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礼拝説教 桜井良一牧師
あなたは神の国から遠くない

(2009.11.01)

説教箇所:マルコによる福音書12章28〜34節

28彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

1.一番大切なものは何か
(1)律法学者の質問

 日曜日の夕方にやっているマンガ『サザエさん』をご覧になられている方も多いと思います。あるときこんなお話が放映されていました。大きな地震が起こり家で仕事をしていたサザエさんのお母さんふねさんは、あわてます。地震はほどなく収まって、家も何事もなく無事でした。するとすぐに家の電話が鳴り、会社にいるお父さんの波平さんから「だいじょうぶだったか?」という安否を問う知らせです。ふねさんは夫は自分のことを心配して電話をくれたのだなと喜んでいます。するとすぐに波平さんはこう尋ねるのです。「とこの間に飾ってある家宝の花瓶はだいじょうぶだったか?」。喜んでいたおかあさんは今度は自分ことより花瓶の方を心配している波平さんに腹を立ててしまうと言うお話です。人間と言うものは、ふだんはわかりせんが、たいへんな事件が起こるとその人が何を一番大切にしているかがわかるものです。
 今日の箇所では律法学者がイエスに尋ねた「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と言う質問が登場します。ご存じのようにここに登場する「律法学者」は名前の通り、律法の専門家であり、当時のユダヤでは律法についてもっとも精通していた人物でした。そうなると彼は答えをあえて知っていて、イエスの能力をためすためにこの質問したのか、それとも本当に彼はこの答えを知らなかったのでイエスに尋ねたかが気になるところです。
 このマルコによる福音書の11章から12章にかけてはイエスがエルサレムに入城されて以後、起こったユダヤ人の宗教指導者たちとの一連の論争が記されています。ところが今日の部分は、その激しい論争とは少し違った色合いでこの物語が始まっています。「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた」(28節)。この律法学者は一連のユダヤ人の宗教指導者たちとイエスとの間で起こった議論を耳にして「イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた」と言うのです。彼はイエスに対して敵意を抱くのではなく、むしろ関心を抱いてこの質問をしたことがわかります。そうなると彼は明らかにこの質問の答えをイエスにまじめに尋ねていると言うことになります。彼はたぶんこの質問の答えを知らなかったか、あるいは自分なりの答えを持っていてもその答えに確信を持っていなかったに違いないのです。そのためにこの律法学者はイエスにこのような質問をしたのです。

(2)大切なことは一つ

 当時のユダヤでは旧約聖書に記された細かな律法とは別に、彼らの長い歴史の中で作られた「口伝律法」と言う膨大な決まりがありました。そしてその掟はそれを整理するために「律法学者」と言われるように、わざわざ学者が必要になるほど複雑なものになっていたのです。しかし、決まりはたくさんあればよいと言うものではありません。返って多ければ多いほど人々の生活を複雑にしたり、その自由を奪うことになります。イエスの時代にはそんな弊害がたくさん起こっていました。あまりにも複雑な決まりのために、多くの人は結局今自分が何をすればよいのかわからなくなっていたのです。
 もちろん、私たちの住んでいる日本ではこの時代のユダヤの国のような複雑な宗教的な決まりはありません。しかし、それと同じように、いえ、この当時の人々よりももっとたくさんの情報が私たちの周りには溢れていています。そして私たちはその内の何を信じ、何を選んだらよいのかわからないまま、判断停止のまま立ち往生してしまうことが多いのではないでしょうか。そのため私たちが知らなければならないことは、もっと多くの新しい知識ではなく、その中で何が一番大切なのか、私たちの人生にとって何が必要なものなのかと言う答えなのです。そのような意味で私たちもまた、この律法学者と同じようにイエスに真剣になって「私たちの人生にとって一番に大切なものはなんでしょうか」と尋ね、その答えを教えていただく必要があるのです。

2.切っても切り離せない二つの掟
(1)神への愛の応答

 イエスはこの律法学者の問いに即座に次のように答えています。「イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」」(29〜31節)。

 ここでイエスはユダヤ人なら誰もが知っている二つの旧約聖書の言葉を引用しています。第一は申命記6章4〜5節にある言葉で、そして第二はレビ記19章18節の言葉です。興味深いことに律法学者の「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と言う問いにイエスは「第一」だけではなく、「第二」の掟まで付け加えて答えています。実はこの答えはイエスが余計な戒めを付け加えたと言うのではなく、第一の掟と第二の掟が切っても切り離すことのできない関係にあることを教えているのです。
 まず最初にあげられている第一の掟では私たちの神への愛が教えられています。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」と語られるように、この掟では私たちが全身全霊を尽くして神を愛するようにと教えられているのです。それではどうして私たちとって神様を愛することがもっとも大切で掟となるのでしょうか。そうすればむしろ私たちが特別に神様から配慮されて、生活し易くなるからでしょうか。ここではそのような私たちと神様との駆け引きが問題にされているのではありません。むしろ、この掟の前提には神様が私たちを愛してくださっていると言う事実が隠されているのです。愛は「愛さなければならない」と誰かに強いられた中で生まれるものではありません。何ものにも縛られることのない自由の中でこそ、誠の愛は生まれてくるのです。神の私たちへの愛はまさにその純粋な愛の象徴です。神様は本来、私たちを愛さなければならない義務を持っていませんでした。それにも関わらず神様は私たちを愛してくださるのです。そして私たちの神への愛は、この神様の愛への応答として生まれるものなのです。ですから、この掟の前提にはまず神様が私たちを愛してくださったと言うすばらしい福音の知らせが隠されているのです。

(2)第一の掟と第二の掟の関係

 さらにこの第一の掟と第二の掟の関係性ついてですが、このことについて新約聖書のヨハネの手紙第一は次のように教えています。「「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(4章20〜21節)。

 ヨハネの手紙は私たちが目に見えない神様を愛しているかどうかは、目に見える兄弟を具体的に愛しているかどうかでわかると言っています。確かに私たちは「世界平和」については簡単に論じたり、声だかに叫ぶことができます。しかし目の前の兄弟を愛することにおいてはいつも困難を感じているのではないでしょうか。
 ところでどうして兄弟を愛することと神様を愛することはこのような密接なつながりがあると言うのでしょうか。使徒パウロはローマの信徒への手紙の中で兄弟を裁くことを警めて、私たちが兄弟を裁いてはならない理由をこう付け足して説明しています。「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(14章15節)。ここでパウロは兄弟を裁いたり、憎むことは、その兄弟を愛してその兄弟のために命まで捧げられたキリストの愛を否定することになると語っているのです。つまり私たちが兄弟を憎むことは、その兄弟を愛している神様の愛を間接的に否定することになり、結果的には神の愛を否定することになると教えているのです。このような意味で神様への愛と兄弟への愛は切り離すことができない関係にあると言えるのです。
 しかも、ここで聖書は「隣人を自分のように愛しなさい」と「自分のように」と言う言葉を付け加えていることに注意しましょう。この言葉は私たちの自己愛を肯定する言葉ととるよりは、私たちがどんなに自分のために時間と労力のすべてを毎日使っているのかを指摘した上で、それと同じ熱情をもって兄弟を愛するべきだと教えていると考えるべき言葉です。しかし、その場合、私たちに問題となるのは私たちが自分を愛することに執着している心を、どうして兄弟に向けることができるかと言う問題です。実はその答えもまた、第一の掟の前提と直結しています。つまり、神様が私たちを愛してくださっているのです。そして私たちのために万事が益となるように働いてくださるのです(ローマ8章28節)。だからこそ、私たちは今まで自分にのみ傾けていた愛を兄弟に傾けることができるようになるのです。ですから、この第二の掟も神様の私たちへの愛が可能にするものだと言えるのです。

3.イエスに出会い、受け入れなければ
(1)あなたは、神の国から遠くない

 このイエスの答えを聞いて律法学者は満足して次のように答えます。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」(32〜33節)。

 マルコによる福音書はこの律法学者の登場を私たちに伝えることで、旧約聖書の教える律法とイエスの語る教えには矛盾がないことを語っています。つまり、イエスの語る福音と旧約聖書の教える律法は対立するものではなく、一つの連続性を持っていると言っているのです。しかし、この律法学者の答えにイエスが最後に語った言葉について、私たちはさらに注意を傾ける必要があります。なぜならイエスは「あなたは、神の国から遠くない」(34節)と言っているからです。
 彼はここでイエスによって「あなたは、神の国から遠くない」と言うお墨付きをいただいています。しかし、イエスの言葉は「神の国から遠くない」と言っているのであって、「あなたは神の国に生きている」とか「神の国に到達している」とは言われていないことも確かなのです。つまり、彼は確かに神の国に近づいていましたが、まだ神の国に入るためには十分ではないともイエスは言っていることになります。

(2)十字架のイエスを知っていること

 それでは彼はこれ以上何を必要としていたのでしょうか。それはイエス・キリストを受け入れると言うことでした。なぜなら、私たちに対する神様の愛を私たちが確かめることができるのは、このイエスを通してだけだからです。神様がどんなに私たちを愛していてくださるかは、その神様の御子であるイエス・キリストを通してだけわかるのです。なぜなら神様がイエスを十字架にかけて、彼の命に代えて、私たちの命を救い出してくださったことではっきりわかるからです。このイエスを受け入れなければ、神様の愛は私たちにとって言葉だけのものとなってしまい、私たちを動かす力も変える力も全くありません。しかし、イエスは実際に私たちのために十字架にかかってくださったのです。そして私たちへの神様の愛を豊かに示してくださったのです。だから私たちはこの神様の愛を確信することができますし、私たちは神様を愛する者と変えられるのです。そして神様を愛することができるものが、兄弟を愛することができるのです。まさに、このイエスの愛を受け入れることが、私たちが聖書の教える第一の掟に生きる秘訣となるのです。律法学者は確かに様々な知識を持ち、律法に精通しイエスから「神の国に近い」とまで言われましたが、まだこのイエスを自分の救い主として受け入れるまでには至っていません。それが、このイエスの答えの中に明確に示されているのです。
 中世のキリスト教の説教者は私たちがイエス・キリストを受け入れることの大切さを次のようなたとえ話で教えたと言います。ある日、森の中を猫とネズミが一緒に歩いていました。猫はネズミが大切そうに抱えている大きな袋を不思議そうに指さし尋ねました。「ネズミ君、その大きな袋の中身は何だい」。するとネズミは得意そうになってこう答えます。「猫君、実は僕のもっている袋には、僕たちの生活に役立つこの世のあらゆる知識が詰まっているのさ。僕はこの袋を持っているおかげで、いつでも何でもできるのさ」と。そしてネズミは猫に聞き返しました。「ところで猫君、君は何を持っているの。そして何ができるの」。猫は答えました。「僕はこの足で、木に登ることができるよ」。ネズミは猫を馬鹿にしたように「何だ。それだけかい」と言いました。ところがそのときです、突然オオカミが現れて猫とネズミに襲いかかろうとしました。猫はとっさに木に登ってオオカミの難を逃れました。しかし、ネズミはもっている袋が重いためか、自由に走って逃げることができません。猫は木の上からネズミにこう叫びました。「ネズミ君、今がその袋を使うときじゃないのかい」。するとネズミはこう答えたというのです。「今初めてわかったよ。僕が持っている袋より、君のもっているもののほうが本当は役に立つことを」。説教者は語ります。たとえ私たちがこの世の知識や財産を持っていても、それは本当に私たちの命を救うために役に立つだろうか。それよりも大切なのは、木に登ること、つまり十字架のイエスの元に逃れることではないかと。
 私たちを命あるものとするのはたくさんの知識ではなく、私たちの主イエス・キリストを信じ、受け入れることなのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 様々な律法の中でどれが一番大切なのかを思い悩んだ律法学者のように、私たちもまた現在社会に溢れる様々な情報によって、不安を抱いたり、混乱してしまいます。私たちに聖霊を遣わして、イエスの十字架の救いを信じさせてください。そしてその十字架に示されたあなたの愛を深く知ることで、あなたを愛し、また隣人を愛する者として私たちを造り替えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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