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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「神の裁きの前に立つ」

(2010.03.21)

聖書箇所:ヨハネによる福音書8章1〜11節

1 イエスはオリーブ山へ行かれた。
2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

1.真実を伝える物語
(1)
真贋論争

 たぶん皆さんの中にも「なんでも鑑定団」と言うテレビ番組をご覧になったことがある方がおられると思います。ゲストや一般の視聴者たちが「これが我が家の宝物」と言った骨董品を持ち寄って、その品物の値打ちがどのくらいのものかを専門家に鑑定してもらう番組です。いろいろな人が、「これは我が家の家宝で、とてもすばらしい値打ちのある品物です」と言って、「何百万、あるいは何千万の値段がつくはずだ」と言う人がいます。しかし案外、その品物が数千円もしないガラクタであったことがわかると言う場面もこの番組には度々登場します。
 素人の目から見れば、いかにも価値のありそうな品物でも、専門家の人々は一目でそれが贋作であることを見破ります。そのときに専門家がよく言う言葉は「この作品からは、本物にある気品や力がまったく伝わってきません」と言うものです。どうやら最高級の価値がつけられる本物には、その作品の内側から人々を引きつける力や気品があふれ出ていると言うのです。
 私がなぜこんなお話を最初にするかと言えば、今日私たちが読んでいるヨハネによる福音書の冒頭に現われる物語については昔から「真贋論争」が存在するからです。実はこの物語、皆さんが今ご覧になっている新共同訳聖書を見ると7章58節から8章の11節まで、ちょうどここに記されている「姦通の女」の物語を囲む形で、括弧でくくられているのが分かります。この括弧は何を意味しているかと言えば、ヨハネによる福音書の記されている古い写本にはこの部分が存在しないものが多いと言うことを表しています。つまり、この物語がヨハネの福音書の部分に記されているのは比較的後代に作成されている写本にしか認められていないと言うことなのです。これは、この物語が後の時代になってこの福音書に付け加えられたと言うこと、オリジナルな福音書にはなかったと言うことを語っています。それを証拠づけるように、聖書学者たちの分析によればこの物語の部分だけは、他のヨハネの福音書の表現形式と違った文体が使われていると言うのです。

(2)ルカによる福音書との関係

 この聖書学者たちの研究は更に進んでいて、この物語は本来ルカによる福音書の一部として記されていたのではないかと推測されています。ルカによる福音書の21章の最後には「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」(37〜38節)と言う言葉が記されています。ところが次の22章の冒頭では時間は過越祭の出来事に飛んでいます(1節)。そしてこのルカによる福音書の21章37〜38節と同じ言葉がこのヨハネによる福音書の8章1〜2節に記されて今日のこの物語が始まっていると言うのです。
 聖書学者たちは初代教会の一部で姦淫の罪に対する厳しい態度を主張する流れが存在し、彼らにとって都合の悪いこの箇所がルカによる福音書からいつのまにか削除されてしまったのではないかと主張します。しかし、この物語はそれでも失われることなく教会内で伝えられ、後にこのヨハネによる福音書の中に再収録されたのだと言うのです。この聖書学者たちの推測がどこまで正しいのか分かりませんが。長いキリスト教会の歴史の中でこの物語は主イエス・キリストの姿を知らせる物語として読み継がれ、また愛されてきました。なぜならこの物語を読む人は「これは真の主イエス・キリストの姿を伝える物語に違いない」と確信できる、本物の気品や力をこの物語から読み取ることができたからなのです。そして、この物語は主イエス・キリストの福音を伝えるために決して削除されてはならない物語として伝えられているのです。

2.姦淫の罪に問われる婦人と律法主義
(1)イエスに向けられた問い

 物語は朝早く神殿の境内に入り、民衆にイエスが教え始められた場面から始まります。そこに律法学者たちやファリサイ派の人々が姦通の現場で捕らえられた婦人を連れて来たのです。そして彼らはイエスに「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」(4〜5節)と問うたと言うのです。
 彼らのこの婦人の罪に対する判断は既にはっきりしています。なぜなら彼らが最も大切にするモーセの律法には「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない」(申命記22章22節)と厳しく語っているからです。そして彼らがこの質問の答えをあえてイエスに求めたのは「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである」(6節)と言われています。つまり、イエスが「この女を許してあげなさい」と言えば、彼らはイエスをモーセの律法を守らず、異なった教えを唱える教師として宗教裁判所に訴えることができます。また、もし「この女をモーセの命令通りに殺しなさい」と言えば、こんどはユダヤを支配するローマ総督に「この男はローマの法律を破っています」と訴えることができたのです。なぜなら、当時のイスラエルでは人を処刑する権限はローマの役人にだけ許されていたからです。
 しかし、イエスはこのような人々の魂胆を知ってか、知らずか、彼らの問いに答えることなく「かがみ込み、指で地面に何か書き始められた」(6節)と言うのです。ここでイエスが地面に何を書いていたかよく議論の元になります。しかし福音書記者はそのことに関心を示してはいません。律法学者たちやファリサイ派の人々はイエスのこのような行動を見て、自分たちの問いが無視されてしまっていると感じたのか、ますますしつこく同じ問いを投げ続けたと言うのです。

(2)律法主義の限界

 この物語は姦通の現場で捕らえられた婦人をどうするのかについて本来、議論が進んでいくべきなのですが。ところが、イエスにその婦人の取り扱い方についてしつこく問い続ける律法学者たちやファリサイ派の人々の関心にはこの女性にあるのではありませんでした。彼らにとって大切なのはモーセの律法をどのように守るかと言うことだけだったのです。なぜならモーセの律法は「イスラエルの中から悪を取り除かねばならない」と彼らに命じていたからです。ここには人の罪を告発できても、人を罪から救うことができない律法主義の限界があります。
 この律法主義の教えを簡単に言えば「ねばならない」の教えと言っていいかもしれません。律法主義は私たちに「こう生きなければならない」と言う命令を与えます。しかし、律法主義はその生き方を可能にする肝心の力を私たちに与えないのです。以前、キリスト教倫理についてのある話を聞いていたとき、こんなことを学んだことがあります。人生に絶望して死を選ぼうとしている人に「自殺は聖書が禁じている罪ですからやめなさい」と教えたとしても、死を決意している人が自殺をやめることができるのか、彼を救うことがきるだろうかと言うのです。そしてそれはできないと講演者は語ります。なぜなら、彼が必要としているのは自殺を禁じている律法についての知識ではなく、彼が挫折の中から立ち上がることのできる生きるための力、生きる希望だからです。ですから、その講演者は本当のキリスト教倫理は聖書が記している「ねばならない」と言った律法を教えることではなく、キリストの福音によって提供されている希望であり、力を示すことだと言うのです。

3.罪のないものから石を投げよ

 このように律法主義は人を生かすことのできる希望も力も提供ことができません。そればかりではなく、律法主義は肝心の自分の罪を悟る機会をも奪うことがあるのです。当時のユダヤの人々はこの律法を生活の中で確かに厳格に守っていました。しかし、その熱心はいつのまにか、律法を守ることができている自分に対する優越感を植え付け、それができない人を軽蔑すると言う生き方に変質していったのです。その結果、人々は他人が犯した罪には敏感であっても、自分が犯す罪には鈍感になっていったのです。

 イエスはそのような自分の犯した罪に鈍感になっている人々にここで問いかけます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)。

 この言葉は「あなたたちの中でこの女を裁くことができる権利を持っている人がいるのか」と言う問いかけにもなっています。なぜなら、自分でも同じ罪を犯しながら、その自分の罪を見逃しているものは、他人の罪を告発したり、裁く権利を持っていないからです。ここで一人の婦人の罪を裁こうとした人たちが、返って自分の罪を裁かれると言う出来事が起こっています。なぜなら、この言葉を発したイエスこそ、自分では何一つ罪を犯すことが無かった方であるからこそ、人の罪を告白し、裁く権利を持っている唯一の方だからです。そしてこの方の言葉によってのみ、人は自分の本当の姿を認めざるを得なくされるのです。聖書はこの様子を次のように伝えています。「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(9節)。

4.私もあなたを罪に定めない

 アウグスチヌスと言う神学者はこの「姦通の女」の物語を説教して、この部分にさしかかると「そこにはあわれな婦人と憐れみ深い方だけが残された」と表現しています。イエスの言葉に自分の罪を指摘された人々はそこを立ち去り、この二人だけが残されたのです。そしてイエスはこの婦人に次のような言葉を語ります。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」(10節)。そして婦人は答えます。「主よ、だれも」と(11節)。確かにイエスの言葉によってこの婦人を裁き、殺そうとしていた人々はすべてこの場から消えて行きました。しかし、その人々がいなくなっても、それだけではこの人の問題が解決されたわけではありません。誰も彼女の罪を問わないとしても、彼女が実際に犯した罪はまだ解決していないからです。そこでイエスは語ります。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(11節)。
 ここにはこの婦人が犯した罪に対する完全な解決の道が提示されています。なぜなら、イエスが彼女に対して「わたしもあなたを罪に定めない」と言う言葉をかけてくださったからです。この言葉は婦人の犯した罪に対する自責の念を一時的に忘れさせるための気休めの言葉ではありません。むしろ彼女の罪を解決し、その重荷から解放する赦しの言葉です。なぜなら、この言葉はこう読み替えることができるからです。「私があなたの犯した罪に対して責任を負う、だからあなたはもうその罪の責任を負う必要はない。あなたはその罪から解放された」と。なぜならこの言葉は私たちの罪を代わって自らに負い、私たちのために十字架にかけられたイエスが語られて言葉だからです。

5.もう罪を犯してはならない

 ところで、皆さんはここで語られているイエスの最後の言葉「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言う言葉をどのように理解されるでしょうか。「今回だけは私が責任を負う、しかし、これからはあなたが頑張る番だ。二度と同じ過ちを犯さないように気をつけなさい」。イエスはそう言って、この婦人がこれからの人生を注意して生きるようにと促しているようにも聞こえます。しかし、果たして私たち人間は、イエスから離れてこの言葉の通り、「罪を犯すことなく」生きていくことができるのでしょうか。おそらくそれは不可能なのではないでしょうか。
 人は一度道を間違えて覚えてしまうと、二度も三度も同じように道に迷ってしまうことがあると言います。なぜなら、私たちは間違った道を学習はしていても、正しい道をたどる方法を学んでいないからです。この婦人も今までの罪を赦されたとしても、これからその同じ罪を犯さないで生きる方法を学んだわけではありません。そうなると、彼女はまた同じ罪を犯すことがあり得るはずです。
 それではこの最後のイエスの言葉を私たちはどのように理解すべきなのでしょうか。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言うイエスの言葉に、私たちは自分の力で「はい、これからはそうします」と答えることは不可能です。しかし、私たちがこのイエスの言葉に応える唯一の方法があります。それはこの言葉を語ってくださったイエスに「どうか、これからの私たちの人生にともにいてくださって、私を助けてください。そうすれば、それが可能になるはずです」とイエスの同伴を願い求める道です。そのような意味で、この最後のイエスの言葉は彼女のこれからの人生にもイエスの助けが必ず必要であることを教える言葉になっているのではないでしょう。
 人を殺すことしかできない冷たい律法の言葉と違って、イエスの福音は私たちを生かす力があります。私たちの犯した罪を、責任を持って引き受けてくださったイエスは、私たちのこれから人生をも導いて、私たちには不可能と思われていた新しい人生を私たちに歩ませてくださるお方だからです。このように今日の物語は私たちの救い主イエス・キリストのすばらしい福音を豊かに語るものなのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 律法の厳しい戒めの前に自らの罪を告発され、かつては死の宣告を受けた私たちです。その私たちを生かすために主イエス・キリストを遣わしてくださったあなたの愛に感謝いたします。自らではどうにもならない罪の問題を、主イエスは私たちに代わって十字架の死を通して解決してくださいました。そればかりではなく、主イエスは私たちに聖霊を遣わすことで、私たちの人生に新しい可能性を作り出してくださったことを感謝します。私たちが信仰生活の中で、このあなたの恵みに生かされ、希望を持って大胆に生きることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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