1.キリストの復活と教会
ご存知のようにキリスト教会が生まれてしばらくの間、教会は当時のヨーロッパ世界を支配していたローマ帝国の迫害を受けることになりました。この迫害下の時代、キリスト教信仰を持っていることが分かると、その人は逮捕され、投獄され、ときには命さえ失う危険もありました。そのような時代に信仰生活を続けると言ういことは決して容易なことではなかったはずです。特にたくさんの人たちが集まって礼拝を献げることには大変な危険がいつも伴いました。そこで当時の信仰者たちは礼拝を一般の人々に普段寄りつかないようなところで守る必要があったのです。そして彼らが礼拝のために一番よいと選んだ場所は死者の遺体を葬った共同墓地だったのです。当時のローマ社会では洞窟を利用した共同墓地、「カタコンベ」と呼ばれものが存在していました。迫害から逃れるために信仰者たちはそのカタコンベに集まり礼拝を献げていたのです。
ローマ時代の遺跡の発掘が進み、初代教会の人々が礼拝を献げたカタコンベが色々なところで発見されています。そこで分かったのは当時の信仰者たちがその礼拝の場所に自分たちの信仰を表す、壁画を描いていたと言うことでした。そしてその壁画のほとんどはキリストの復活を示すものであったと言うのです。
死の支配する墓地の中で、最初のキリスト教徒はその死を打ち破り、勝利された復活のキリストを礼拝したのです。今日はキリストの復活を祝う復活祭の礼拝です。私たちの礼拝堂はローマ時代の教会の礼拝とは場所も様子も大きく異なっています。しかし、このキリストの復活を信じ、そこに希望を置く点では彼らと全く同じなのです。このキリストの復活を信じる信仰を教会は長い歴史の中で受け継ぎ続けてきました。そして今日の聖書の物語はこの信仰を最初に教会に伝えた人々が登場します。
2.彼女たちの犯した過ち
(1)仮埋葬されたイエスの遺体
今日の物語の登場人物を理解するためには、今日の物語が起こった日曜日の朝から更に遡って、安息日の始まる直前、金曜日の夕方の出来事を思い出す必要があります。ルカによる福音書は彼女たちについて次のように記しています。
「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した」(55〜56節)。
十字架で処刑されたイエスの遺体をピラトに申し入れて引き取ったのは、当時のユダヤの宗教議会の議員だったアリマタヤのヨセフと言う人でした。彼は危険を恐れず、イエスの遺体をピラトから引き取り、自分の家の墓に葬りました。これらの一連の作業はすべての労働が禁止される安息日の前に行う必要がありましたから、とても忙しいものであったことが想像できます。そのアリマタヤのヨセフと行動を共にしたのが「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たち」だったと言うのです。彼女たちの名前についてはこの後の10節で「それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった」と明らかにされています。
イエスの逮捕の際に逃げてしまった弟子たちの姿はここには登場しません。おそらく、彼らはイエスを逮捕した人々が自分たちをも逮捕しようとしているのではないかと恐れて、エルサレムの一室で息を潜めていたと思われます(ヨハネ20章19節)。彼らとは違いこの婦人たちは危険も恐れずにヨセフの行動に加わったと考えることができるのです。
先程も触れましたようにおそらくこのイエスの遺体の葬りは、安息日前に急遽行われた「仮埋葬」のようなものでした。とても急いでいたのでイエスの遺体は亜麻布で包まれただけで、正規の処置をされないまま墓に葬られたのです。そこでこの何人かの婦人たちは家に帰り「香料と香油を準備し」て、安息日が開けた後、つまり日曜日の朝に改めてイエスの遺体を正式に葬ろうとしていたのです。今日の物語は、その安息日が開けた日曜日の明け方早くから始めっています
(2)イエスのために人生を献げた女性たち
ところでこの朝、イエスの遺体が葬られた墓に向かった何人かの婦人たちについて、先程少し触れましたが、彼女たちはいったいどのような人たちだったのでしょうか。ルカによる福音書は彼女たちの存在についてすでに8章の1節から3節でこのように説明しています。
「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」。
ここに「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち」と記されています。特にその中の一人マグダラのマリアは「七つの悪霊を追い出していただいた」とまで書かれています。具体的にその症状がどのようなものだったのか分かりません。もしかしたら彼女たちは当時の医学では説明のつかないような難病で苦しんでいたのかも知れません。いずれにしてもこの福音書の記述から分かるように彼女たちはイエスに巡り会う前には大変な生涯を送っていた人たちだったと言うことが分かるのです。
以前インドネシアで宣教師をしていた牧師の証しを聞いたことがありました。その方、ある村で「病気にかかって苦しんでいる息子のために祈ってほしい」と言われたのだと言うのです。そして請われるままにその子の頭に手を乗せ、癒しのために祈ると、不思議なことにその子供の病気が治ったと言うのです。そこでその子の両親は喜んでその牧師にこう願い出たと言うのです。「この子は本当だったら死んでいたはずです。でも、あなたの祈りによって助かりました。ですからそのお礼としてこの子を先生に差し上げます」。その牧師はこの両親の申し出には困り果てて、何とかそれを辞退したのだと言っていました。
おそらくイエスの後に従った女性たちは、それまで生きていても死んでいるような状態、つまり自分の人生を生きることができずに、さまざまな問題を背負ってもがき苦しんでいた人たちだったのだと思います。イエスは彼女たちをその問題から自由にしてくださったのです。そこで初めて彼女たちは自分の人生を生きることができるようになりました。そして、自由にされた自分の人生を何のために使うかを考えたときに、彼女たちは自分を自由にしてくださったイエスのためにその人生を使いたいと願ったのです。つまり、彼女たちの人生の目的は自分の命を助けてくださったイエスに従い、イエスに仕えることだと考えたのです。このような背景を持った婦人たちでしたから、きっと毎日、熱心に喜びを持ってイエスに仕えていたのだと思います。
そのような彼女たちにとってイエスの死はまさに、自分たちの人生の目的を失うような一大事であったはずです。「自分たちはこれからどうして生きていけばよいのか」。おそらく彼女たちはその答えを見いだすことができないまま、とりあえずイエスの遺体を丁重に葬ることを自分たちの人生の一時的な目標として、この朝、イエスの墓に向かったのです。
3.墓に現われた二人の証言
そこで驚くべき出来事が起こります。彼女たちがイエスの墓に到着すると、墓の入り口をふさいでいたはずの大きな石がわきに転がしてあり、中に入って見ると、あるべきはずのイエスの遺体がなくなっていたのです(1〜3節)。彼女たちはこのとき「途方に暮れていた」と聖書は記しています。自分たちはいったいどうしていいのか分からないでいたと言うのです。
そこに「輝く衣を着た二人の人がそばに現れた」と聖書は記します。聖書の世界ではこの「二人」と言う数がとても重要になってきます。なぜならば、一人の証言は裁判などで証拠として採用されることがありませんが、それが二人なら確かな証拠として判断されたのです(申命記17章6節,19章15節参照)。ですからこれからこの二人の語る内容は確かなものであり、信じるに足ることであると聖書は教えているのです。この二人は次のように証言します。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(5〜7節)。
天使の証言には三つの内容が語られています。まず、婦人たちが犯していた間違いが最初に指摘されています。「イエスは死んでしまった」と考え、生きる目的を見失いかけていた彼女たちでした。だから「とりあえず、イエスの遺体を丁重に葬ろう」とこの墓にやって来たのです。しかし、「生きている方」を死んだ人の中に、つまり墓の中で捜すことは誤りなのです。それではいつまでたっても彼女たちはイエスを見つけることができません。
そしてこの二人は更に続けて語ります。「あの方は復活なさった」。十字架にかけられ死んで、葬られたイエス・キリストは甦られたのです。死の力を打ち破って勝利されたのです。二人はこのことをはっきりと伝えています。
そして最後に「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」と婦人たちに指示しています。復活されて、生きておられるイエスを見つけ出すために大切なのは、そのイエスがかつて語られた言葉を思い出すことです。つまり、聖書の言葉を読み返すことだと言っているのです。
キリストの復活が事実であったと言うことを、聖書以外の資料や、科学を持って論証しようとする人がいます。確かに、それらの資料を通して、私たちは二千年前のある日曜日の朝に何かが起こったと言うことを知ることができるかもしれません。しかし、それだけではキリストの復活を信じることはできません。大切なのはイエスが語られた言葉、つまり聖書の言葉に絶えず耳を傾け、その言葉の中にイエス・キリストを見いだしていくことです。そのような人に神様は聖霊を遣わしてくださり、イエス・キリストが確かに復活され、今も私たちとともに生きていてくださることを教えてくださるのです。つまり、聖書以外にキリストの復活を証明するものはありませんし、また、私たちにとってキリストの復活を信じるためには聖書だけで十分だと言えるのです。
4.キリストの復活の証し人に
この二人の話を聞いた婦人たちは「イエスの言葉を思い出した」(8節)と語られています。そして彼女たちの行動が変わります。不思議なことに彼女たちはまだこのとき復活されたイエスに直接には出会ってはいませんでした。しかし、明らかに彼女たちの行動は変わります。なぜなら、彼女たちはこのときイエスの言葉を思い出すことで、イエスが確かに復活され、今も生きておられることを確信することができたからです。そして人生の目的を見失ったかのように思えた婦人たちが、イエスの墓の中で途方にくれていた婦人たちが、ここから確実な歩みを始めるのです。
「そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた」(9節)。
彼女たちはイエス・キリストがかつて約束されたとおりに復活されたと言う事実を、十一人の弟子や他の人々に知らせました。そして、この彼女たちの証言から始まって、キリスト教会はイエス・キリストが復活されたと言う事実を今も、繰り返し証言し続けているのです。まさに、彼女たちの存在がキリスト教会を作り、私たちが毎週日曜日に守っている礼拝が始まったと言えるのです。
今日の物語は私たちに何を教えるのでしょうか。私たちもかつてこの婦人たちと同じように、自分で自分の人生を生きることのできなかった者たちでした。その私たちがイエス・キリストによる救いによって自分の人生を生きる者とされたのです。イエス・キリストが死に勝利された復活は、私たちを支配していた死に対する勝利であり、私たちの人生を取り戻す出来事だったのです。その私たちの人生にイエスは新たな目的を与えてくださいます。それがイエスに従い、イエスとともに生きると言う人生です。婦人たちの生涯はこのイエスの復活を証しする生涯に変えられました。それと同じように、聖書に耳を傾け、イエス・キリストを礼拝し続ける私たちの生涯をイエスは用いてくださるのです。私たちの信仰は、私たちに突然生まれたものではありません。2000年間に渡って、この婦人たちと同じようにイエスの復活を信じて生きた人々の証しの上に成り立っているのです。そしてキリストはこの復活祭の礼拝に集う私たちをこの証し人の一人として召してくださるのです。
【祈祷】
天の父なる神様。
私たちの信仰の先祖たちが暗い共同墓地の中で、希望に輝くイエス・キリストの復活を信じ続けたように。キリストのみ言葉を思い起こすことで、キリストの復活の事実を確信した婦人たちのように、私たちもまたキリストの復活を証しする者としてください。そのために日々、私たちがみ言葉に耳を傾けることで、あなたが今も生きていることを確信させてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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