弟子として、苦しみにも死にも人々に賞賛されるような、立派な生き方をしなければならないと教えられていると言うことではないと言うことです。むしろ、私たちがそんなことを望んでいるとしたら、私たちはイエスの十字架の前から逃げ去ってしまった弟子たちと同じ誤りを犯すことになるはずです。
 そうではなく、キリストご自身が私たちの苦しみと死を用いてくださり、私たちがそれを通してキリストを証しする者としてくださると言うことなのです。イエスはそのために私たちに「仕える者」となりなさいとここで勧められているのです。イエスはこの言葉に従って生きる私たちの人生を豊かに用いてくださるのです。そして、私たちの人生を通してキリストの福音を証しし、私たちが福音を通してすべての人に仕える者となるようにしてくださるのです。
 ヤコブとヨハネも、このことを知って自分の人生をイエスの招きにゆだねる必要があったのです。そうすれば私たちの主イエスは私たちの苦しみや死に意味を与え、私たちをどこにあってもイエスを証しする者として用いてくださるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 イエスの弟子として私たちが生きる道を教えてください。苦しみに出会いながら、その意味を尋ね求める私たちに、また私たちのとものために、聖霊が働き、その意味を教えてください。
主の御名によって祈ります。アーメン。
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