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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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悔い改めの機会

(2010.03.07)

聖書箇所:ルカによる福音書13章1〜9節

1ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。
2イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。
3決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
4また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。
5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
6そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。
7そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
8園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
9そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

1.私だけは例外
(1)自分だけ神様に守られている?

 もう何年も前のことです。私の家族がインフルエンザになって高熱を出して、寝込んでしまったことがありました。たぶん、学校に行っている子供たちが最初にインフルエンザのウイルスに感染したのかもしれません。そしてそのうちに家内までインフルエンザにかかってしまったのですが、私だけは症状があらわれません。やがて家内も子供たちも、健康を取り戻すことができました。私はいつも、真っ先に風邪にかかるタイプの人間なので、そのことが不思議でなりませんでした。そんなときに、友人の宣教師と電話で話す機会があったので、私は真っ先に「実は家族みんながインフルエンザにかかって寝込んだけれども、自分だけは大丈夫だった。神様が守ってくださったのだと思うよ」と話をしたのです。すると、その宣教師は笑いながら私にこう言ったのです。「先生、それは違いますよ。先生が本当に家族のことを心配して、一生懸命看病していたらきっとインフルエンザにかかっていたはずです。だから先生がインフルエンザにならなかったのは、家族に対する愛がない証拠ですよ」と。もちろん友人はそれを冗談で言ったのですが、私はすっかり「一本とられた」と言う思いになったことを思い出します。
 私たちはたくさんの人が災いに出会ったのに、自分だけそこから免れるようなことがあったとき、「神様が守ってくださった」と思ったり、それを人に語ることがないでしょうか。しかし、ちょっとへそ曲がりかもしれませんけれども、よくよく考えてみると、不幸にも災いに遭ってしまった人たちは「神様の守りがなかった」と言うことになるのでしょうか。そうなると、この考え方は「自分だけは神様から特別扱いされている」と人の不幸を尻目に、自慢していることにもなりかねません。おそらく、今日の聖書の物語にはこの考えと共通する当時の人々の考えが前提にあると言ってよいのではないでしょうか。

(2)二つの事件

 今日の聖書箇所には二つのお話が記されています。一つは当時おそらくエルサレムの町の人々を驚かせた衝撃的な事件についての報告とその話を聞いたイエスの反応です。もう一つは、このイエスの反応に関連して、イエスが語った一つのたとえ話が続いて語られています。そしてこの二つのお話に共通して重要なのは「悔い改め」と言うテーマであると言えるのです。
 最初に当時、エルサレムの町で起こった事件が二つ紹介されています。一つは「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」事件です(2節)。ピラトはローマ帝国の役人で当時のユダヤ総督でした。この事件の記録はこの聖書の記述以外には残されていません。おそらく、ローマに対する反乱を恐れたピラトが過越の祭りのためにエルサレムにやって来たガリラヤ地方の人々を手にかけた事件を言っているようです。なぜなら、当時のガリラヤには反ローマ帝国運動の活動家たちが活動していたからです。このガリラヤ人たちはその活動家であったのか、それともその巻き添えを食ってしまったのか分かりません。しかし、彼らは神殿で動物犠牲が捧げられる大切なユダヤ人の過越の祭りの最中にピラトによって殺害されてしまったのです。
 もう一つの事件についてイエスは次のように語ります。「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人」(4節)と。エルサレムの町には城壁の外にあった泉から町の中まで生活用水を運ぶために作られた地下水路がありました。その水路の終着点がシロアムの池で、この池についてはイエスの別の出来事を記した物語に登場しています(ヨハネ9章7、11節)。当時、このシロアムの池の周辺に建てられた塔が倒壊して、その下敷きになって18人の人が死んだという事件があったようなのです。

(3)自分は裁かれなかった

 この二つの事件いずれも自然災害ではなく、一つは総督ピラトが意図的に起こした事件、もう一つはこの塔の建設責任者か、管理責任者が起こした誤りから生じています。とにかく、ここではエルサレムにはもっとたくさんの人々が集まっているのに、その中でもどうして彼らだけが特別にその事件の犠牲になって死ななければならなかったのかという問題が取り上げられているのです。この物語でのイエスの言葉によれば、多くの人々は彼らが「罪深い者だった」(2、4節)から事件の犠牲者となったと考えていたようです。実はこの二カ所の言葉は日本語訳では同じように「罪深い者」と訳されていますが、ギリシャ語聖書では、2節は「何か悪いことをしたため」、4節は「何かの負い目を負っていた」からと言う言葉で使い分けられています。つまり、この二つの言葉をつなげて考えると彼らは何か悪いことをしていたために、神様に支払うべき負い目があって、そのために神様に罰せられたのだと言うことになります。
 すると、彼らとは違ってこの難から逃れることができた人は、何も悪いことをせず、何の負い目を負っていなかったから、神様の裁きを免れることができたと言うことになります。つまり自分たちが今、平穏無事に暮らしているのは、自分たちが神様に対して清廉潔白であることの証拠だと言うことになるのです。
 だからイエスはこの話の結論部分で次のように語ります。「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(5節)。このイエスの言葉は、一見すると「災いに出会って死んだ人は罪深かったためにそうなったのだ」という人々の考えを肯定しているように聞こえます。しかし、実はそうではありません。むしろ、イエスの主張点は、すべての人々は例外なく、悔い改めが求められているのであって、「私だけは特別大丈夫」などと言える人は一人もいないと言うことなのです。だから悔い改めなければ「皆同じように滅びる」とイエスは続けて語るのです。これは「悔い改め」なければ、「災いに出会う」とか、「誰かに殺される」と言っているのではなく、神様の厳しい裁きに耐えることはできないと言っているのです。
 ですから、この前半部のイエスの話の結論は「自分は普段から、よい心がけで生き、律法を守っているからだいじょうぶ」と考える人々に対して、「あなたたちは神様の裁きをそんなことで免れていると思ってはならない、あなたたちも悔い改めて、神様に救いを求めることが大切だ」と教えていることになるのです。

2.書き換えられたたとえ話
(1)実を結ばないいちじくの木

 後半部分のたとえ話はこの前半部のイエスの話をさらに強調するために語られていると考えることができます。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』」(6〜7節)。

ぶどう園に植えるのはぶどうの木と普通は考えてしまいますが、ここではぶどう園にいちじくの木が植えられています。調べてみると、このようなことは当時、よく行われていたことであったようです。また旧約聖書にはこのぶどうといちじくの実は神様からの祝福を象徴するものとして用いられています(ミカ4章4節、ヨエル2章22節)。ここではその祝福を受けながらも実を結ぶことができないいちじくの木が取り上げられています。
 ぶどう園の主人がいちじくの木を植えたのはその木から実を得ることを期待してのことです。ですから、実を結ばないいちじくの木はその期待に答えることができない存在です。つまりそのいちじくの木は実を結ぶと言う本来の意味を失った価値のない存在として見なされるのです。そのままにしておけば、その木は土の中の養分だけを取り入れて、ほかの木に影響を与えてしまうかもしれません。それ以上に実のならない木のために土地を遊ばせておくのももったいないことですから、その木を切り倒して、別の木を植えるために土地をあけるようにと主人はそのぶどう園で働く労働者「園丁」に命じるのです。
 ところが園丁は「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません」(9節)と主人に申し出たと言うのです。この園丁はいちじくの木を切ることを惜しんで、「もう一年待ってください、私が責任を持って面倒みますから」と主人に願い出たというのです。もしかしたら、ここまで三年間の間、いちじくの木を育ててきた園丁には、その木に対する特別な愛着が生まれていたのかもしれません。彼は「今、切ってしまうのは残念だ」と考えたと言うのです。そしてこの園丁のいちじくの木に対する愛着は彼が語る最後の言葉にも隠されています。「もしそれでもだめなら、切り倒してください」(9節後半)。ここで園丁はもしいちじくの木が次の年に実を結ぶことができかったとしても、自分ではその木を切ることができないので、「ご主人あなたが切り倒してください」と語るのです。

(2)神様の御心

 この物語の登場人物をぶどう園の主人が神様で、園丁がイエスを示すと読むこともできます。しかしむしろ、このお話全体は神様がどうして救い主イエスを私たちのために遣わしてくださったのか教え、その神様の憐れみと愛に満ちた御心を表していると言えます。全能なる神様はご自分の正義を貫くために、私たちすべての人間を滅ぼしてしまうこともできます。しかし、それを神様はなさらないのです。むしろ私たちを救うために救い主イエスを遣わされたのは、この園丁のように私たちを憐れみ、愛する心があるからなのです。神様は私たちが滅びることではなく、生きてほしいと強く願っておられるのです。
 かつて旧約聖書の預言者の一人ヨナは自分を太陽の日差しから守るとうごまの木が一夜にして枯れてしまったことを嘆き、神様に不平を語ります。そのとき神様はヨナに次のように語ったと言うのです。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」(ヨナ4章11節)。この話からも分かるように、神様は人を裁くことではなく、人が悔い改めて自分とともに生きることを望んでおられるのです。

(3)裁くためではなく、救うために

 実はこのイエスのたとえ話は当時のユダヤ人がよく知っているお話の一つであったと考えられています。ところがそのお話では園丁の「もう少し猶予をください。私が植え替えてみますから」と言う嘆願に答える主人の答えが付け加えられて終わっているのです。主人はこう答えたと言うのです。「水辺にあって実を結ばぬお前がどうして他の地で実を結ぶことができようか」。主人はそういって木を切り倒してしまったと言うのです。
 イエスはこのよく知られるお話から結論部分を削り取って、園丁の嘆願でこの話を終わらしてしまっているのです。
 フランスの有名な作曲家フォーレの作った「レクイエム」は今でも多くの人々に愛されている曲です。しかし、この曲をフォーレが作曲して発表した当時、この曲に対するはが強い非難が一部の教会関係者から起こったと言われています。通常「レクイエム」はカトリック教会の儀式(典礼)を元に作られる曲で、その基本的構成はほぼ同じように作られるのです。ところがフォーレはその伝統的な構成を無視して、レクイエムの大切な一部分である「神の裁きの日」と言う部分を割愛してしまったのです。本来、今までのレクイエムでは「神の裁きの日」と言う主題で歌われる部分が独立して存在しているのですが、フォーレのレクイエムにはその部分がありません。だから、一部の教会関係者は「この曲は教会の教えに反した異教的なものだ」と非難したと言うのです。実はフォーレのレクイエムにはこの「怒りの日」のテーマが全くないわけでえはなく、最後の天国の至福を歌う部分の一部として短く取り上げられているのです。
 いろいろな解釈がありますが、フォーレは「怒りの日」を独立して取り上げるのではなく、むしろ神様の裁きは人々が救われて天国の至福に与るために行われるためのものだと考えたと言えるかもしれません。つまり、神様のすべてのみ業の目的は裁きではなく、人々を救うことにあると言っているように解釈できるのです。
 イエスがこのお話の最後の部分を削ってしまったのにも同じような意味があると思います。神様は私たち人間が悔い改めるかどうかを、遠い天の王座の上から見つめるだけの冷酷な審判者ではありません。神様は私たちに対する愛の故に、じっとしていることができない方なのです。だからご自分の大切な御子イエス・キリストを遣わして、私たちを救おうとされたのです。この神様の私たちに対する真剣な御心を忘れて、「私だけは大丈夫」と考えることは最も愚かなことですし、許し難い誤りだと言えます。だから、私たちはこの神様の御心を知って、イエス・キリストを受け入れ、その救いに与るべきなのです。そしてイエスの救いを必要としていない人は誰一人いないことを、このお話は私たちに教えようとしていると言えるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 実を結ぶことのないいちじくの木と同じように、私たちは神様の期待に答えることもできず、ただあなたの厳しい裁きの前に、滅ぼされるべき罪人であることを覚えます。しかし、あなたはそのような私たちが滅びることをよしとはされず、私たちを救い出す道を開いてくださったことを感謝します。私たちがイエス・キリストを信じて生きることこそ、そのただ一つの道であることを覚えます。どうか、私たちがこの救いを蔑ろにすることなく、いつもそれに寄り頼み、感謝して生きる者としてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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