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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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栄光を現された

(2010.01.17)

聖書箇所:ヨハネによる福音書2章1〜11節

1三日目に、 ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
3ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
4イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
5しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
6そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
7イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
8イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
9世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
10言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

1.結婚式に出席するイエス
(1)イエスの6日間

 今日はヨハネの福音書の記した物語から学びます。今日の物語を含めてですが、このヨハネによる福音書は1章から2章の部分で興味深い書き方をしています。今日の物語の最初のところでヨハネは「三日目に」と言う言葉を記しています。そしてその前に実は「その翌日」(29、35、43節)と言う言葉が三度記されて、日にちを数えながら物語が展開されていくのです。この福音書で実際にイエスがその姿を現すのは29節以降です。そこで今日の物語はそのイエスの登場の日から数えて6日目と言う勘定ができるのです。このような記述の仕方はこの今日のカナでの婚礼の物語が終わるとなくなってしまっています。つまりヨハネはこの福音書の最初の6日間の出来事に特別な意味があるように記しているのです。そこで聖書の解説者たちはこの6日間が神によってなされたかつての天地創造の6日間と呼応していると説明するのです。つまり、ヨハネはこの「6日間」を数えることで救い主イエスによる再創造の御業がここから始まったと言うことを教えていると言うのです。先日も触れましたように、神様はこの宇宙や世界を滅ぼすためではなく、むしろ完成させるために導いてくださっています。その神様の御心がこのイエスの物語を通しても理解できるとヨハネは私たちに教えているのかもしれません。

(2)すべての領域で神様の栄光を

 「ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた」(1〜2節)。結婚式というのは現在でも、田舎などでは親戚や近所付き合いの関係から盛大に行われるところがあります。この当時の結婚式は一日では終わらず、時には何日も続けられたと言います。その期間であれば出席者は自分の都合のよい時間に会場に入って、ご馳走にあずかることができたと言うのです。そうなると当然、準備していたものが途中で足りなくなってしまうと言うことが起きたに違いありません。今日の物語はそのような当時としてはごくありきたりの風景の中で起こっています。この「カナ」と言う村は聖書地図で見てみるとイエスが住んでいたナザレの村から北に20キロほどのところにあった村であることがわかります。この結婚式にイエスとその母マリアが出席していたのですから、この結婚式を行っている家族と彼らとは何らかの関係にあったことがわかります。 
 とても興味深いことは今日の物語は結婚式でぶどう酒が足りなくなってしまったと言うある意味では日常的で些細な事柄が中心になって進んでいるところです。もちろん、この物語には隠された霊的な意味があるとキリスト教会は今まで考え、それを信じて来ました。しかし、イエスが結婚式の酔っぱらいの中にいて、そのぶどう酒がなくなってしまったと言う出来事を助けるためにお手伝いすると言う物語がここには記されているのです。
 多くの人はキリスト教と聞くと禁酒禁煙と言うイメージを抱くと言います。実は日本に最初にキリスト教を伝えたアメリカ人宣教師たちは禁酒禁煙と言うテーマと結びつけて伝道したからです。キリスト教と禁酒禁煙が結びつくのは、喫煙や飲酒による弊害が特に強調されて取り上げられたアメリカが発祥の地であったようです。ですからそれ以前のヨーロッパのキリスト教会では禁酒、禁煙は結びついていなかったのです。興味深いことにヨーロッパでのぶどう酒の醸造技術はキリスト教の修道院の中で研究され、そこから一般に広められて行ったと言うことを聞いたことあります。
 私たちは信仰生活を「聖なるもの」として、私たちの日常の「俗なる」生活と切り離して考えてしまうことがあります。しかし、実際の信仰生活は私たちの生活の全領域と関係して行われるものであると言えるのです。このことを使徒パウロはコリントの教会の人々に宛てた手紙の中で「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(第一コリ10章31節)と教えています。このパウロの言葉によれば私たちが神様の栄光を表せない領域は私たちの人生の中にないと言えるのです。もちろん、私たちはすべてのものを無批判に受け入れるべきだと言うのではありません。むしろ私たちは神様との関係で日常生活をどう生きるべきかを考えながら行動するとき、私たちの生活に起こる様々な出来事が意味のあるものとなってくるのです。私たちの救い主イエスは私たちの日常生活をこのように意味あるものとしてくださるために私たちのために救いの御業を実現し、そしてこの地上にその再創造の御業を現してくださったのです。

2.マリアの執り成しと、イエスの行動
(1)マリアの執り成し

 結婚式の途中でぶどう酒がなくなってしまうと言うハプニングが起こりました。そしてこのことを知ったマリアはイエスに「ぶどう酒がなくなりました」(3節)と告げたと言うのです。マリアはイエスに「何かをしてくれ」と命じているのではなく、その窮状をそのまま伝えているのです。
 水曜日の夜の祈祷会でイエス・キリストだけが私たちの祈りの唯一の執り成し手であると言うことを学んでいます。本来、私たちは神様に祈りを聞いていただけるような者でもなく、その資格も持っていません。しかし、そのような私たちの祈りが神様に届けられ、その祈りが答えられるのは、このイエス・キリストが私たちの祈りを執り成してくださっているからなのです。そして、このイエスの執り成しの業によって私たちの献げる祈りは、御子イエスが父なる神に祈り求めているものと同じように取り扱われるのです。キリスト教綱要の著者カルヴァンはそのことを解説しながら、私たちクリスチャン同士の執り成しの祈りの大切さと重要性も教えています。なぜなら、私たちは今、この唯一の執り成し手であるイエス・キリストの体の一部としてこの教会に集められているからです。私たちには今、イエス・キリストの仕えるイエスの体の一部として、執り成しの祈りを捧げることが許され、また義務づけられているのです。ここでの母マリアの役目は私たちのその役目をよく表しています。ですから、私たちもまた、私たちの周りに起こる窮状を素直にイエス・キリストに告げるべきなのです。

(2)イエスの行動原理

 しかし、そのときに大切なことは私たちの献げる祈りの主導権はいつもイエス・キリストにあることを忘れてはならないと言うことです。祈りの主導権がイエスにある以上、その祈りをそのままで聞き入れるのか、それとももっと相応しい形に変えてくださるかはすべてこのイエス・キリストの主導権の元にあるからです。ここでイエスはマリアの訴えに対して「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(4節)と語っています。通常の親子の会話では考えられない他人行儀な言葉がここには登場しています。しかし、この言葉はイエスのマリアに対する冷たい態度を表しているのではありません。むしろ、私たちの祈りの唯一の執り成し手であるイエスの主導権をここでは明確に示し、そしてそのイエスは何を基準にして行動しているのかを明らかにしているのです。
 「わたしの時はまだ来ていません」と言う言葉はこの聖書ではイエスの十字架のときを表していると考えられています。イエスの行動は父なる神様が立てられた救いの計画に従ってなされていることがこの言葉からわかるのです。そして、イエスは私たちの祈りをその救いの計画の中で用い、意味あるものとしてくださるとこの言葉は教えているのです。ですからこのことを知るマリアのイエスへの信頼が次の言葉で表現されているのです。「母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った」(5節)。他の人がこの会話を聞いていたら「お母さんに対して何と無礼な」と怒り出したかもしれません。しかし、マリアはイエスに対する絶対的な信頼を持って、イエスが最もふさわしい答えを与えてくださることを自分の言葉を持って表明しているのです。

3.救いを完成するイエス
(1)イエスの言葉に従って仕える「執事」

 「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである」(6節)。ユダヤ人は律法に従って、身体を清めることがいろいろな場面で求められました。そのために「二ないし三メトレテス」と言う容量はだいたい100リットルくらいと考えられますから、かなり大きな水がめがそこにあったと言うことになります。

 「イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った」(7〜8節)。

 この聖書にはいつ水がめの水がぶどう酒に変わってしまったのか、はっきりとしたことが書かれている訳ではありません。ですから、むしろこのときのイエスの「水がめに水をいっぱいに満たした上で、それを宴会の席に運べ」と言う命令は、それを聞いた人々に馬鹿げた命令と受け取られる可能性があったはずです。この言葉を聞いた召使いは「そんなふざけたことをどうしてしなければならないのか」と怒り出してもいいくらいです。しかし、召使いたちはマリアに命じられた通り、またイエスの言葉の通りに行動しています。
 ここで「召し使い」と訳されている言葉は「ディアコノス」と言うギリシャ語で、「執事」と訳されてもいい言葉です。私たちの教会にも執事と言う役職がありますが、この役職はキリストの言葉に従って行動し、人々に使えることを意味することが今日の物語からもわかります。もちろん、この執事の働きは教会の役員である「執事」に限定されているものではありません。むしろ私たちすべてに教会員に求められているものなのです。つまり教会の役員である「執事」は、教会員すべてがこの勤めを忠実に成し遂げることができるようにお手伝いすると言っていいでしょう。

(2)キリストによって完成された救い

 さて召使いたちがイエスの言葉通りに行動することによって、そこで驚くべきことが起こりました。水がぶどう酒に変わってしまったのです。それも宴会の世話役が驚くほどに見事なぶどう酒に変わったと言うのです。教会はこの物語を霊的な意味として理解してきたことを先に述べました。その理解の仕方と言うのはこうです。ぶどう酒は「神様の救い」を表しています。皆さんもよく知っている詩編の23編には次のような言葉が登場します。「わたしの杯をあふれさせてくださる」(5節)。このことばは神様の救いに豊かにあずかることができた著者の喜びを伝える言葉です。ぶどう酒は私たちを喜びで満たす神様の救いを意味するのです。また、そこに置かれていた「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」は文字通りユダヤ人たちが守っていた律法を中心とした古い神様との契約です。この契約を守るだけでは人は救いを受けることができません。しかし、イエスはその古い契約を見事なぶどう酒に変えてくださったのです。つまりユダヤ人に約束されていた古い契約がこのイエスによって完成されたのです。
 先日、この礼拝で読んでいるジュネーブ教会信仰問答の中でこの信仰問答の著者カルヴァンがこのようなことを語っていたことを皆さんは思い出すと思います。カルヴァンは「安息日を覚えてこれを聖とせよ」と言う戒めについて、「この戒めは他の戒めと違った特別な原理を持っています。休息を守ることは旧約の儀式の一部をなしているからです。したがって、キリストの来臨によってそれは廃止されました」(問168)と教えています。カルヴァンはここで安息日と言う掟は旧約聖書の定める様々な儀式と結びついていると理解しています。そしてその旧約聖書に定められた様々な儀式は私たちにイエス・キリストの救いを教えるために与えられたガイドブックのような役目を持っているのです。だから、実際にキリストが来られたからにらにはもはやそのガイドの役目は必要がなくなってしまったと言うことができるのです。
 このぶどう酒の奇跡も旧約聖書が示し続けた救いが、イエス・キリストの到来を持って実現したことを表していると教えているのです。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(11節)。ヨハネはこのイエスの御業によって神様の救いの出来事が実現し、その栄光が表されたとここで語っています。そしてその栄光はあの神様の6日間に渡る創造の御業と同じような意味を持っていることを私たちに教えているのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 あなたはイエス・キリストによる救いを通して、ご自身の栄光を豊かに表してくださいました。そして私たち一人一人も、イエス・キリストによる救いの出来事を通して、あなたの栄光を表すものへと変えてくださいました。どうか私たちもマリアのようにあなたに信頼して願いを献げ、カナの婚礼の席で仕えた召し使いたちのように、あなたの言葉に忠実に従うことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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