24「それらの日には、このような苦難の後、 太陽は暗くなり、 月は光を放たず 25 星は空から落ち、 天体は揺り動かされる。 26そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。 27そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。 28いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。 29それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。30はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。 31天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。 32その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」
1.世の終わりとキリスト教信仰 再来週の礼拝から待降節が始まります。教会のカレンダーはこの待降節から新しい年が始まるようになっていますから、この新しい年に入る前に教会暦は「世の終わり」、終末に関する聖書の箇所を私たちに読むようにと指示しています。 聖書は私たちが住んでいるこの世界に終わりがあると言うことを私たちにはっきりと告げている書物です。ところが不思議なことに、聖書に記されているイエスの教えに興味を抱く人でも「世の終わり」についてはどうも理解できないと言う人がたくさんいるようです。聖書からこの部分の教えを取り除けば自分も信じることができるのにと思っている人もいるのです。しかし、聖書の教えにとってこの「世の終わり」の出来事は決してそこから取り除くことのできないものであると言えます。これとは反対に私たちの周りには世の終わりの事柄をことさら強調する人もいて、聖書をそのような関心から読む人がいます。聖書の教えの終末に関することだけに関心を持って、イエスの教えなど眼中にないと言う人が一方には存在するのです。まさにこれらの人の聖書の読み方はバランスを欠いてしまった不適切なものであると言うことができます。 聖書はこの世界のすべてが神様によって創造されたことをはっきりと教えます。また、その事実に立って神様がやがてこの世界を完成されることも教えているのです。そして、その神様の働きがイエス・キリストの御業と教えによって具体的に表されたと言えるのです。ですからイエス・キリストの救い主としての役目はこの世界を完成させる神様の計画を実現するところにあると言ってよいのです。つまり、聖書の「世の終わり」についての教えを無視してしまえば、イエス・キリストの働きの意味を本当の理解することができませんし、イエス・キリストの教えを抜きにして「世の終わり」について論じることは、かえって人々に混乱を与えるだけの危険な教えになってしまうのです。 今日の箇所ではイエス・キリストが教える「世の終わり」の出来事と、その出来事に対して私たちが持つべき信仰の姿勢が語られています。 2.危機ではなく希望 (1)慰めと希望を与える書 私たちが読んできたマルコによる福音書はこの13章でエルサレムに入場されたイエスが語られた「世の終わり」に関する教えを記しています。ですから「世の終わり」の出来事について同じように記しているヨハネの黙示録に習って、このマルコによる福音書の部分を「小黙示録」と呼ぶ人もいるのです。 黙示録と言うと多くの人々はこの世界にやがて起こる出来事を秘められた言葉で語る書と言うイメージが強いと思います。実は私たちの教会では少し前に水曜日の夜の集会でこの黙示録を最初から最後まで丁寧に学ぶ機会が与えられました。そのときに私たちが学びの中で知ったことはこの黙示録は、信仰者のために書かれた神のメッセージを伝える書であると言うことです。イエス・キリストを救い主として信じて生きる信仰者がその信仰生活の中で遭遇する様々な出来事の中でも失望することなく、希望を持って歩むことができるようにと記された書物がこの黙示録なのです。そのような意味で、このマルコによる福音書の記すイエスの言葉も、世界にやがて起こる出来事を記していると言うものでなく、イエス・キリストを信じて生きる私達に希望と慰めを与えるために語られていると考えていいものなのです。 (2)危機の中にある人に この13章ではエルサレムにあった神殿が崩壊する予言から始まって、戦争や自然災害、偽預言者の出現や厳しい迫害の時代の到来が語られ、その最後に世の終わりが訪れると言うお話が展開されています。確かにイエスがこのお話を語られたとき、エルサレムの神殿はこの世のからやがてなくなってしまうなどとは思えないほどに壮大な姿を誇っていました。しかし、実はこのマルコによる福音書を読んでいる読者にとってはそうではなかったのです。この福音書が記されたときすでにエルサレム神殿はローマ軍の手により、完全に破壊され廃墟となっていました。さらにはその時代、教会に集う人々は偽預言者の出現に惑わされ、未曾有の自然災害を経験し、また激しいローマ帝国の迫害に会っていたとも考えられているのです。つまり、このマルコによる福音書の読者にとってはここで語られているイエスの言葉は彼らが今実際に体験している出来事とであったと言えるのです。 これからどうなってしまうか分からないと言う不安の中に生きるこの福音書の読者たちに、イエスの言葉ははっきりと告げているのです。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」(26〜27節)。 すべての希望が失われていくような出来事の中で、信仰者は「キリストが再びこの地上に来られて、その御元に自分たち信仰者を集められる」と言う希望をもつことができると言うのです。福音書記者はこのイエスの言葉を読者たちに示すことによって、彼らが抱えていた不安を解消し、困難な状況の中でも希望を失うことなく、喜びを持ってその日を待ち望むことができると教えているのです。 3.しるしをわきまえる (1)世の終わりの前兆 ところでイエスは世の終わりの出来事を前にして、私たちに次のように教えています。 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(28〜29節)。 イスラエルではイチジクの木に葉が茂り出すのが3月頃、そしていちじくの実を付けるのは6月頃だと言われています。ですからイチジクの木に葉が茂りだしたら、イチジクの実がつく夏が近づいていることが分かったのです。そしてこのたとえを用いてイエスは世の終わりについてもその前兆となる印を見極めて、準備しておきなさいと私たちに勧めているのです。 確かに私たちの住む日本でも四季の変化を豊かに感じることができます。今はその変化の一つである山々の紅葉を楽しんで、行楽地に出かける人も多いはずです。ただ、この場合には私たちは毎年同じことを繰り返し経験しているので、山々が紅葉になると、もうすぐ雪が降る冬がやってくるなと感じることができるのです。しかし、世の終わりの出来事は私たちがまだ体験することができていないことですから、その印を見極めると言うことはとても難しいことだと言えるのです。人類の歴史の中で大規模な自然災害は繰り返し起こっています。今は世界規模での温暖化のために地球の環境が破壊されつつあると叫ばれています。また、戦争の問題も絶えず繰り返して起こっています。偽予言者のような人物が現れては人々の心を惑わすことさえ、私たちの周りにはときどき起こります。キリスト教会への激しい迫害は、今でも世界の様々なところで起こっている現実なのです。ですからそれらの出来事を見て、すぐに世の終わりの前兆だと考えることには私たちはかなりの抵抗感を感じるのです。しかし、私たちはだからこそ鈍感になり、いつの間にかこの地上に終わりがやって来ることを忘れてしまっている傾向があるのではないでしょうか。 (2)終わりの印を見逃してはならない それは世の終わりの出来事に関わることだけではありません。私たちはもっと身近に起こるはずの自分の人生の終わり、死の出来事にもいつの間にか鈍感になっているのではないでしょうか。私たちの人生には必ず終わりがやって来ます。それは否定することができない現実なのです。そしてその印として、私たちは身近な人々の死を体験させられるのです。しかし、私たちはどちらかと言うと身近な人々の死を通して、自分にも必ず死が訪れることを知ろうとしない傾向があります。確かに自分にとってどんなに身近な人の死であっても、私たちはそこから逃げることができるのです。しかし、自分の死はそうではありません。そこから逃れることは絶対にできないのです。もし、その自分の死を前にしたとき、私たちが私たちの周りで起こる人々の死から目を背け、逃げ回っていたならば、それはまさに自分のために与えられている準備の機会を失ってしまうことなるのです。 私たちはどれが本当の終わりの前兆かと言うことに気を配るのではなく、終わりを感じさせるこれらの出来事に目を向け、終わりのための備えを自らが行う機会を失うことがないようにすべきなのではないでしょうか。そしてそれがイエスのここで私たちに望んでいることだと言えるのです。 4.知らないけれど信頼できる (1)神様を信頼すること しかし、この準備に際して私たちが忘れてはならないことは、イエスが語る「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」(32節)と言う言葉です 。イエスは私たちに教えています。「その日、その時は、だれも知らない」と。それは父なる神がご存じのことであると言うことですし、私たちには知らされない事柄、つまり私たちが知る必要ない事柄だとも言えるのです。ですからイエスはその日のために私たちが備える必要があることを語りながら、もう一方でその日のことをあなたたちは知る必要がない、つまり心配する必要なないと教えているのです。 私は旅行に行く際に、いろいろな道具をカバン一杯に詰め込んでしまう傾向があります。旅先で起こるアクシデントを心配して、そのときのためにいろいろな道具を準備するのです。しかし、イエスが「世の終わり」に対して、また私たちの人生に終わりに対して求める準備とはそのような心配に基づくものではありません。むしろ、イエスは私たちにその日を唯一知っている方を信頼しなさいと教えているのです。ですから、私たちに求められる準備とは、この世界を完成し、私たちの人生を完成してくださる神様を信頼して、その日を希望を持って待ち望むことだと言えるのです。 イエスの有名な山上の教えの一節に「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイによる福音書6章34節)と言う言葉があることを皆さんは知っていると思います。この文章の前には「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(同27節)。誰も自分の寿命を延ばすことはできません。つまり、終わりをコントロールすることは私たちには出来ないのです。だからこそ私たちにはその終わりをコントロールされる神様を信頼することがいつも求められているのです。 (2)決して滅びない言葉 先にも触れましたように、このイエスの語る小黙示録はエルサレム神殿の崩壊と言う出来事を前にして語られたイエスの言葉から始まっています(13章1〜2節)。当時のユダヤの人々にとってエルサレムの神殿は自分たちに対する変わらない神様の愛を示す目に見える印と考えられていたのです。ですから、人々はこの神殿がまさか崩壊してしまうことなど考えもつかなかったのです。だから、彼らはエルサレム神殿の崩壊の出来事を聞くなり、すぐに世の終わりの出来事の連想することになったのです。しかし、エルサレム神殿はこのすぐ後の紀元40年頃に起こったローマ軍との戦いによって完全に破壊されてしまいます。彼らが最も確かなものと考えていたものが、完全に破壊されてしまうと言う出来事は実際に間近に迫っていたのです。 自分が今まで確かだと思っていたものが跡形もなく崩壊してしまうとき、私たちは不安と恐れにとらわれるはずです。自分はこれからどうしていいのか、何を頼りにして生きて行けばいいのか分からなくなってしまいます。しかし、そんなときでも私たちには信頼することができる方がおられるのです。イエスはそれが私たちの神様であることをここで教えています。そしてその上でイエスは私たちに次のように語ります。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(31節)。どんなに私たちの周りの事柄が変化しても、また私たちが今まで持っていた目に見える頼りが失われても、私たちにはイエスの言葉が残されているのです。そしてその言葉には、この終わりの時をコントロールすることのできる神様と私たちとの関係がはっきりと示されているのです。その言葉によれば、私たちの神様は私たちのためにこの終わりのときを準備しておられるのです。そしてそのために救い主イエス・キリストを私たちのために遣わしてくださったのです。このことを御言葉を通して知る私たちは、どんな時にも目に見える大きな変化の向こうに神の確かな御業が行われていることを確信し、信頼することができるのです。イエスはここでまさにそのような信頼をもって終わりの時を待ち望むようにと私たちに教えているのです。 【祈祷】 天の父なる神様。 私たちがこの地上で拠って立つもののすべては、やがて形無く崩れてしまうことをあなたは教えてくださいます。しかし、その中にあって私たちに滅びることがないイエス・キリストの言葉が与えられていることを感謝します。様々な危機の中にあっても、その背後に隠された世の終わりに向うあなたの御業の意味を悟ることができますように。あなたを信頼し、希望を持って生きていけるように、私たちの信仰を強めてください。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 このページのトップに戻る