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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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幸福と不幸

(2010.02.14)

聖書箇所:ルカによる福音書6章17、20〜26節

17[そのとき、イエスは十二人] と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から[来ていた。]

20さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
  「貧しい人々は、幸いである、
   神の国はあなたがたのものである。

21今飢えている人々は、幸いである、
  あなたがたは満たされる。
  今泣いている人々は、幸いである、
  あなたがたは笑うようになる。

22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
  あなたがたはもう慰めを受けている。

25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
  あなたがたは飢えるようになる。
  今笑っている人々は、不幸である、
  あなたがたは悲しみ泣くようになる。

26すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

1.マタイとルカの記述の違い

 今日はイエスの語られた「幸い」についての教えを学びます。私たちはたぶんこの「幸い」についての教えをマタイによる福音書の収録されている言葉で覚えているかもしれません。マタイは「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」(5章3節)と言う有名なイエスの言葉を書き残しました。この言葉に比べて今日取り上げているルカによる福音書の言葉はより簡単な表現になっています。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである」(20節)。読み比べて見てすぐわかるようにルカではマタイの記した「心の貧しい」と言うところの「心」と言う言葉が取り外されています。この「心」と言う言葉がついているかどうかでおそらくその内容は大きく異なってくることが想定できます。「心」がつけば、実際に富んでいて、豊かな人の中にも「心の貧しい人」がいることもありえます。また、貧しくても「心が貧しい」とは言えない人もいるかもしれません。そうなると、マタイでは現実の生活に現れる実際の貧しさを問題にしているのではなくて、「心」、つまりその人の内面の問題が取り上げられていると考えることができます。しかし、今日のルカの箇所では「心」と言う言葉がなくなっているために、ここでは実際生活において現れる困窮や、貧しい生活をしている人が対象になっていると考えることができるのです。
 ただ、実際に貧しいと言ってもそこには様々な理由が存在するはずです。社会的に差別されたり、虐げられているために貧しくなっている人がいます。また、病を得て仕事に就くことができず、むしろその治療の費用を捻出するために貧しくなっている人もいるはずです。そのような意味でこの「貧しさ」の背後には人間が持っている様々な問題が隠れているとも言っていいと思います。しかし、不思議なことにイエスはこのような人々に向かって「あなたたちは幸いです」と語るのです。
 ここでもこのルカの福音書がマタイの福音書と違う点はマタイでは「心の貧しい人々、そのような人は幸いですよ」とその相手を三人称で呼ぶのに対して、ここでは「あなたたち」と言う二人称の言葉が使われています。つまり、ここでイエスに「幸いである」と言われているのは、実際にこのときイエスの前に立って、彼の話を聞いている人々であったと考えることができるのです。

2.私たちが考える幸せ   
(1)問題の解決を求めて集まった人々

 それではここで実際にイエスから「あなたたちは幸いです」と言われている人はどういう人であったのでしょうか。この6章の17から19節にはそれらの人々についてこのような説明が語られています。「大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである」。
 この文章を読んでみるとイエスの前に集まっていた人々はイエスに悪霊を追い出していただいた人々、また病を癒していたただいた人々であったと考えることができますし、またこれから癒されるためにイエスの衣に触れようと集まってきていた人々もいたはずです。
 しかし、不思議なことにイエスの言葉は「あなたたちは悪霊が追い出されたから」、「病が癒された」から「幸いである」とは言っていません。むしろ、イエスは「貧しく」、「今飢えている」、「今泣いているあなたたちは幸いである」と言っているのです。彼らが何とかイエスによって解決していただきたいと考えていた問題はまだ解決されていないのです。しかしそのままで、すでに「あなたたちは幸いです」とイエスは語っていると言えるのです。おそらくここに集まっている人々は自分が今抱えている問題、「貧しさ」、「飢え」、そして様々な「悲しみをもたらす出来事」が解決されない限り自分は幸せになれないと考えてここに来ていたのではないでしょうか。ところがイエスはその問題を抱えている人々に「すでに今、あなたたちは幸いです」と語ったと言うのです。いったい、どうしてイエスは彼らを幸いだと言うことができたのでしょうか。

(2)病気が癒されるのが幸せ?

 何年か前のことです。ある知り合いの方が天に召されてその葬儀に参列したことがありました。この教会にも何度も足を運ばれた方でしたが、その方の娘さんは違う教派の教会のメンバーでしたので、その教会の牧師さんがその方の葬儀を司式されていました。その牧師さんの葬儀説教を聞いていて、私は不謹慎とも言えるのですが「どうも変な話だよな」と思ったことがありました。同じ牧師として葬儀説教を準備するのがいかに大変であるかを私もよく知っています。たとえば、突然に連絡があり、生前にはほとんど面識がなかった方の葬儀を執り行うことがよくあります。たぶんその牧師さんもそうだったのでしょう。その牧師の説教には天に召された方についての話はほんの少しで、しかし、その代わりにイエス様を信じて誰も癒すことができないと言われた難病で苦しんだ人が奇跡的に癒されたと言う話が中心になっているのです。もちろん、キリスト教の葬儀は亡くなられた方ではなく、そこに集まっている人々に神の福音を語ると言う目的をもっています。つまり、葬儀説教は伝道説教でもあると言えるのです。その牧師はそのような意味でイエス様を信じれば皆さんも、このようにすばらしい人生を送ることができると言いたかったのでしょう。でも、実際に病を得て、医療的にも様々な手立てをなし、たくさんの人々の祈りに支えられながらも、肉体の病を癒されることがなく天に召された人の葬儀で、信仰によって難病が癒されたと言う体験談が語られるのはどうも納得いなかいと私は思えてなりませんでした。それではまるで天に召された人は信仰が足りなかったのではと変な推測をしかねないようなことになると思えたからです。
 イエスは実際に多くの人々の病を癒されました。しかしここでイエスは「あなたたちは病気が癒されたから幸せですよ」、「それはすばらしいことですよ」と言っているのではないことに私たちは注目したいのです。つまり、私たちが考えている「このことが解決されなければ幸せになれない」と考えている幸せの条件とは全く違ったところに、私たちを幸せにするものがあると言うことをイエスはここで語られていると言えるのです。

3.幸いと不幸
(1)神の国はあなたがたのもの

 ここでルカの記すイエスの言葉にもう一度目を向けてみるとおもしろいことがわかります。イエスは最初に「幸いです」と言う言葉を語った(20〜23節)のに対して、後半部分では同じように「不幸である」と言う言葉を語っているのです。実は前半の部分では「幸いな人です」と訳すべくこの幸いは形容詞が使われていますが、後半の部分は感嘆詞で、つまり「ああ、なんて不幸せなのだろう」と言う驚きの言葉から始まっているのです。しかも、ここで幸せな人も不幸な人も「あなたたち」と言う二人称の言葉を使って語られていますから、幸せな人も不幸な人も実際にイエスの前に立ってこの話を聞いている人であることがわかります。つまり、ここで幸せな人と不幸な人と呼ばれている人は全く違う人として区別されているのではなく、同じ人が幸せにも不幸にもなり得ると言っていることがわかるのです。
 前半部の「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである」(20節)。に対して後半部分では「富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている」(24節)と語られています。これを読むと幸せとは「神の国」をその人が自分のものにしているかに鍵があると言うことがわかります。また、「あなたがたはもう慰めを受けている」と言う言葉から考えると、不幸と言われている人々は何か他のものですでに満たされてしまって、慰められているので神の国を必要とはしていない人たちであると考えることができるのです。
 続く部分では「今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる」(21節)と語られているのに対して、後半部分では「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる」(25節)と語られています。この部分、前の文章と関係づけて考えれば「神の国を自分のものとする」ことができた人たちと、その必要を感じていなかったばかりに、それを求めず、結局手に入れられなかった人々の末路がそれぞれ語られていることがわかります。つまり、イエスは「神の国」を自分のものにできるかどうかがその人を幸せにも不幸にもする鍵であると言っているのです。

(2)人間ではなく、神に信頼する者

 ところでイエスはこの言葉に続いて次のようにも語ります。「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである」(22〜23節)。そしてこの言葉に対して後半では「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである」(26節)と語るのです。
 この文章を読むときに問題となるのは「この人たちの先祖」と語られているところの「この人たち」はいったい誰のことを言っているかと言うことです。そのことについて直接に説明が記されていませんが、実際に「預言者たちを憎み、偽預言者たちを誉めた」人たちは誰かと言うことになります。それは旧約聖書を読むとわかるように、神様から離れてしまったイスラエルの民のことを言っているのです。今日の礼拝での最初の朗読箇所であったエレミヤ書では、それらの人々は「人間に信頼し、肉なるものを楽しみとし、その心が主を離れている人」(17章5節)と言っています。エレミヤは続けて「祝福されよ、主に信頼する人は、主がその人のよりどころとなられる」(7節)とも語ります。
 この言葉からも理解できるように、イエスが幸いと言った人は神様に信頼し、神様をよりどころとする人であり、不幸な人は人間を信頼する人、つまり神様を必要とは感じない人であると言うことができるのです。つまり、結局は人を「貧しさ」や「飢え」、「悲しみ」、あるいは「人々から憎まれる」と言う条件がその人を直接幸せにするのではなく、それらのことを通してどこにその解決を求めるかで私たちの幸せと不幸は決まってくると言えるのです。
 それでは最初に戻って、どうしてイエスはこの言葉を今、自分の前に立っている人々に語ったのかと言うことになります。確かに、そこには貧しい人がいましたし、飢えていて、悲しんでいる人もいました。しかし、もっとも大切なことは彼らがそのようなことを通して今、イエスの前に立たされるようになったと言うことなのです。イエスに解決を求めてやってきたと言うことです。そしてイエスの言葉に耳を傾けて、彼を信頼する人生を始める人を「あなたたちは幸せだ」と言うイエスは言っているのです。
 私たちは今、この聖書の物語に登場する人々と同じようにイエスの前に立たされています。なぜなら、この礼拝を通して、この物語の中に登場する人々と同じように神の言葉を聞いているからです。だからイエスはこの私たちにも「幸せだ」と言ってくださっているのです。そして私たちが礼拝の中で人間ではなく、神様を信頼する人生を選択するとき、今まで私たちの人生に起こったすべてのことはその祝福へ私たちを導くためにあったことがわかるのです。

 かつて誰もが「この人は本当に不幸な人だ」と断定せざるを得ない人、生まれたときから目が見えない人がいました。そして多くの人々は、彼は誰かの犯した罪のゆえに神様から呪われているから不幸にされているのだと考えたのです。しかし、イエスはこの人を見るなり次のように語ります。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネによる福音書9章3節)。

 人を不幸にさせるのは私たちが持っている様々な条件ではありません。むしろ、私たちの人生に与えられるどんな条件も祝福の基と変えてくださる方がイエス・キリストであることを聖書は私たちに教えているのです。だからこのイエス・キリストに信頼を置くもものは「幸せな人」だと言えるのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
 私たちに救い主イエス・キリストを与え、彼を信じる信仰を与えてくださった恵みを感謝します。イエス・キリストとの出会いを通して、私たちが抱えているすべての人生の問題が私たちを真の「幸い」へと導くものと変えられたことに感謝します。どうかこれからも私たちが神の国をいつも求め、あなたが与えてくださる慰めを求めることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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