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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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わたしの心に適う者

(2010.01.10)

聖書箇所:ルカによる福音書3章15〜20節

15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
19 ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、
20 ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。
21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

1.救い主への期待
(1)ヨハネへの期待

 イエスが救い主として公の活動を始められたのは30歳頃のことだったと言われています。それまでイエスはガリラヤのナザレの村で他の村人と同じ暮らしを送っていました。おそらく、父ヨセフが早く世を去ってしまったために、イエスは母マリアを助けて、一家を支える大切な役目を果たしていたはずです。そんなイエスの生き方が一変するのは今日取り上げている洗礼者ヨハネの元で彼が洗礼を受けたと言う出来事から始まります。洗礼者ヨハネの活動について私たちはアドベントの季節に何度がこの礼拝で取り上げたことがありました。洗礼者ヨハネは救い主イエス・キリストの登場を準備し、自らもその救い主の到来を待ち望みながら生きた人物だと言えます。しかし、彼の生涯の終わりは悲惨なものでした。そのことについては今日の朗読箇所では次のように記されています。

 「ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた」(19〜20節)。

 ヨハネは当時のガリラヤの領主であったヘロデが律法に違反した結婚をしたことから、ヘロデを激しく非難しました。そしてそのヘロデは自分にとって都合の悪いこのヨハネの存在をなくすために彼を牢に捕らえてしまったのです。その後、ヨハネはこのヘロデの命令によって処刑されてしまいます。
 現在でも権力者を批判するとすぐに刑務所に入れられたり、処刑されてしまうような国が世界には存在しています。権力者を批判すると言うことはそれだけ危険な行為だと言えるのです。しかし、その危険も顧みずに、権力者の不正を責めたヨハネはまさに旧約最後の預言者にふさわしい人物であったと言うことができます。彼は妥協を許すことなく、神の言葉が地上に実現することを望んだのです。だからこそ、民衆はこのヨハネはただ者ではない、彼こそ約束されたメシアに違いないと考えたのでしょう。このようにメシアを待望する民衆の期待はこの洗礼者ヨハネに向けられていったのです。

(2)始まりのための終わり

 年末のテレビを見ていて、一年の終わりと言う時期だからでしょうか、世界の終末に関する予言を取り上げた番組が放映されていました。私が高校生の頃、「ノストラダムスの大予言」と言う本が流行っていたことを思い出します。あれから月日は流れましたが、人類の破滅についての終末予言に対する人々の関心はなくなることがありません。ところが、世の終わりについての関心は人々の中に絶えることがありませんが、それに反して救い主への期待と言うものを持つ人はあまりいないように思えます。これはまさに聖書の歴史観と一般の人々が考える歴史観の中に大きな違いがあるからではないでしょうか。聖書ははっきりとこの世界の支配者である神様を語っています。そしてこの世界はこの神様が造られた物であり、そこには必ず始まりと言うものがあるのです。そして、聖書がこの世界の終わりを語るときは、それはむしろ神様による新しい世界の再創造、つまり新しいはじまりと言うことができると教えているのです。ですから終わりは新しい始まりのために起こるものなのです。そしてその始まりを切り開くためにやって来られる方こそ、聖書の語るメシア、救い主であると言うことができるのです。ですから、聖書を読む私たちは人類滅亡の予言ではなく、人類の再創造についての希望を信じ、人々にそれを語り伝えることができる者たちだと言えるのです。神様は私たちのために、どんなことを始められるのでしょうか。それは私たちが救い主イエス・キリストの語る福音に耳を傾けるときに明らかになってくるのです。

2.ヨハネとイエスとの関係
(1)どちらが上か

 さて、ヨハネは自分に向けての民衆の期待に対して、「自分はメシアではない」とはっり語りました。ところが、民衆の方はヨハネのこの言葉を簡単に理解したわけではないようです。しかしヨハネへの期待は、この後も民衆の心に色濃く残り、彼の死後も依然として何人かの信奉者たちが存在していたのです。ですから、福音記者たちはこのヨハネの言葉を福音書に書き記すことで、ヨハネはメシアではなく、本当のメシアはヨハネが指し示したイエスであると言うことを示そうとしたのです。つまり、福音書はヨハネの活動を示すことでこのヨハネとイエスとの関係を読者たちに明らかにしようとしたのです。
 実はイエスとヨハネとの関係を示すにあたり、人々が抱いていたであろう疑問が二つあると言われています。一つはどうしてイエスはヨハネから洗礼を受けられたのかと言う疑問です。なぜなら、通常、洗礼は教師がその弟子に授けるもの、つまり洗礼を執り行う人の方が受ける人よりも目上で、優れた人物であると考えられていたのです。そうなると、やはりヨハネの洗礼を受けたイエスは彼の弟子の一人であると考えることが可能なのです。この問題を解決するために福音記者マタイは次のようなヨハネとイエスとの会話を記録しています。

 「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした」(3章14〜15節)。

 つまりヨハネはここで、自分こそイエスから洗礼を受けるべき者であり、自分の方こそがイエスの弟子であると言っていいと語っているのです。

(2)どうして洗礼を受けられたのか

 イエスの洗礼に対するさらにもう一つの疑問は、ヨハネの施した洗礼は「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」(3節)と呼ばれています。つまり、ヨハネの洗礼を受ける人々は自分の犯した罪の重大さを悟り、その赦しを神様に心から求め、悔い改めの心を表すことが求められたのです。そして、もしイエスがそのヨハネの洗礼を受けたとしたら、そのイエスは自分の罪を赦していただかなければならない、ただの罪人の一人であると言うことができるのです。そうなるイエスこそが罪を赦す権威を持っている考える私たちの信仰と矛盾してしまうと言うのです。
 この疑問に対する答えは私たちの信仰の中心的なテーマと言っていいものです。なぜなら、私たちの罪を赦すためにやってこられた救い主イエスは、私たちに変わって私たちの罪を担うことでその赦しを私たちの上に実現してくださったからです。つまり、イエスはここで自分のためにヨハネから洗礼を受けられたのではなく、彼の救いにあずかるすべての人々に代わって洗礼を受けられたと考えることができるのです。そしてこのテーマは一貫してイエスの生涯を貫いています。どうして罪のない救い主イエスが苦しみ、死ななければならなかったのでしょうか。それは私たちのためだったのです。私たちが本来受けるべきことをイエスは代わって受けてくださったのです。イエスが語る「正しいこと」とはまさに私たち人間が担うべきすべての罪を、彼が担ってくださることを言っているのです。

(3)厳しい裁きは確かに実現した

 ヨハネはこのイエスについて次のように預言しています。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(16節)。ここで言っている「火」は次の17節で「殻を消えることのない火で焼き払われる」と語られているように神様の厳しい裁きを象徴するものです。このようにヨハネが示すメシアはこの世に神様の厳しい裁きを実現させる方であると言う意味が強調されています。これは私たちが抱くイエス・キリストのイメージにはほど遠いもののように思えます。しかし、実はこのヨハネの言葉はイエス・キリストの真実の姿を私たちに示していると言ってよいのです。確かにイエスは神様の厳しい裁きを携えてこの地上に来られた方なのです。しかし、イエスはその厳しい裁きを私たちの上に実現させたのではなく、ご自分の上に、あの十字架の上に実現させたのです。そして私たちが本来受けるべきであった、すべての裁きを代わって受けられたのです。イエスはご自身でその厳しい裁きを担うことにより私たちの上に罪の赦しの恵みを与えてくださったのです。このように聖書の語る赦しはこの厳しい神様の裁きの上に実現するものなのです。だからこそ、イエスは私たちのために洗礼を受け、地上の生涯を歩み、十字架の死を経験されたのです。

3.天からの声
(1)裁きが終わったことを示す「鳩」

 さて、イエスとヨハネとの関係がどうなっているのかと言うところに関心を向ける人々に対して、福音記者ヨハネはこの箇所でその読者たちにむしろ、このイエスと父なる神との関係に関心を向けるようにと促しています。

「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた」(21〜22節)。

 ギリシャ語聖書を解説する人々はこの部分の前半のイエスが洗礼を受けたと言う説明は、後半の天が開けて聖霊が下り、父なる神の声が聞こえたという出来事を説明するためにつけられた文章、「従属節」であることを強調しています。つまり、ルカはこの箇所でイエスが洗礼を受けられたことを説明したかったのではなく、イエスが洗礼を受けたときにそこで何が起こったかを読者たちに明らかにしようとしたのです。
「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」。
 ここでは聖霊が「鳩」という動物のイメージを通して人々の目に示されています。実はこの鳩と言う動物は旧約聖書を読む人々に忘れられないある物語を示しています。それは旧約聖書の創世記に登場するノアに関する物語です。ここで神様は洪水をもって地上に厳しい裁きを実現させました。その際、この裁きから免れたノアが長い洪水の期間が終わったことを確かめるために使った動物がこの「鳩」であったのです(創世記8章11節)。つまり、このノアの物語では「鳩」は神の裁きが終わり、新しい世界がそこで始まったことを象徴する動物として登場しているのです。そしてこの鳩のイメージを持った聖霊がイエスの上に下ったと言うことは、このイエスの洗礼によって、新しい世界が始まったこと、神の再創造の御業がここから始まったことを表していると言ってよいのです。

(2)わたしの愛する子

そして天から聞こえて来た父なる神の声は次のように語ります。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(22節)。

 ここではイエスと父なる神との関係が父なる神ご自身の口からはっきりと語られています。イエスは父なる神にとって「愛する子」と語らえています。そして「心に適う者」と言う言葉は別の翻訳では「私の喜び」とも訳されている言葉です。私たちもまた自分の子供を愛し、自分の子供の成長が一番の喜びと感じることがあります。父なる神にとってイエスはそのような存在であり、またその地上での御業はすべて父なる神を喜ばせるものであったのです。
 ところで私たち人間でも親は我が子を愛すると言うことを今、触れました。実は旧約聖書にはこの親密な親子関係の中で起こったあまりにも有名な出来事が記されています。それは創世記に記されたアブラハムとその息子イサクに起こった出来事です(22章)。ここで神様はアブラハムの愛する独り子イサクを「焼き尽くす献げ物として自分に献げないさい」と命じています。そしてこの物語は短い文章の中でアブラハムの心に起こった葛藤まで読者に伝えています。聖書によればこの出来事はアブラハムの神様への従順を試すために行われたテストだったと言われています。しかし、この物語はアブラハムの信仰を示すだけではなく、新約聖書においてイエス・キリストの十字架の救いを知らされている私たちにとっては、むしろ神様の厳しい決意を示す物語として読むことができるのです。なぜなら、父なる神にとってイエスは「愛する子」であって、自分の命に等しいほどに大切な存在だからです。その大切な存在であるイエスを父なる神は私たちのためにこの地上に遣わされたのです。それはまさに、私たちを神様がどのように思ってくださっているかを明確に表す印なのです。神様はご自身の命と等しいほどに私たち一人一人を愛してくださるのです。つまり、私たちはこの天の声を救い主イエス・キリストを通して語られる私たちに向けられた神様の声として聞くことができるのです。
 神様は私たちのために世界を新たに造り変えようとされています。それは私たちを滅ぼして、全世界をすべて終わせてしまうと言うことだけ意味するのではありません。神様は新しい世界を新たに始めようとされているのです。そして神様は救い主イエス・キリストを通してはっきりと教えてくださっているのです。ですからこのことを知らされた私たちは世の終わりの出来事に関心を寄せる現代の人々に、世の終わりだけではなく、救い主イエス・キリストによる新しい世界が造られる希望を告げ知らせることができるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 イエス・キリストによって示されたあなたの愛と救いのメッセージを知らなければ、私たちはこの世界で何の希望も見いだすことができません。この世界と人類は自らの手によって滅びへの道を歩んでいるようにしか見えません。しかし、あなたは私たちの世界を新しくされよとしていることに感謝いたします。そのあなたの御業を覚え、イエス・キリストにある確かな救いの希望を語り継ぐものとして私たちを用いてください。特に私たちの交わりの中で、また教会の中で神の福音が豊かに語られますように導いてください。そして真の希望を求めてやってくる者が、そこであなたの福音に触れることができるようにしてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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