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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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すべてを捨てて従った

(2010.02.07)

聖書箇所:ルカによる福音書5章1〜11節

1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

1.シモン・ペトロの人生の転換点

 テレビのニュースを見ているとよくカトリックの総本山とされているサンピエトロ大聖堂の様子が映し出されることがあります。「サンピエトロ」とはイタリア語で聖ペトロと言う意味を持った言葉ですから、この建物の名前はペトロの名前から取られていることがわかります。伝説によれはこの教会はペトロの墓の上に立てられていると言われています。このイエスの一番弟子とも言えるペトロはローマの都において殉教の死を遂げ、伝道者としての生涯を閉じたと伝えられているからです。このように大聖堂の名前にまでなる有名な伝道者ペトロも、最初はガリラヤ湖と言う湖で漁をしていた平凡な一人の漁師でした。そしてこの平凡なペトロの生涯が、全く変わってしまった彼の人生の転換点、それが今日の聖書に取り上げられている出来事であったと言えるのです。
 平凡な一人の漁師として湖で魚を捕って生計を立てていたペトロの人生を大きく変えた出来事、それは彼と主イエスとの出会いであり、彼に向けられたイエスの招きの言葉であったことがここでは明らかにされています。実はこの事情についてはマルコ、マタイと言った福音書でも同様に触れられています。しかし、この二つの福音書はペトロたちが弟子になった事情をイエスの招きの言葉に応えたことによって起こったと簡単に説明しているのに対して、今日取り上げられているルカの福音書はもう少し詳細にその事情を伝えています。ペトロたちがどうしてイエスの招きに応えて弟子となる決断をしたのか、そこにはいったいどんな理由があったのかをこのルカによる福音書は私たちに教えているのです。

2.群衆に取り囲まれるイエス
(1)神の言葉を求めて集まる群衆

「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た」(1節)。

 ここに登場する「ゲネサレト」とはガリラヤ湖の西岸地方につけられたギリシャ語の名前ですが、当時ガリラヤ湖全体を呼ぶときにも用いられたようです。ルカはすでにこの福音書でイエスが行われた数々の奇跡を紹介し、特に病気の人々をたくさん癒されたと報告しています(4章)。ですからイエスについての評判はすぐに一帯に広まり、関心を持った人々が彼の元に押しかけたのです(4章42節)。今日の物語はそんな状況の中で起こっています。

 興味深いのはイエスの元に訪れた群衆がイエスから何を望んだかについてルカはこのように説明しています。「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た」(1節)。「病気を治していただこう」とか、「イエスはどんな奇跡が見せてくれるのか」と言った関心から群衆がイエスの元に集まったのではなく、皆神の言葉を聞こうと集まったと言うのです。「神の言葉」とは「神からの言葉」、「神から出る言葉」と訳せるものです。実は今日の物語のポイントになるのはこの神の言葉です。私たちは日常生活の中で様々な言葉の洪水とも言える環境で生きています。しかし、福音書がここで私たちに語ろうとするのは神から出た言葉とその力です。私たちがこの教会の礼拝に集まり耳を傾ける神の言葉にとはいったいどのようなものなのか。この福音書の物語はそれを私たちに明らかにしようとしているのです。

(2)舟の上から語りかけたイエス

 このとき神の言葉をイエスから聞くために湖の周りにたくさんの群衆が詰めかけました。私の子供がまだ小学生だったころ、学校で防災訓練と称して子供の父兄が校庭に集められたことがありました。私がそこに言って驚いたのは、そこに集まる人々が皆各々で知り合いと立ち話をしていて、その声があたりに地響きのように轟いていたことです。そのためにマイクを通して訓練の内容を説明しようとする先生の声がほとんど聞こえなかったことを思い出します。現代と違い、放送設備もない当時の状況です。イエスの声はなかなか群衆に届かなかったのかもしれません。そこでイエスは一つの行動を起こします。

 「イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。」(2〜3節)。

 後で「ゼベダイの子ヤコブとヨハネ」(10節)がそこに一緒にいたことが語られています。「二そうの舟」とはシモンのものと、ヤコブとヨハネの兄弟の舟を意味しているのかもしれません。この舟の一つ、シモンの持ち舟にイエスは乗り込まれ、シモンに「岸から少し漕ぎ出す」ようにと願われたと言うのです。そうすればイエスと群衆の間に空間が生まれ、群衆の視線はイエスに集まり、その発言に集中することができると言う仕掛けです。

3.シモン・ペトロの決断
(1)イエスの誘い

 ところでこのとき群衆は舟の上に座るイエスから神の言葉について聞くことができたわけですが、その言葉を聞いていたのはこの群衆だけではありませんでした。この舟をイエスの頼みに従って沖に少し漕ぎ出した漁師シモンも当然、彼の語る言葉に耳を傾けていたのです。実はこのシモンについて福音書記者ルカはすでに彼の一家に起こった物語を4章で記しています(38〜39節)。シモンがそのときに家に居たかどうかは聖書には触れられていませんが、彼の身近で起こったことをシモンが知らなかったはずはありません。彼はそのこともあってここでイエスの言葉に注意深く耳を傾けていたに違いありません。イエスが群衆に話を終えられたそのすぐ後のことです。今まで、舟の上でイエスの言葉に耳を傾けていたシモンにイエスは次のように語りかけたと言うのです。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(4節)。

 シモンはこのイエスの呼びかけに答えて次のように言っています。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5節)。

 聖書の研究書によれば当時のガリラヤ湖での漁は、昼は湖底深く潜んでいる魚たちが夜になって水深の浅いところに上に昇ってくるのを待って行われたと説明されています。つまり、ガリラヤ湖での漁は通常ですと夜に行われていたのです。シモンたちはこのときその夜の漁を終えて、岸辺で網を洗っていたところだったのです(2節)。その漁師の習慣を無視して、魚が湖底深く潜ってしまう昼日中にイエスはシモンに「網をおろせ」と語ったと言うのですから、これは無茶なことであると言えます。おまけに漁師のシモンに対して、この発言をしているイエスは大工ヨセフの息子、漁においてはずぶの素人であったと言えます。普通だったら、一笑にしてこの誘いをシモンは断ったはずです。しかし、不思議なことが起こりました。シモンはここで「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」とイエスの言葉通りにしたいと言い出したのです

(2)シモン・ペトロの変化

 日本語の聖書にはこのシモンの言葉の微妙なニュアンスが表現されていないのですが、原文に従えばシモンは最初に「わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と語っています。それに対して後半では「しかし、お言葉ですから、わたしは網を降ろしてみましょう」となって言っているのです。つまり、前半と後半では文章の主語が複数から単数に変わっています。つまり、この後半の言葉では「私は従います」と言うシモン一人の意志が明確に示されているのです。「その指示は漁師としては無茶な話で到底従うことができないのですが、自分はせっかくのイエス様の言葉ですから是非従ってみたい」と言うシモンの気持ちがこの言葉の中に隠されています。
 私たちはこの後に起こる大漁の奇跡のみに目を奪われがちですが、実はイエスの奇跡はここで既に起こっていたと考えることができるのです。シモンがどうしてもイエスの言葉に従って網を投げ入れてみようと決断したのでしょうか。彼の意志の力、あるいは冒険心と考える人もいるかもしれません。しかし、大切はなのはシモンが既にこのときイエスの語られる神に言葉に耳を傾けていたと言う事実です。なぜなら聖霊なる神は神の言葉が語られ、その言葉に耳を傾ける者の内に働いてくださる方だからです。そして聖霊なる神は私たちの心に神様を信じる信仰を与えてくださるのです。ですからシモンの心はこのとき既に変えられていたと考えることができるのです。そしてその上で、この出来事はさらに進んでいきます。なぜなら、神様はいつも信仰を持ってその言葉に従うと決心する人々に、その言葉が真実なものであることを証明していくださるからです。
 「そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった」(6〜7節)。
 この後、イエスの弟子となり伝道者となったシモン・ペトロにとってこのガリラヤ湖での大漁の奇跡は主イエスと自分との関係を知る上で重要な役割を持っていたことが分かります。なぜならばこの出来事と同じ奇跡がイエスの復活の後にもう一度起こっていることからです(ヨハネ21章1〜14節)。網は破れそうになるほどの大漁にシモンは仲間の助けを借りて事なきを得ますが、それでも舟が沈みそうになったと聖書は報告しています。この大漁の奇跡がシモン・ペトロをイエスの弟子とさせたのです。そしてまたイエスの十字架を前にイエスを裏切ってしまったという挫折感を引きずっていたペトロにもう一度、イエスの弟子として生きる決心をさせたのもガリラヤ湖で大漁の奇跡であったことを聖書は私たちに教えているので。

4.シモン・ペトロが知り得たもの
(1)神の前に立つ者が抱く恐れ

 さて、この奇跡を体験したシモン・ペトロはすぐに次のような反応を示しています。

「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである」(8〜9節)。

 この奇跡に驚いたシモンはイエスに向かって罪の告白をし、「自分から離れてほしい」と願い出ています。この反応はどういう意味を持っているのでしょうか。そのことについてこの礼拝の最初に読んだ旧約聖書のイザヤ書の言葉が私たちにその意味を教えています。イザヤ書6章では若きイザヤに神の言葉が下り、彼が預言者としての召命を受けたことが語られています。ここでイザヤは「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た」(1節)と語っています。そしてその故にイザヤは次のように告白することになります。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た」(5節)。聖なる神の前に立たされたイザヤは自分が神の裁きに耐えることのできない罪人であることを告白し、その裁きが下されることをここで恐れているのです。シモン・ペトロの反応もこれと同じものであったと考えることができます。彼は聖なる神の前に立っていると言う実感をこのとき持ったのです。だから彼は深い恐れに襲われたのです。つまり、ペトロはこの奇跡を通して神がここにおられることを悟ったと考えることができます。だからシモンのイエスについての呼びかけは5節では「先生」でしたが、ここでは「主よ」と呼び変えられています。この「主」と言うギリシャ語の言葉はギリシャ語訳の旧約聖書では神に対して用いられる言葉として使われているからです。

(2)確かなものに自分の人生をゆだねる

 そしてこの告白をしたシモンに対してイエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節)とご自分の弟子になるように招かれたのです。そしてシモンはこの言葉に応えて「彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」(11節)。ここでは「彼ら」と言われていますからそこに同席していたヤコブとヨハネの兄弟も一緒にこのときイエスの弟子になったことが示されています。彼らは「すべてを捨ててイエスに従った」と言われています。つまり、今までの自分の生活から離れて、イエスにすべてをゆだねる人生へと歩み出したと言うのです。それは人間としては無謀な出発であったと考えることができるかもしれません。少なくとも漁師のままでいれば、彼らはこれからも平穏な生涯を送ることができたかもしれないからです。彼らはこのときその確かな生活の手段を放棄してしまったのです。しかし、彼らは無謀な冒険主義者ではなかったことをこの物語は私たちに教えているのです。なぜなら、彼らは主イエスを通して、本当に確かなものが何であるかを教えられていたからこそ、このとき新しい出発をしたからです。その確かなものとは神の言葉、神から出る言葉です。この神の言葉は私たちの周りに洪水のように押し寄せる言葉とは違っています。その言葉には力があり、必ず神の御業がそこに伴うのです。
 先ほど触れた預言者イザヤの時代、イスラエルはアッシリアと言う大国の力に脅かされていました。そこで人々はアッシリアに組するか、それともエジプトの力を借りてアッシリアの力に対抗すべきかのぎりぎりの選択を迫られていました。そのとき預言者イザヤは「静まって神の言葉に信頼しなさい」と人々に呼びかけたのです。どんなに確かに見えてはいても、地上の事柄の中には本当に確かなものはありません。その私たちを主イエスは確かな神の力で導いてくださると招いてくださっているのです。私たちはこのことを確認して神のみ言葉に従う信仰生活を続けたと思います。

【祈祷】
天の父なる神様
 私たちにみ言葉を与え、また聖霊を送ってくださり信仰を与えてくださった幸いを感謝します。私たちがあなたのみ言葉に従い生きることで、そのみ言葉が真実でることをますます確信することができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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