Message 2007 Message2006 Message2005 Message2004 Message2003
礼拝説教 桜井良一牧師
「私たちのところに来てくださるイエス」

(2009.12.06)

説教箇所:ルカによる福音書3章1〜6節

1皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、
2アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。
3そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
4これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。

  「荒れ野で叫ぶ者の声がする。

  『主の道を整え、

  その道筋をまっすぐにせよ。

  谷はすべて埋められ、

  山と丘はみな低くされる。

  曲がった道はまっすぐに、

  でこぼこの道は平らになり、

  人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』

1.ルカの視点
(1)救いが全世界の人々に

 待降節第二週の礼拝ではバプテスマのヨハネと言う人物を紹介するルカによる福音書の物語が朗読箇所として指定されています。このルカによる福音書の記者はおそらく先に記されていたマルコによる福音書の内容を理解した上で自分の福音書を記したと考えられています。ですから福音記者ルカはマルコが記した福音書に更に自分が独自に収集した主イエスの福音に関する資料を織り交ぜながらこの福音書を書き記したと考えられるのです。先日の礼拝でもそれぞれの福音書記者がそれぞれ独自の視点で福音書を記していることについて触れました。そしてその視点を十分に考慮してこの福音書を読むことには大きな意味があることを確認したのです。
 このルカの福音書の著者の持つ視点で最も特徴的なものは何かと言えば、主イエスの福音が全世界、全人類に及ぶものであると言うことを主張している点であると思います。ご存じのように主イエス自身が十字架にかけられる前の活動はほとんどイスラエルの地に限定されていました。ですからそこに登場するほとんどの人々もユダヤ人であると言ってよいのです。またイエスの発言の中にも「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタイ15章24節)と言う言葉があります。これも地上でのイエスの活動がイスラエルの地に限定されていたことを示す言葉と考えられています。
 しかし、使徒言行録に記される教会の歴史を見ると福音は人々の思いを超えて全世界の人々に告げ広まって行ったことが分かります。もちろん、これは神様の御旨がそのようにさせたのです。ですから神様は全世界の人々を救うためにイスラエル民族を選び、その民族を救いのため道具として用いられたのです。福音書記者ルカは使徒パウロの助手として彼の福音宣教の旅を共にした人物でしたから、このことがよく分かっていたようです。そこでルカはこの神様の御旨に従って主イエスの福音をユダヤ人以外の外国の人々に伝えようとこの福音書を記したと考えられているのです。
 今日の聖書箇所でも、ルカはイザヤ書の言葉「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」(6節)を引用して、すべての国々の人々がイエス・キリストを通して神の救いを実現したことを知るようになると言うことを語っています。

(2)ヨハネのメッセージの対象

 先ほどのイエスの発言「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」の通りイエスの活動のほとんどがイスラエルの地域に限定されていました。また旧約聖書を読むと神様の御業がイスラエル民族にだけに限定されていたようにも見えるのです。そして異邦人と呼ばれる外国人はあたかもそこでは神様に見放された存在のように扱われています。このこととルカの主張点であるイエス・キリストを通して実現した救いは全世界のためにというテーマはどのように関係づけられるべきなのでしょうか。
 先ほども少し触れましたように、イスラエルの民族は神様の救いが全世界の人々に実現するために用いられ人々だったと考えることができるのです。神はイスラエル民族を通して聖書を私たちに与えてくださいました。またイエス・キリストもダビデの家系であるヨセフとマリアの子供として誕生したのです。このイスラエル民族の存在がなければ私たちは主イエスの福音を知ることが出来ませんでした。この意味でイスラエルはまさに全世界の救いのために選ばれた人々だったのです。しかし、だからといってイスラエルの人々だけが神様から特別扱いされることはありません。イスラエルの人々もまた、その他の国々の人々と同じように主イエスを救い主と受け入れ、信じることでその救いにあずかることができるからです。
 今日の部分に登場するバプテスマのヨハネは自分たちの先祖をアブラハムと考えるこのイスラエルの人々に悔い改めを厳しく求めました。それは彼らがイエスの救いを受けるための準備であったと考えることができます。バプテスマのヨハネは決してイスラエルの人々を特別視扱いしていません。彼らにもまたすべての国の人々にもイエス・キリストの信仰は必要なのです。

2.ヨハネのバプテスマの意味
(1)死と再生を意味する洗礼

「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(3節)。

 ヨハネはヨルダン川に人々を集めそこで洗礼を施しました。ヨハネはおそらく洗礼希望者をヨルダン川の水中に沈めることでこの洗礼を行ったと考えられています。日本でも宗教儀式の中には水を使ったり、水の中に入っていくものがあります。しかし、その大半はその水によって体の汚れを清めると言った意味をもつものがほとんどではないでしょうか。たとえば修行者が冷たい滝の水に打たれて、身を清めると言うように水はその人の体の汚れを落とすように、目に見えない汚れを落と考えられているのです。ところがヨハネが授けた洗礼は「罪の赦しを得させるために悔い改め」の意味があって、私たちの知っているみそぎの儀式とは大きく違っています。
 もともと、洗礼の際に水に沈むのはその人が一度は完全に死んで、新しく再生すると言う意味を示すと考えられています。つまり、洗礼を受ける人は死んで葬られてしまった後に、今度は新しい命に甦ると言うことを表しているのです。みそぎであれば、再び汚れれば、再度みそぎをする必要が生まれます。しかし、洗礼は死んで甦ることを意味するものですから、それは一度受ければよいのです。むしろその洗礼を何度も受けてしまったら本来の洗礼の意味が損なわれてしまうと考えてよいのです。

(2)悔い改めを表す

 つぎに「罪の赦しを得させるために悔い改め」とヨハネの施した洗礼には説明が加えられています。人々は罪の赦しを求めてヨハネ元に行き、彼から洗礼を受けました。ところで「罪の赦し」はいったい誰ができることなのでしょうか。聖書によればそれは神様以外にはできないのです。なぜなら、そこで問われている罪は人間が神様に対して犯した罪であるからです。ですから、人はこの罪の赦しを神様だけ願わなければならないのです。ヨハネが罪を赦しているのではないのです。それでそこに必要になってくるのが「悔い改め」であると言えるのです。
 普通、「悔い改め」と言うと悪いことをして来た人が自分の今までの行状を悔い改めて、ただしく生きることを決心すると言うようなときに使われます。この場合は自分の行動、あるいは生き方を変えることを決心したと言う意味で使われているのだと思います。ところが聖書の言う「悔い改め」はどちらかと言うと行動の変化と言うよりは、むしろ生き方の方向転換と言う意味を持った言葉になるのです。つまり今まで自分のために生きていた人生を、神様のために生きるようにする、つまり私たちの心の向きを自分自身から神様に向けて生きるようにと決心するのがこの悔い改めです。
 ですから、この悔い改めをした人の人生は昨日までの行動とは全く違ってしまうこともありますし、また全く同じに見えることもあります。しかし、その行動が同じでも、今までは自分のためにして来たことが、神様のためになされることとなるのですから、全くのその意味が異なってくると言えるのです。このようにヨハネの洗礼は人間の心の方向転換を表す意味をもったものだと言えるのです。なぜなら、罪を赦しを受けるためには私たちの心を神様に向わせないとならないからです。

4.慰められる人々
(1)バビロン捕囚からの解放

 これは他の福音書記者も同様の見方をしているのですが、ルカは先ほどから言っているようにこのバプテスマのヨハネの活動を旧約聖書に預言されていた言葉の成就であると説明しています。そこで福音書記者はここでイザヤ書40章の言葉を引用したわけですが、その40章は実際には次のような言葉で始まっています。

 「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と」(1〜2節)。

 実はこのイザヤ書の預言は本来、イスラエルの人々には別の出来事を預言する言葉として考えられていきました。このイザヤ書の預言は元々イスラエルの国が外国の軍隊に滅ぼされ、そこに住む人々が遠い外国に捕虜として連れていかれると言ったバビロン捕囚の出来事を背景として語られています。そしてこの40章はそのバビロン捕囚から解放されてイスラエルの民が自分の生まれ故郷に帰ることができると言うことを預言していると考えられてきたのです。その際、民をバビロンからイスラエルへと帰還させるのは神様ご自身の役割です。ですから、人々はまず自分たちを導いてくださるこの神様を受け入れる準備をしなければなりません。ですから「主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」と言われるときの「道」とは人々が神様を受け入れるための備え、準備を表していたのです。
 福音書記者たちはこのイザヤ書の預言をイスラエルの民のバビロン捕囚からの解放だけを意味するのではなく、全人類が罪から奴隷状態から解放されて、自由な神の民として生きるときが来たと言う意味で福音書に書き記し、その出来事がバプテスマのヨハネの活動と共に始まったと言うことを語っているのです。

(2)私たちの心の道備え

 ところでここで大切になってくるのは、このようにして神様の救いが私たち全世界のすべての人間のために実現したと言うことを福音書が語っていても、私たち自身の側でその救いを受け入れるようとする決心をしなければ、神様の救いは私たちにとって無意味なものになってしまうと言うことです。つまり、私たちの心にも神様を迎え入れる道が必要となってくるのです。実はイスラエルの民はこの失敗を犯しました、聖書を通してこの神様の救いを子供のときから教えられていたのに、イエス・キリストを救い主として受け入れることを拒否してしまったのです。ですから彼らは神様の救いを受け入れられない状態になってしまったのです。
 待降節の礼拝を通してクリスマスを準備する私たちに大切なことはこのイスラエルの民が犯した過ちを繰り返すことがないようにと言うことです。そしてバプテスマのヨハネの呼びかけに応じて、このヨハネが指し示した救い主イエス・キリストを自分の救い主として受け入れることが大切になってくるのです。それでは私たちはそのために何をすべきなのでしょうか。まず、私たちは自分が神様から罪を赦していただかなければどうにもならない罪人であると言うことを認めなければなりません。そして、その赦しのために私たちの心の向きを救い主イエス・キリストの方に向けて生きるのです。今までは、自分で何とかなると思っていろいろ考え、行動してきた私たちが、主イエス・キリストにのみ希望を持って生きることをこのバプテスマのヨハネの洗礼は私たちに教えています。
 この悔い改めは町中に飾られているクリスマスのイルミネーションのように華やかなものでは決してありません。むしろ、ヨハネはこの悔い改めのために私たちを荒れ野に導いているのです。その厳しい状況の中で本当の自分に向き合い、望みはイエス・キリストにしかないことを認めることが私たちには必要なのです。そして、その心の準備をするとき、つまり道備えをするときに、神様はその私たちのところにやって来てくださり、私たちを死から命へと導いてくださると今日の言葉は私たちに約束しているのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 待降節第二週の礼拝を献げることができて感謝します。私たちの心を私たちの罪を赦すことができる救い主イエス・キリストに向けさせてください。そして、そこから消えることのない希望の光を受けることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
このページのトップに戻る