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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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十字架上の死

(2010.03.28)

聖書箇所:ルカによる福音書23章26〜49節

32ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
33「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
34〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
35民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
43するとCGスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
44に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
45太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
46イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
47百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。
48見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。
49イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

1.ヘロデの裁き 
(1)イエスの受難の出来事

 今日は受難週の礼拝です。この受難週の礼拝は別名「棕櫚の主日」と呼ばれ、イエスがエルサレムに入城されたときに、そこに集まった人々が手に手に棕櫚(なつめやし)木の枝を持って歓迎したことを記念する日となっています(ヨハネ12章12〜19節)。この後、同じ週の木曜日の晩にイエスは逮捕され、金曜日に十字架にかけら、その夕方には墓に葬られています。この受難週のために教会暦が定めた聖書箇所を今日発行の教会月報に掲載しましたので、よろしかったら皆さんもこの受難週に聖書を読みながら主イエスの受難週の歩みをたどっていただきたいと思います。
 今日の聖書の箇所はイエスが逮捕後に、ローマ総督のピラトの元で裁きを受け、十字架にかけられて死なれるまでの出来事が記されています。この23章全体から何度かに渡ってお話することも可能ですし、むしろ一回でこの23章を取り上げることのほうが困難であると言えます。そこで、今日はこの23章の物語の中の三つの事柄に目を留めることで、イエスの十字架上の死と私たちとの関係について考えて見たいと思います。

(2)完全な無罪宣告

 イエスの弟子であったイスカリオテのユダの裏切りを利用してイエスを逮捕させたのはユダヤ人の指導者たちでした。しかし、彼らはそのイエスについての処分をここでローマ総督のピラトに依頼しています。何度も言うように、当時、犯罪者に極刑である死刑を下すことができたのはローマの役人だけに許されることでした。そこでイエスを死刑にしたいと願っていたユダヤ人の指導者たちはその判決をピラトから下してもらう必要があったのです。また、彼らはイエスをどうしてもローマの執行する十字架刑にする必要性を感じていました。なぜなら、十字架刑は当時の処刑方法としては最も残虐で過酷な刑罰であったとともに、ユダヤ人から見れば特別な意味を持った処刑方法だったからです。旧約聖書の昔からユダヤ人は「木にかけられた者は皆呪われている」(ガラテヤ3章13節、申命記21章22〜23節)と考えられていたのです。ですから民衆に対するイエスの影響力を徹底的に葬るためには「神様に呪われた者」として彼を処分する必要があったと言う訳です。
 このユダヤ人の指導者たちの目的を遂行するためには総督ピラトの協力がどうしても必要であったのです。ローマからユダヤを治めるために派遣されていた総督ピラトは決して評判のいい政治家ではありませんでした。しかし、このイエスの裁きに対してはその訴えが本当に正しいものかどうなのかを自ら丁寧に取り調べています。そして、彼はイエスがユダヤ人たちの訴えた罪状にあたる罪を犯してはいないと判断しているのです。
 このことについて23節には次のような言葉が記されています。「ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見ツからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」」。ピラトは三度も「イエスは無実であるから、釈放すべきだ」と語ったと言うのです。この「三度」と言う数は聖書では完全数と言って、完璧な数を表わしています。ですからここでは、ピラトはイエスが完璧に無罪であることを宣言したと言うことになるのです。聖書はこのピラトの裁きを通して、完璧に無罪であるはずのイエスが十字架にかけられたこと、つまり、この十字架の死の原因はイエス自身にはなかったことを示しています。つまりイエスがどうしても十字架にかからなければならなかった原因は別のところにあったと教えているのです。

(3)イエスの沈黙の意味

 このピラトの裁きの場面でイエス自身が発言しているのは23章の最初の3節だけです。ここでは「そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった」とイエスとピラトとの会話が記されています。自分が無実でありながらも不当な裁きによって処刑されるかもしれないときに、イエスは一貫して沈黙を守っています。そして、このイエスの沈黙の姿にこそ、彼の死の意味が明らかにするものだったと言えるのです。
 かつて旧約聖書の預言者イザヤは神様が与えてくださる救い主の姿を謎に満ちた言葉で紹介したことがありました。それがイザヤ書53章に紹介されている「苦難の僕」についての文章です。イザヤは「苦難の僕」についてこのように記されています。「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」(7節)。この苦難の僕は不当な取り扱いをされているにも関わらず、口を閉ざし、一貫して沈黙を守ります。そしてこの苦難の僕がどうしてこのような取り扱いをされるかについて、直前の6節にこのように説明が記されているのです。「わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた」。苦難の僕は自分の罪ではなく、道を誤って罪を犯した羊の群れに属するすべての民の罪を代わって担われたのです。
 福音書記者はこのイザヤの預言がイエス・キリストを通して実現したことを証ししています。ですからこの「苦難の僕」であるイエスの死は私たち自身の罪を負うためのものでああったことを明らかにするために、イエス・キリストの沈黙をここえで紹介したのです。

2.自分のために悲しめ

 さて、このイエスの受難の出来事を知らせる福音書の中でこのルカによる福音書だけが取り上げている部分に少し目を向けてみましょう。イエスが刑場に連れて行かれる途中の場面でのことです。イエスの十字架を代わりに背負ったキレネ人シモンについては他の福音書も記していますから有名です。ところが次の婦人たちとのやりとりはこのルカの福音書だけが取り上げている出来事だと言えます。

 「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」」(27〜28節)。

 ここでは「嘆き悲しむ婦人たち」が登場していますが、彼女たちは当時、葬儀の場などでその悲しみの場面を演出するために働いた「泣き女たち」であった可能性があります。彼女たちは「ああ、あんなに人々から人気を集めたイエスも、ついにこんな酷い目に遭うことになってしまった。本当にかわいそうに」と、嘆き悲しんだと言うのです。しかし、イエスはその人々に向かって「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」と語りました。
 イエスの死を歴史上に登場する一人の偉人の死として認める人は多くいます。しかし、それはこの婦人たちと同じように「自分とは違う他人の出会った不幸であり、死で」としてだけ捉えられています。しかしむしろ、イエスは私たちに対して、自分の本当の姿を見つめ、厳しい裁きに運命づけられている自分の姿のために嘆けとここで言っているのです。それはどうしてでしょうか。なぜなら、私たちは自分こそが神様の裁きの前に、十字架につけられ死ななければならない罪人であることを理解しなければ、イエスの十字架の死の意味は全くの他人ごとになり、自分の生命を救うことができる神の救いの出来事として受け取れなくなってしまうからです。
 自分の本当の姿を悟らせるために神様は私たちに律法、つまり神様の定めを与えてくださいました。しかし、それ以上に私たちが自分の本当の姿を知り得る方法があるのです。それはイエスの受難の出来事を通して、自分が本来受けるべきだった裁きの姿を知ることです。そして、それを知る者のみ、その裁きを自分に代わって受けてくださったイエスの愛と恵みを悟ることができるのです。

3.誰がイエスを十字架にかけたのか
(1)利用された受難物語

 このルカの福音書の受難物語を説教したある牧師は、ルカのこの物語には他の福音書で記されいるようなローマ兵の姿がなくなっていると言っています。確かに他の福音書ではピラトの部下であるローマ兵がイエスに侮辱を加える場面が記されています(マルコ15章15〜20節、マタイ27章27〜31節、ヨハネ19章2〜3節)。ルカはこの部分を削除してしまっているのです。その理由について異邦人のために書かれ、彼らに福音を伝える役目をこの福音書で、著者はイエスの十字架の責任の一端をローマ人に負わせることを避けようとしたのではないかと言う推測が記されていました。
 また、興味深いことがもう一つあります。34節で十字架上のイエスが語られた言葉は次のように記されています。「そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」」。この言葉はイエスの語られた言葉としてとても有名な言葉の一つですが、この言葉が私たちの持っている新共同訳聖書ではそのまま括弧で囲まれているのです。これはルカによる福音書の中でこの言葉がない古い写本が存在していることを示しています。このイエスの言葉は他の福音書の中には存在しない、ルカによる福音書だけが紹介する言葉です。しかし、その言葉自身が書かれていない写本が存在すると言うのです。
 この言葉については後からルカの福音書に加えられたと言うよりは、むしろ、本来書かれていた言葉をあえて後から写本家たちが取ってしまったと言う推測が聖書学者の中でなされています。そして写本家たちがこの言葉を取ってしまった理由は、イエスを十字架につけた人々を許すことなどできないと考えていたらからだと言うのです。主イエスを十字架にかけたユダヤ人指導者たちを許すことができないと言う人間の思いが、このイエスの言葉を福音書の中から抹殺しようとすることになったと言うのです。

(2)イエスの祈りは誰のためのものか

 「主イエスを誰が十字架につけたか」。この問題はキリスト教会の歴史の中で不幸な問題を生み出すきっかけとなりました。長い教会の歴史の中で、ユダヤ人をイエス・キリストを殺した人々として憎み、差別する原因を生み出すもとになったからです。以前、ドイツの古い村で伝わる祭りについて取り扱ったテレビ番組を見たことがありました。その村では村人総出演でこの受難週の時期にキリストの受難劇を演じる慣習が伝わっていたのです。しかし、はじめはそんなに有名でなかったその祭りを全国的に有名にしたのは、当時、ドイツを支配していたナチスの仕業であったと言うのです。なぜなら、彼らはこの祭りを全国に紹介することを通してユダヤ人を迫害し、抹殺しようとする彼らの政策の意図を正当化し、宣伝しようとしたからです。ユダヤ人はイエスを殺した憎むべき敵であると言う主張をナチスの人々は宣伝したのです。
 「イエスを殺した犯人は誰なのか」。その犯人はユダヤ人か、それともピラトに率いられたローマ兵たちなのか…。しかし、そのような答えをいくら求めたとしても主イエスの「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言う祈りの意味はわからないのです。なぜなら、イエスはこの祈りを私たちのために祈っているからです。つまりイエスを十字架につけた犯人は神様に背き、自分勝手に生きている私たちすべての人間であると言えるからです。
 このイエスの祈りの言葉を、私たちのために不当な裁きにも耐え、沈黙を貫いた「苦難の僕」の祈りとして受け入れるのか。そして私たち罪人が本来受けるべき刑罰を代わって受けてくださった方の祈りとして受け入れるのか。その答え次第によって、この祈りの言葉の価値は大きく変わってしまいます。そしてこの祈りを私のためのものだと考えるものだけが、イエスの十字架上の死を通して神の赦しを豊かに受けることができるのです。なぜならこのイエスの祈りこそが、私たちのすべての罪の赦しを保証している言葉であるからです。

【祈祷】
天の父なる神様。
 手に手に棕櫚の枝を持ちイエスを歓迎した民衆は、わずか数日後に口々に「イエスを十字架にかけろ」と叫びました。自分たちの身勝手な思いをもって生きる私たちは皆、この同じ誤りを犯す可能性のある罪人であることを覚えます。しかし、主イエスはその私たちのために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈ってくださいました。私たちはこのイエスの祈りに支えられて、あなたの御座に近づくことができることを感謝いたします。どうか私たちに聖霊を遣わして、イエスが十字架の死を通して与えてくださった赦しの恵みのすばらしさを覚えさせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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