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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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主であることを知った

(2010.04.18)

聖書箇所:ヨハネによる福音書21章1〜14節

1その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
2シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。
3シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
4既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
5イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
6イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
7イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
8ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
9さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
10イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
11シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
12イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
13イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
14イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

1.三度目の顕現物語

 今日、取り上げる聖書箇所の物語の最後のところに「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」(14節)と言う言葉が記されています。「三度目」と言っている訳ですから、そこには一度目、二度目があると言うことになります。自然に考えれば、一度目はこの章の前の20章に記された弟子たちの集まる部屋に復活されたイエスが最初に現れた出来事になると思いますし(19〜23節)、二度目は再びトマスを含めた弟子たちの前にイエスが現れた出来事(24〜29節)となると思います。ところがこの聖書箇所の物語を読んでみると、一度目や二度目の出来事で復活されたイエスに出会って喜びに満たされた弟子たちの姿とは全く違った弟子たちの姿が登場しています。むしろこの聖書箇所の物語で登場する弟子たちにはか つて味わったはずの復活されたイエスと出会ったときの感動がありません。むしろここに登場する弟子たちは、がっかりして、自分がこれからどうすればいいのかを悩んでいる様子さえ見受けられるのです。
 ちょっと不思議なのはそのことだけではなく、この21章と前の20章のつながりの関係です。実は20章の最後にはこの福音書の結論のような文章が既に書き記されているのです。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(20〜21節)。この文章を読むとヨハネによる福音書は本来、この20章で終わるべき書物として書き留められたと考えることができるのです。そうなると今日のこの物語が書き記されている21章はその後、付録のようにこの福音書に書き足されたと言うことになる訳です。そこで聖書学者の中には今日の物語が20章のエルサレムでの復活のイエスの顕現物語とは違った別の伝承に基づいているのではないかと推測する人がいます。つまり、20章の物語と21章の物語を無理に結びつけて考えない方がよいと薦めているのです。
 この問題は聖書学者でも簡単に解決がつかないようなとても難しい問題のようです。ただもし、この弟子たちの姿の違いを説明しようとするなら、私たちはやはり自分たちの信仰生活を考えてみればよいのかなと思うのです。復活されたイエスに出会って喜びに満たされた弟子たち、しかし、その喜びからいつしか冷めて、再び自分の抱える問題に悩み始め、復活のイエスの姿をすっかり忘れてしまいます。そのような信仰の浮き沈みは、私たちの信仰生活にもよくあることではないでしょうか。神様の御霊に満たされてすばらしい体験をした者が、しばらくするとそのことさえ忘れて落胆し、希望を失いかけると言うことがあるはずです。まさに、そのような弱さを持つ信仰者の代表として、ここにペトロと他のイエスの弟子たちが登場していると考えることができると思うのです。

2.漁師に戻ったペトロ
(1)立ち去るペトロ
 
 さて、この物語は「ティベリヤス湖畔」、つまりペトロたち何人かの弟子たちの故郷であったガリラヤ湖畔で起こったと記されています(1節)。この物語はペトロが言った「わたし漁に行く」と(3節)言う言葉から始まっています。ペトロたちはイエスの弟子になって彼に従うまでは、このガリラヤ湖で漁師をして生計を立てていました。彼らはイエスの「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言う招きの言葉に従って、網を捨て、イエスの弟子として生きる新しい人生を始めたはずでした。そのペトロが「わたしは漁に行く」と言い出したのですから、これはイエスの弟子をやめて、元の漁師に戻ると言う意味を持った言葉になるはずです。そしてこのペトロの言葉の中の「行く」と言う言葉はギリシャ語言語では「立ち去る」と言う意味をもっています。ですから、ペトロのこの行動は神様の前から、イエスの前から立ち去る、離れて行く行為であったと言うこともできるのです。
 ペトロのこの行動がどのような動機から生まれたのかは詳しく説明されてはいません。そして不思議なことにここでは他の弟子たちもこのペトロの言葉に促されて「わたしたちも一緒に行こう」と言い出したというのです(3節)。つまり、弟子たちが一致してイエスの弟子として生きることから「立ち去る」と言う決断がされているのです。彼らは新しい生き方を模索しはじめたと言うのでしょうか。しかし、かつてイエスは彼らに語られていたはずです。「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」(15章5節)と。ですからイエスから離れて行った彼らの行動の結果は明らかでした。「彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった」(3節)と言うのです。

(2)復活されたイエスの出現

 何かをせずにはいられなかったペトロでしたが、たとえ何をしたとしても、主から離れて行く私たちの行為は決して実を結ぶことはできません。夜通し働いても何もとれなかったペトロたちと同じように疲労と空虚感だけがそこには残されるだけなのです。しかし、そこに復活されたイエスが現れます。ここではペトロたちが努力してイエスを見つけ出したと言うのではありません。むしろ希望の源であるイエスの前から立ち去り、ますます解決のつかないところに落ち込んでいくように見られた彼らの前に、イエスご自身が現れ、彼らに語りかけられたと言うのです。
 ここに私たちの信仰生活の混乱を解決する糸口があります。なぜなら、私たちはこの礼拝に出席することで、ガリラヤ湖の岸辺から弟子たちに語りかけられたイエスの言葉を同じように聞くことができるからです。神無き絶望の世界に進もうとする私たちの歩みを引き戻してくださるために、イエスはこの礼拝の中でいつも私たちに語りかけてくださることを覚えたいと思います。弟子たちはこのとき湖畔から彼らに語られるイエスの御声を聞くことができたのです。そして私たちも同様に今、私たちに語りかけてくださる復活のイエスの声を聞いているのです。

2.回復された関係
(1)繰り返された奇跡

 「イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった」(6〜7節)。

岸辺に立ったイエスは漁をしても何もとれなかった弟子たちに向かって、「網を打ちなさい」と語りかけます。そして弟子たちがその言葉に従うと網を引き上げることができないほどにたくさんの魚が捕れたと言うのです。
 この物語を読むと、皆さんはたぶん「どうもこの物語と同じような話をどこかで前に読んだことがある」と思われると思います。実はルカによる福音書5章1から11節に同じような物語が記されているからです。ただしこちらの場合は、まだペトロたちがイエスの弟子となる前の出来事で、イエスの言葉に従って、沢山の魚が捕れた奇跡を体験したペトロたちはその出来事をきっかけにイエスの弟子となる決心をしたのです。まさにここではイエスによって同じ体験を弟子たちはすることになりました。ですからペトロたちは自分がイエスの弟子とれた時のことを思い出すことができたのだと思います。むかしの人の言葉に「初心忘るべからず」と言うのがありますが、ペトロたちもイエスの弟子とされた最初の場面を思い出す必要があったのです。

(2)主であることを知った

 ところで、ここで興味深いのは岸辺に立つイエスを見て最初、弟子たちは「それがイエスだと分からなかった」(4節)と言われているところです。たいへんに不思議なことですが、復活されたイエスと出会い、親しく語り合ったのに、最初それがイエスであるとは分からなかった弟子たちの姿はルカによる福音書にも紹介されています(24章13〜35節)。このことから復活されたイエスは単に人間の肉眼の目で見るだけでは分からないような存在であると言うことが分かります。つまり復活のイエスをイエスであると理解するためにはもっと別なものが必要であることが分かるのです。
 このように最初、イエスを見てもその人が誰だか分からなかった彼らでしが、12節では「弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである」と語られています。これは遠目で見たら分からなかったが、近くに来たら分かったと言うことを言っているのではありません。弟子たちとイエスとの命のつながりが回復されたときに、弟子たちの目が開かれ、イエスを理解することができたと言っているのではないでしょうか。まさに、その命のつながりは、イエスのみ言葉の語りかけと、その言葉に従った弟子たちの信仰の応答関係から回復されたと言ってよいのです。つまり、イエスの御言葉に聞き、その言葉に従って生きる私たちの信仰生活の中で生まれるイエスとの命の関係が、私たちの心の目を開き、私たちに復活の主の姿を明らかにするのです。

3.教会の使命
(1)伝道の使命

 昔からこの物語を読む人々は、ここに教会に与えられた二つの大切な使命が語られていると考えました。一つはイエスのみ言葉に従って大漁の奇跡を体験したペトロの物語から、教会に与えられた伝道の使命が語られていると考えたことです。後の方でこのときの大漁の魚について「シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」(11節)と語られています。おもしろいことにここではわざわざ網にかかった魚の数が「百五十三匹」と記されています。この「百五十三匹」というのは一説によれば当時の人が考えていた地中海に住む魚の全種類と言われています。そしてこの地中海周辺を自分たちの住む世界だと考えていた当時の人々にとってこの魚の数は、そのまま世界の魚の数と言ってよいのです。だからこのとき世界のすべての魚が捕れたと言うことになるのです。つまり、イエスの言葉に従って伝道の業に励む弟子たちは、すべての世界の人々をその伝道の「網」に入れることができると言っているのです。しかも、その網は破れないと言われていますから、どんなたくさんの人々が集まっても復活されたイエスが導いてくださる私たちの教会はそれらの人々を受け入れる力があることを教えているのです。
 このようにこの物語はキリストの福音を携えて、世界に伝道する私たちキリストの弟子たちに対しての宣教の約束がここに語られていると読むことができます。

(2)聖餐の交わり

 またもう一つは後半部分に登場する弟子たちとイエスとの会食の場面です。ここでイエスはこのような動作が記されています。「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」(13節)。このパンと魚を弟子たちに分け与えるイエスの姿を、多くの人は聖餐式のイエスの姿と同じものと考えました。そして、ここに教会に与えられたもう一つの使命が記されていると受け止めたのです。つまり、教会は外に向けての伝道の使命とともに、その内部においては復活されたイエスとの命の交わりを現す聖餐の共同体を大切にしなければならないと言うことです。
 どんなに元気な人でも食事をしなければ、すぐに病気になり、またやがては飢えて死んでしまいます。同じように私たちもまた自分の信仰を維持し、育むためにはこの聖餐に参加すること、つまりイエスが十字架の犠牲を通して勝ち取ってくださった豊かな命にあずかる必要があるのです。私たちの参加する礼拝は、この命に与る機会です。だから私たちにはこの礼拝を守り続け、イエスの命を豊かに分かち合っていく使命が与えられているのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
 あなたから離れては私たちは何もできません。しかし、あなたな私たちを日曜日ごとにこの礼拝に集め、親しく語り変え、私たちをあなたとの命の関係に呼び戻してくださることを感謝いたします。どうか、私たちが様々な問題に出会い、落胆したり、悩むときもあなたに立ち返ることができるように、私たちにみ言葉を与えてください。そして、私たちがあなたから与えられた使命を忠実に守り、それぞれの賜物を持ってあなたの教会に仕えることができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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