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礼拝説教 桜井良一牧師
優れた方が来られる

(2009.12.13)

説教箇所:ルカによる福音書3章10〜18節

10[そのとき、群集はヨハネに、] 「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
11ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
12徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。
13ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。
14兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。
15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
18ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。

1.確かなものが揺らぐとき
(1)アブラハムの子孫

 先週の箇所の続きから今日は学びます。今日の箇所ではバプテスマのヨハネの説教によって刺激された群衆がヨハネに質問する場面から始まっています。ヨハネはこの直前の箇所で「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(7〜9節)と語って、人々を驚かせました。マタイの福音書ではこのメッセージはファリサイ派やサドカイ派と呼ばれる当時のユダヤの宗教的指導者に向けて語られているように記されています(マタイ3章7節以下)。しかし、このルカの福音書では特にこのメッセージの対象は言及されていません。ルカはこの説教の対象を民衆すべてに広げているのです。
 今までもお話しているようにユダヤ人にとって「我々の父はアブラハムだ」という言葉は特別な意味を持っていました。なぜなら神はこのアブラハムと約束して、彼と彼の子孫を祝福すると約束してくださったからです。つまり、彼らにとって「我々の父はアブラハムだ」と言うことは「自分たちは神様の祝福にあずかることができる特権を持った民族だ」ということ意味していたのです。
 ですから「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と言うヨハネの言葉は「お前たちは自分が救われていると考えているようだが、それは大間違いだ。自分がアブラハムの子孫だなどと言う事実は神様の裁きのときに何の役にも立たないものだ」と語り、ユダヤの人々の持っていた宗教的確信を大きく揺るがす発言だったのです。そしてここでは、ヨハネによって自分の持っていた確信を揺るがされて、動揺している民がヨハネに質問をしているのです。

(2)神の愛のメッセージ

 自分の持っている確かだと思っていた確信を揺るがされるとき、私たちの心は動揺します。そしてたちまち不安に捕らわれて、「どうしたらよいのか」と悩み始めるのです。しかし、ヨハネは人を不安にさせるためだけにこのようなメッセージを語ったのではありません。むしろ、私たちが確かなものと考えているものがいかに頼りにならないものなのかを明らかにして、その上で私たちを確かな確信へと導くことがこのバプテスマのヨハネの語ったメッセージの目的なのです。
 ヨハネは直接には当時のユダヤの人々にこのメッセージを語りました。しかし、私たちもまた、この人生の中でヨハネと同じ声を聞くことがあるのではないでしょうか。今まで確かなものと考えていたものが、揺らいでしまう出来事を私たちは体験することがあります。人生で大きな挫折を経験したり、病気になって健康を失ってしまうことがあります。そんなときに私たちは今まで持っていた確かなものが、そうではなかったということに初めて気づかされます。そして、動揺し、不安に捕らわれるのです。しかし、このヨハネのメッセージに従えば、私たちはこの体験を通してこそ、確かな確信へと導かれることができるのです。ですからヨハネの厳しいメッセージは、私たちが本当の確信に出会ってほしいと願う神様からの愛のメッセージであると言えるのです。

2.ヨハネの答え
(1)拍子抜けするような答え

 ここでは自分の確信を失い、動揺した人々はヨハネにその解決方法を尋ねています。「わたしたちはどうすればよいのですか」(10節)と…。するとヨハネは彼らにこう答えます。「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(11節)。自分が持っているものを自分一人だけで用いるのではなく、それを必要としている貧しい人々のために使いなさいとヨハネは語っています。ヨハネはここで特別のことを語るのではなく、聖書がいつも教えている隣人愛の勧めを語っています。
 また続けて徴税人もやって来てヨハネに質問しています。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」(12節)。この徴税人はユダヤ人でありながら、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の下級役人として働いていました。彼らはローマ帝国から徴税の仕事を請け負っていましたが、それだけではなく、民衆から規定以上の税を集めて、その差額を着服することで自分のための財産を築いていたのです。そのためこの徴税人はユダヤの人々から恨みを買っていました。ヨハネは彼らに「規定以上のものは取り立てるな」(13節)と勧めます。つまり、「不正な蓄財をやめて、人々を苦しめることをやめなさい」と言っているのです。
 さらに兵士たちがヨハネに尋ねています。「このわたしたちはどうすればよいのですか」(14節)。彼らも徴税人と同じようにローマの権力のもとで働いていました。そして、その権力を利用して、人々から金品を奪い取っていたのです。つまり、彼らは自分の地位を利用して賄賂を集めて私服を肥やしていたのです。ヨハネは彼らにもそれらの行為をやめるようにと命じた上で「自分の給料で満足せよ」(14節)と勧めています。
 自分の信仰的確心を失って不安に捕らえられている人々がヨハネから聞いた解決策は、誰もが子供のときから聞いている当たり前の答えでした。つまり、彼らが聞いて拍子抜けしてしまうような言葉だったのです。
 昔、インドで貧しい人のために働いていたマザー・テレサが日本にやってきてたくさんの人々を前に講演をしたことがあります。たくさんの人が世界的に有名人であるマザー・テレサが何を語るかに興味を持ってその会場に集まりました。しかし、彼女の語る言葉に目新しいものはなく、すべていつもマザー・テレサが語っている言葉の繰り返しであったと言います。自分にできることをしなさい。そしてそれであなたの目の前で困っている人を助けなさい。あなたたちはわざわざ飛行機に乗ってインドの私の所まで来る必要はない、この日本にも愛に飢え乾いている人々がたくさんいる、その人々のために働きなさいとマザー・テレサは語ったと言うのです。

(2)私たちの真の姿を浮き彫りにする言葉

 しかし、このヨハネの単純なメッセージの中にこそ、私たちに突きつけられた強力なメッセージが隠されていることを私たちは見逃してはならないのです。なぜなら、私たちは一枚の下着を持っているだけでは決して満足しない者だからです。自分では食べきれない食物を持っていても、それで満足することがない私たちだからです。私たちはたくさんのものを手に入れてもそれで満足することができません。「もっと、もっと必要だ」と思ってしますのです。そして、そのわずかでも人に与えることには躊躇してしまうのです。ですからヨハネのメッセージを実行に移すなら、それがいかに自分には困難であることに私たちは気づかされるのです。そして、そこに本当の私たちの実像が浮き出されるのです。
 それはなぜそうなのでしょうか。実はここにも「アブラハムの子孫」のときの場合と同じように、私たちが普段何を頼りにしているか明らかにされているのです。なぜなら私たちはそれを自分の人生の頼りにしているから容易に手放すことができないのです。私たちの人生の拠り所としようとしているから、それを失うことを恐れるのです。つまり、ヨハネのここでの答えは重ねて私たちに、「あなたたちの持っている偽りの確信を捨てて、本当の確信に目を向けるべきだ」と教えていることなるのです。

3.聖霊と火の洗礼
(1)単純だから躊躇う

 ところで、私たちはこのヨハネの言葉の単純さについてもう少し、ここで考えてみたいのです。なぜなら、神の救いのみ業は人間の目からは愚かに見える言葉を通して実現するからです。昔、イスラエルの隣国アラムにナアマンと言う一人の有能な将軍がいました(列王記下5章)。彼は地位や名誉、財産に恵まれた人物でしたが、ただ一つ当時の医学では治すことができないとされた「らい病」にかかって苦しんでいたのです。さまざまな治療を試みましたが彼の病は一向によくならず、ますます悪くなる一方でした。そこで彼は隣国イスラエルで活動する預言者エリシャの評判を耳にし、このエリシャの力によって自分の病を癒してもらおうと決心したのです。ところが遠い隣国からわざわざこの預言者のもとに尋ねたナアマンに対して、エリシャは直接彼に会おうとはしませんでした。代わりに自分の手下を通して「ヨルダン川に七度、その身を沈めなさい」と言う伝言をナアマンに伝えたのです。今まで誰も治すことのできなかった「らい病」が川で洗うだけで治るなどナアマンには考えられませんでした。彼は「自分の生まれ故郷の川のほうがよっぽどきれいだ」と言って、腹を立てて国に帰ろうと考えます。ところが知恵ある一人の部下の進言により、彼は心を変えて、エリシャの言葉の通りにヨルダン川に身を沈めたのです。すると彼の体は生まれたばかりの赤子のように清くなったと聖書は伝えています。この物語は、自分の抱えている深刻な問題に対して、預言者を通して語られたメッセージがあまりにも単純であったために、それを信じることが困難であった人間の姿を浮き彫りにしています。しかし、人間を救うのは人間の考え出した複雑な方法ではなく、神の力にあるのです。さらにその神の力は私たちには単純に聞こえるようなみ言葉を通して私たちの上に実現するのです。

(2)救い主イエスにはできる

 ヨハネは語ります。真の救い主は「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(16節)。農夫は風を送って籾殻とその実をより分け、吹き飛ばされた籾殻は火で焼き払われます。この言葉の意味は救い主は私たちを救う力を持ってこの地上に来られ、その力を実際に発揮されると言う意味を持っています。そしてバプテスマのヨハネにはその力はありません。彼はその救い主を人々に指し示す役目を果たすために働いた人物だからです。
 このヨハネが示した救い主イエス・キリストは私たちを救う力を持ってこの地上に来てくださった方なのです。そして、そのイエス・キリストは私たちの上に今もみ言葉を通して救いを実現してくださるのです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(コリントの信徒への手紙一1章18節)とかつて使徒パウロは語りました。聖書の言葉はこの世の人々には愚かに聞こえるような単純なものなのです。しかし、私たちはこの単純なみ言葉に従って、信仰生活を送り続けています。イエスを信じて、毎日曜日教会の礼拝に参加し、また毎日、聖書を読んで祈りを捧げています。そんなことで何が変わるのかと人は私たちに語るかもしれません。しかし、神様はみ言葉に従う人々に救いを確かに実現してくださるのです。なぜなら、私たちが信じる救い主イエス・キリストは確かにこの力を持っておられる方だからです。

【祈祷】
天におられる神様
 揺るぐことのない真の救いの確信をイエス・キリストを通して私たちに与えてくださることを感謝します。どうか私たちが私たちに与えられたみ言葉に従い、そのイエス・キリストの力に与って生きることができるようにしてください。クリスマスが私たちの救いをさらに確信させるときとなるように、私たちの信仰を励ましてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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