1.命は長さではなく質
今日の午後、私たちの教会では医療講演会が開催されます。この講演会では在宅ターミナルケアーの分野でご奉仕されている森清先生から貴重なお話を聞くことになっています。ターミナルケアーについて全くの素人である私は学ばなければならない立場にあります。しかしそこで重要になってくるのは人の命をどれだけ物理的に延命させることができるかと言うことではなく、残された限られた時間をどれだけ質の高い生き方をすることができるかということではないかと思っています。確かに、現代の医学は高度に発展し、かつては治療不可能と思えた数々の病が克服され、国民の平均寿命も延びました。しかし、私たちが今直面している問題は、新たに獲得された命の時間をどのように生きるのかと言うことにあると思うのです。
今日の聖書の箇所には「永遠の命」と言う言葉が登場します。救い主イエス・キリストはこの「永遠の命」を私たちに確かに与えてくださると聖書の中で約束しています。しかし、この「永遠の命」を単に「未来永劫に続く命」と理解したらどうなるでしょうか。それによって私たちは死の恐怖からは解放されるかもしれませんが、自分の命がそのまま未来永劫まで続くと考えると、そこにもまた大きな問題が生まれるのではないでしょうか。なぜなら、私たちは自分が日ごとに遭遇する問題には必ず終わりが来ると言うことに望みを置いて生きているからです。終わりがあるから今はそれに耐えることができていると言えるのです。もし、その人の人生が苦しみに満ちた人生であるなら、その人生がそのまま未来永劫続くとしたらどうなるでしょうか。その人生は地獄以外の何者でもなくなると言えるのかもしれません。
日本の昔話の一つに人魚の肉を食べた一人の娘がいつまでも年を取らず、美しいままの姿を保つことができたと言う話があります。ところがこの主人公、他の人が年老いて死んでも、自分だけはそのままであることに苦しみ続け、ついに800歳になったときに食事を断ち、自らの命も断ったと語られています。
聖書の言っている命とは単なる未来永劫に続く命と言うだけではなく、この世の命とは違った質的に違う命を考えてよいのです。私たちが聖書を読んでいてたいへんに興味深いことはこの「永遠の命」と「神の国」と言う二つの言葉はほとんど同義語のように使われていると言うことを発見することです。すべての福音書に「永遠の命」と「神の国」と言う言葉は登場しますが、どちらかと言うとマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書では「神の国(天の国)」と言う言葉がたくさん使われて、「永遠の命」と言う言葉が数えるほどにしか登場していません。しかし、それとは反対にこのヨハネによる福音書では「神の国」と言う言葉があまり使われていないのに対して、「永遠の命」と言う言葉が様々なところに登場するのです。つまり、ヨハネが語る「神の国」は他の福音書が語る「神の国」と同じような意味を持って使われていると考えてよいのです。神の国とは「神の支配」と言う意味を持った言葉で、それは神様と私たちとの親密な関係が成り立つ場所と言っていいかもしれません。そしてヨハネの語る「永遠の命」もこの神様と私たちとの親密な関係を通して実現する命と言っていいのだと思います。そして、今日の礼拝で取り上げている、イエスの羊飼いのたとえはこの神様と私たちとの親密な関係の中に成り立つ命を語っていると言言ってよいのです。
2.羊飼いの声を聞き分ける
(1)イエスを理解できない人々
この箇所のイエスのたとえは直前に記されているユダヤ人たちの「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」(24節)と言う質問を受けて語られたものです。つまり彼らはイエスの御業を目撃し、またイエスの教えを聞いてもイエスが誰であるのかが理解できないでいたと言うことになります。そこでイエスに「はっきりしてくれ」と彼らは迫ったと言うのです。しかし、問題はイエスが自分のことをはっきりと示していなかった訳ではなく、彼らがイエスを理解することができなかったと言うことにあるのです。その証拠に彼らとは違い、イエスを救い主として受け入れる人もいたからです。
そしてその一人がこの章の前の9章に登場する生まれつき盲人だった人の事例です。彼はここでイエスに「主よ、信じます」(38節)と信仰の告白をしています。同じようにイエスに出会いながら、一方ではイエスを理解できずに拒否する人々がいて、もう一方にイエスを自分の救い主と信じる人がいます。この秘密についてイエスは今日の聖書箇所で次のように説明しています。
(2)イエスの声が分かる人々
「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」(27節)。
どうしてある人々はイエスを信じることができ、また別の人々はイエスを信じることができないのか。それはイエスを信じることができた人々は、元々イエスの羊であり、彼の声を聞き分けることができたからだと言っているのです。羊は自分で自分を守ることができない弱い動物です。ですから羊の命は、それを守る羊飼いの手にかかっています。そして、羊たちにとって最も幸いなことは彼らが自分の羊飼いの声を聞き分ける能力を持っていることでした。なぜなら、その声だけ知っていれば、彼らは羊飼いの指示に従ってあらゆる危険がから守れることができるからです。
ここで「聞き分ける」と言う言葉は、後に「彼らはわたしに従う」と言う言葉が語られているように、単に音を耳で聞くと言う能力のことではなく、その声が自分を呼んでいると言うことを聞き分け、応答することができる能力と言っていいでしょう。
聖書に記された神様の言葉を読んで、この話はあの人にぴったりだ、あの人に聞かせてやろうとか、学校でこのような言葉を教えるべきだと自分のことは棚に置いてしまうのではなく、「これは私のことを言っている」、「私のことが語られているのだ」と聞き取り、悔い改めて、神様を信じようと考え行動することができる人は、皆、イエスの羊であり、彼との親密な関係の中に生かされている者たちであるとこの言葉は私たちに教えているのです。
3.わたしは知っている
(1)永遠の命を与える
イエスはここで「わたしは彼らを知っており」と続けて語っています。羊飼いは自分の羊一匹一匹に名前をつけることはもちろんのこと、その羊の性格を熟知して、相応しい対応をすることによってその羊を導きます。そしがその羊を導いていく目的地が「永遠の命」であるとイエスは言っているのです。
「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(28節)。
聖書に記されている通り私たち人間の命は神様に根拠を持っています。神様は地面の土から人の形を造りだし、それに命の息を吹き入れることで人を生きる者としてくださいました(創世記2章7節)。そして、ここに出る「永遠」と言う言葉は神様のご性質自身を語っているものとも言えます。ですから「永遠の命」とは、神様に根拠した命、神様との関係の中で与えられる命と言っていいのです。これに反して、神様から離れてしまう者は命の根拠をなくしてしまうことになりますから、その命は「滅びる」しかありません。ですから聖書が語る「滅び」とは神様から離れてしまい、無関係となってしまうことをも意味し、その結果「永遠の死」が訪れるのです。しかし、イエスはイエスを信じる者たちが決して「滅びる」ことがないようにしてくださるのです。なぜなら「だれも彼らをわたしの手から奪うことができない」と約束してくださっているからです。私たちと神様との命の関係を妨害できる者は誰もいないのです。なぜなら、この約束をしてくださっているイエスが私たちを神様から引き離そうとするあらゆる者から守ってくださるからです。
(2)イエスの命の価値と同じ
「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない」(29節)。
イエスはここで大変に不思議なことを語っています。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり…」と。父なる神がイエスに与えた羊たち、つまり私たち信仰者は「すべてのものより偉大であ」るとここで言っているのです。この言葉を理解することが困難なためにある人は「偉大」と言う言葉を「私に彼らをくださった父はすべてのものより偉大である」と、彼らではなく父なる神にかかる言葉として理解しようとします。しかし、この言葉はこれほどまでに羊たちが大切にされているのか、その理由を語っている言葉と考えることができますから、その理由は羊が偉大と取ったほうがよいのではないでしょうか。
どうして私たちが偉大なのか。私たちは自分の姿を一生懸命観察しても、その答えを見いだすことはできないと思います。そんな価値がどこにあるのかと疑問に思うのが私たちです。しかし、その理由は理解することができなくても、私たちの命の価値を判断する計りが聖書には記されています。それは私たちのために十字架にかかってくださったイエス・キリストの命です。聖書は私たち一人一人の命を買い取るために、イエスはご自身の命を犠牲にされたと語られています。だから私たちの命はイエス・キリストの命と同じくらい尊い価値を持っているのです。そしてこれ以上に私たちの命の偉大さを表す印はありません。私たちの命はこれほどまでに偉大であり、神様から大切にされていると言うのです。
4.イエスを通して神様を知る
(1)人生の秘密が明らかになる
そしてここでも繰り返し「だれも父の手から奪うことはできない」と私たちと神様との親密な命の関係が語られています。「わたしと父とは一つである」(30節)と語られているように、イエスと父なる神との関係は一つであるのですから、イエスと私たちとの関係はそのまま、父なる神様との関係と考えていいからです。
信仰生活について「神様がおられるから、私たちは何も分からなくても大丈夫」と言う人がいます。確かにその信頼は大切です。しかし、何も分からない訳ではありません。神様は私たちにイエス・キリストを示すことで、私たちと神様との関係を明確に示してくださっているからです。
このたとえ話のきっかけについて、生まれつき盲人の話を先に触れました。イエスに出会う前の彼の人生はまるで闇に閉ざされているようなものでした。人々は彼の目が見えない原因を「本人かその両親が神様に罪を犯した」からだと考えていたのです(2節)。どうして自分だけがこんな境遇に置かれているのか。自分の人生の意味が分からないと言う苦しみは、彼の目が見えないこと以上に彼を苦しめていたのかもしれません。しかし、彼のこの人生はイエス・キリストとの出会いで全く変わります。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(9章3節)。彼はこのイエスの言葉を通して自分の人生が神様との親密な関係の中にあったことを知ることができました。そして、その後イエスによって開かれた心の目を通して、イエス・キリストを受け入れる者となったのです。
(2)生と死を支えるもの
このようにイエスは私たちの命が神様との親密な関係の中にあることを私たちに教えています。宗教改革の時代、聖書に基づいて信者たちを牧会しようとしたプロテスタント教会の牧師たちは、苦しみの中にある信仰者たちを、特に死を目前にしている人々をどのように慰め励ますべきか苦心しました。私たちの教会が大切にするハイデルベルク信仰問答はこのような牧師たちの願いの元に作られたと言われています。ですからこの信仰問答の問いは次のような言葉で始まっています。「生きるときにも死ぬときにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」(問一)。ドイツ語原文ではこの言葉は「生きるときにも、そして今まさに死を迎えようとしているときにも」と訳すのが相応しいと言うことを聞いたことがあります。私たちが今、まさに死を迎えようとしるときにも、私たちを慰め支えるものは何か。それはわたしが私自身のものではなく、救い主イエス・キリストのものとされていると言うことだとこの信仰問答は教えているのです。だから私が入れられた神様との親密な命の関係から誰も私を奪い取るものはいないのです。私たちの救い主が羊飼いのように私たちを守り導いてくださるからです。
このように聖書の語る永遠の命は私たちの命に豊かな価値を与える神様との関係を語っていること、私たちはこのイエスのたとえからも学ぶことができるのです。
【祈祷】
天の父なる神様
私たちの命を支配されるあなたは、私たちにイエス・キリストを遣わし、私たちに永遠の命を与えてくださることを感謝いたします。信仰生活を通してこの命のすばらしさをますます知ることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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