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礼拝説教 桜井良一牧師
今を目覚めて生きるための『その日』

(2009.11.29)

説教箇所:ルカによる福音書21章25〜28,34〜36節

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕 
25「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
26人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。
27そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
28このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
34放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。
35その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。
36しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

1.クリスマスと再臨
(1)二つの「待つ」

 主イエス・キリストの降誕を祝うクリスマスを準備する待降節の季節が今日から始まります。すでに町中にはクリスマスの飾りが溢れています。今は一般の家庭でも争うようにクリスマスのイルミネーションをつけるようになりました。しかし、クリスマスの準備はこのような派手なイルミネーションで家々を飾るところにあるのではなく、このクリスマスの主人公であるイエス・キリストの誕生がこの世界にとって、また私たちの人生にとってどんなに大切な意味を持つかを思い起こし、イエス・キリストの降誕を心から喜び祝うことにあると言えます。そのような意味でこの待降節に教会で読まれる聖書の箇所は、クリスマスを迎えるために私たちが思い起こさなければならない事柄が毎週取り上げられていきます。
 毎年のようにこの待降節の意味を皆さんとともに確認していますが、この待降節には主に二つのことを「待つ」と言う意味があります。一つはすでに今から二千年前に起こったイエス・キリストの誕生の出来事に思いを巡らし、その日を記念するクリスマスの日を待つと言うことです。そしてもう一つはこのクリスマスの日にお生まれになったイエス・キリストが地上でのすべての使命を終えて天に変えられた後、もう一度この地上にやって来てくださると言う約束が実現する日、主イエス・キリストの再臨の日を待ち望むと言うことです。このような意味で今日の聖書の箇所はこの主イエスの再臨、終わりの日を待つ者に対する教えが語られています。

(2)世界と人々に起こる混乱

 今日のルカによる福音書の聖書箇所は先日取り上げたばかりのマルコによる福音書13章の物語と同じ事柄を取り扱っている「平行箇所」と呼ばれる部分です。イエスによるエルサレム神殿崩壊の予告から始まる世の終わりの出来事がここには語られていて、この部分は「小黙示録」と呼ばれています。しかし、福音書は主イエスにまつわる同じ出来事を取り上げながらもそれぞれ違った視点を持ってこの出来事を記録しています。もし、すべての福音書が同じ出来事を同じ視点で取り上げていたならば、わざわざいくつもの福音書が記される意味がなくなってしまいます。しかし、神様は私たちに四つ福音書を与えることによって、より立体的で豊かに主イエスの福音の出来事を伝えようとされたのです。ですから、ここでも私たちはルカの福音書特有の視点に注目することが大切になってくるのです。
 ここでは世の終わりに伴う前兆、様々な徴がこの世界に続けて起こることをイエスは私たちに語っています。しかし、興味深いことにこの世の終わりに伴う徴について細かく書き留めたマルコに対して、このルカはその徴の説明をむしろ簡潔に済ましてしまいます。そして、ルカの関心はこの世の終わりに伴う出来事に対して人々がどんな反応を示すかに関心を持っていると言えるのです。

 「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである」(25〜26節)。

 「諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る」。「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう」。このように世界や人々に起こる混乱をルカは強調して取り上げています。確かに、こんなことが起こったら誰もが混乱し、怯え、パニックになってしまうはずです。しかし、この福音書はさらにもう一方で「あなたたちは」と言う言葉を使って、このような出来事の中でも混乱に陥ることない、いえ、その必要がない人々が主イエスを救い主と信じて生きる「あなたたち」であると語っているのです。このように同じ出来事を経験しながら混乱に陥る人と、そうでない人がいるとルカによる福音書は語ります。その違いはいったいどこから生まれてくるのでしょうか。

2.解放の時が近づいた
(1)頼りにしているものが

 どうしてこれらの徴を前にして世界や世の人々は混乱に陥るのでしょうか。確かに生死に関わる危機が間近に迫っているのですから誰もが恐れに襲われるはずです。しかし、ここで表される人々の混乱の意味は大きく分けて二つ考えることができるのです。
 一つは神殿崩壊が表すように、自分たちが今で頼りにしていたものがすべて崩れ去ってしまうと言う事実です。当時のユダヤ人は自分たちこそが神様に選ばれた民だと考えていました。そしてエルサレム神殿はその彼らの信仰の確信を表す象徴だったのです。また、その神殿の壮大さは自分たちの信仰の熱心を表す印しでもあったと言えるのです。ところが世の終わりに際しては、自分たちが頼りにしていたものがすべて無力なものになってしまうのです。そしてそこでは自分たちの信仰の熱心ささえ頼りにはなりえないのです。それは大変に恐ろしいことではなにでしょうか。もう何も頼ることができないのです。そこでマルコによる福音書はだから「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(13章31節)と言う主イエスによって示された福音の約束を語っています。世の終わりに対して私たちが頼れるものはこの主イエス・キリストの福音でしかありません。しかし、ここに登場する世界とそこに住む世の人々はこのイエス・キリストの福音を受け入れず、拒否してしまったために、世に終わりに伴う出来事の前に混乱し、恐怖に捕らわれる以外なかったのです。

(2)解放の時

 世や世の人々の混乱の理由はもう一つあります。それは世の終わりに伴う出来事を経験して、彼らはこの出来事が一体に何のために起こっているかが分からないから恐怖せざるを得ないと言うことです。だから彼らにとってはまさに目の前に起こる出来事は世界の崩壊以外のなにものでもないのです。
 しかし、聖書はこの世の終わりがなぜ起こるかを私たちにはっきり告げています。それは神様が創造されたこの世界が完成するためであり、私たちの救いが成就するためにこの終わりの時がやって来るのです。だから今日の箇所でも「あなたがたの解放の時が近いからだ」(28節)と語られています。この「解放」と言う言葉の本来の意味は「身代金をもって買い取られる」と言う意味を持っています。最近では「身代金」と言うと誘拐事件を連想させますが、この場合の身代金は奴隷を買い取るお金を意味しています。つまり、この身代金が支払われることによって奴隷であった者が自由の身になることができるのです。このように聖書はこの世の終わりを、私たちが解放されるとき、自由を得るときにと言っているのです。
 ところが多くの人はそのことが分かりません。その理由は私たちを救うためにやってきてくださった救い主イエス・キリストを彼らが受け入れていないからです。その救いを理解していないからです。だから、彼らにとっては世の終わりは恐怖と混乱のときでしかないのです。

(3)クリスマスを祝う本当の意味

 世の終わりについては信仰者の中にも様々な混乱した理解が存在しています。しかし、実はその混乱した理解の原因は私たちがこれから祝おうとするクリスマスの意味、つまり、すでに地上に来てくださった主イエスの救いの意味を十分に理解していないことから起こっていると考えることができるのです。
 その中でも最も代表的な誤解は「私たちの救いは世の終わりになってみないと分からない」。「もしかしたら、救われていると思っている自分はそのとき神様から拒否されるかもしれない」。「だから、その日まで油断しないで信仰生活を熱心に送るべきだ」と言う考えです。ここでは確かに信仰に対する熱心が叫ばれていますが、その信仰の熱心は「自分は拒否されるかもしれない」と言う不安によって生み出されるものに過ぎません。そしてカルトと呼ばれる集団はそこに集まる人々をマインドコントロールするためにこのような不安を有効に使います。どんなに熱心になっても、どこまでも安心することができないわけですから、そこに集う人々は教団や教祖の無理な命令にどこまでも従い続けなければならなくなるのです。それをやめたら自分の救いは実現しなくなってしまうからです。しかし、私たちの救いは私たちの信仰の熱心さにあるのではありません。それはエルサレムの神殿と同じように崩壊する可能性をいつも秘めています。私たちの救いはこの地上に来てくださり、私たちのために十字架にかかり命を捧げられた主イエスの御業の完全性に100パーセントかかっているのです。
 つまり、このキリストの救いの完全性を知り、それを信じる私たちはすでに世の終わりに何が起こるかはっきり知らされていると言ってよいのです。確かに、私たちはこの地上の生活において、信仰の戦いを戦い続けなければなりません。そして何度も自分の信仰の弱さを痛感しながら、それでも主イエスを信じて歩み続ける必要があります。しかし、世の終わりのとき私たちはその戦いから解放され、自らの弱さからも解放され、主イエスの救いが自分の上に完全に実現することをこの目をもって確認することができるのです。黙示録も、この福音書に記されている「小黙示録」もこの厳しい信仰の戦いの中にある信徒を慰め、励ますために書かれたものなのです。やがて、私たちはキリストの勝利を私たちがはっきりと知るときが訪れるのです。それが「解放の時」、私たちが完全に自由にされるときだと聖書は教えるのです。そしてこのようなイエス・キリストの救いの完全性を理解できず、またその福音を信じない者にとっては世の終わりはどこまでも恐怖を与える出来事でしかなく、この地上にあってその日を不安な思いで待たなければならなくなってしまうのです。

3.目覚めて祈れ

 これらの出来事を前にして三つの福音書はすべて同じように主イエスの「目を覚ましていなさい」(ルカ21章36節、マルコ13章33節、マタイ24章42節)と言うメッセージを書き留めています。ところがこの同じメッセージを書き留めながら、三つの福音書はそれぞれ「目を覚ましていなさい」と言う主イエスのメッセージの意味について特有の解釈を加えていると言っていいのです。たとえば、私たちがこの間学んだマルコによる福音書ではこの「目を覚ましていなさい」と言うメッセージと「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(13章31節)と結びついて、私たちがいつまでも変わるこのない主イエスの約束をいつも忘れることがないように生きなさいと教えているように考えられます。またマタイでは「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)と言う主イエスの言葉と結びついて、目の前で苦しんでいる人々を忘れることないようにと言うメッセージを「目を覚ましていなさい」と言う言葉を通して教えていると考えることができるのです。そしてこのいずれも世の終わりに備える私たちにとって大切なことだと言えるのです。
 それではルカはこの「目を覚ましていなさい」と言うメッセージをどのように理解して、私たちに教えているのでしょうか。「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(36節)。ルカは「いつも目を覚まして祈りなさい」と言う言葉で、目を覚ましているのは私たちが神様に心を向けて祈るためでると教えているのです。それではどうしてこの祈りを終わりのときを待つ私たちに重要となってくるのでしょうか。
 夜の祈祷会で宗教改革者カルヴァンの記したキリスト教綱要の第三巻20章の「祈りについて」の章を学んでいます。カルヴァンのこの文章は「祈りについて」記された名著であると言われていますが、残念ながら私たちはあまり読む機会がないので、この機会にと皆さんと一緒に読み進めています。カルヴァンはこの祈りについての教えに先立って、「神様は何でも知っておられる方であるとしたら。どうして私たちはわざわざ祈る必要があるのか」と言う疑問に答え、「祈りは神様のためではなく、私たちのために与えられているのだ」と教えるのです。このカルヴァンの文章を読み進めて行くと分かるのですが、祈りは私たちを神の子として訓練するために神様が与えてくださっているものであると言えるのです。ですから祈りの生活を通して私たちは神様にふさわしいものとされているのです。
 『無名の南軍兵士の祈り』と言う有名な祈りの文章が存在しています。この祈りの文章はまさに私たちにとって神様への祈りがどのような意味を持つかがよく示されています。

 大事をなすための力を与えてほしいと神に願ったのに
 従順さを学ぶようにと弱い人になった
 偉大なことができるようにと健康を望んだのに
 より善きことができるようにと病弱さを与えられた

 幸せになるために富を求めたのに
 賢くなれるようにと貧しさを授かった
 人々の賞賛を得ようとして力を求めたのに
 神の必要を感じるようにと弱さを授かった

 生活を楽しもうとあらゆるものを求めたのに
 あらゆることを喜べるようにと生命だけを授かった
 求めたものは何も与えられなかったが
 願ったことはすべてかなった

 こんな私なのに、
 声に出していわなかった祈りもすべてかなえられ
 私は誰よりも豊かな神の祝福を受けた

 このように祈りを通して変わるのは私たち自身であると言えるのです。神様はこのように私たちを訓練し、真の救いへと導いてくださるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 今年も主イエスの降誕を祝う季節を迎えています。どうか私たちにその準備をさせてください。私たちが主イエスの救いのすばらしさを覚え、その主イエスが再びやって来られるときを希望を持って待ち望む者としてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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