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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「人の子の栄光と新しい掟」

(2010.05.02)

聖書箇所:ヨハネによる福音書13章31〜35節

31さて、ユダが 〔晩さんの広間から〕 出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
32神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
33子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。
34あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
35互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

1.イスカリオテのユダの裏切り
(1)イエスの愛が示されたメッセージ

 今日の聖書箇所はイエスが過越祭に弟子たちとともにされた食事の席で、イエスが語られたメッセージの一部です。この食事の席の出来事は13章の最初から17章にまで続いています。ヨハネによる福音書では、他の福音書に記録されているようなイエスが過越祭の食卓で行われた聖餐式制定の出来事が記されていません。その代わりに、大変多くの字数を使ってイエスが最後の食事の席で語られたメッセージが記録されています。そしてヨハネはこの13章の冒頭に、イエスが弟子たちにこれらの遺言のようなメッセージを残された理由を次のように説明しています。

 「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13章1節)。

 イエスは自分が十字架にかけられる時が迫っていることを確かに確信していました。そしてそのイエスは自分にこれから起ころうとすることを心配するのではなく、自分の「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と言うのです。「この上」と言う訳ですから、それ以上の愛は無いという意味です。他の聖書の翻訳は「永遠の愛」を示されたと言う言葉を使っています。イエスの愛は一時的には燃え上がるが、すぐ冷めてしまような人間の愛ではなく、いつまでも変わることなく、無くなることのない愛です。その愛をイエスは弟子たちに表すために、このメッセージを語られたと言うのです。

(2)イスカリオテのユダと悪魔の働き

 ところで、今日の箇所は「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた」(31節)と言う言葉で始まっています。「ユダが出て行くと」というのはこの直前の30節で「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」と言う出来事を受け継いだ言葉です。この13章から始まるこの食事の席で、イスカリオテのユダの裏切りがイエスの口から弟子たちにまず明らかにされます。しかし、イエスはこのとき直接にユダの名前を明らかにしたのではなく、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」(26節)という動作でそれを弟子たちに示しています。ところが、弟子たちはこのようなイエスの説明があっても、誰がイエスを裏切ろうとしているのか最後まで分からないのです。つまり、イエスのこの行為はイエスを裏切ろうとしている人物を弟子たちに明らかにすると言うよりは、イスカリオテのユダ本人にだけ分かるようにするものだったと考えることができます。イエスはもしかしたら、この行為を通してユダに自分が犯そうとしている罪の重大さを悟らせ、彼に悔い改めの機会を与えようとされたのかもしれません。しかし、ユダは残念なことにこの機会を無駄にしてしまいます。
 聖書を読むときこのイスカリオテのユダの裏切りは最初から神様の計画の中にあったことがわかります。しかし、同時にこの福音書はこの裏切りの原因は神様にあるのではないことをも明らかにしています。13章2節にこのように語られているからです。
 「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」。このとき悪魔はイエスを通して神様の救いの計画が実現することを恐れて、それを阻止するために弟子の一人のイスカリオテのユダを利用したと言うのです。つまり、ユダはこの悪魔の働きによってイエスの裏切りを実行して行ったのです。
 悪魔はいつも私たちを神様から引き離すために働きます。その働きはイスカリオテのユダだかではなくすべての人間に及ぶものです。そして誰もがユダと同じような弱さを持っているのです。しかし、肝心なのは、私たちは自分の持っている弱さをどのように取り扱うかと言うことではないでしょうか。イスカリオテのユダの特徴は、この弱さを自分の力で何とか解決しようとした点にあります。つまり、その弱さの故に神様に助けを求めることをしなかったのです。彼はそのために最後には自分で自分の命を絶つと言う悲劇的最後を遂げています。つまりそれがユダが自分の持っていた弱さを処理しようとした方法なのです。ですからユダの人生には神様の出番がないのです。
 しかし、私たちが持つ弱さは悪魔のつけいる原因となるだけではなく、その弱さを通して私たちが神様に近づく原因ともなるのです。そのような意味で私たちは自分の持っている弱さの解決を神様に求めて行く必要があります。真の信仰者とは自分の弱さを持っていない人ではなく、その弱さを通していつも神様に近づき、神様の助けを求める人であると言えるのです。

2.イエスの栄光

 「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる」(31〜32節)。

 ここではイエスが栄光を受けるときがやってきたと言われています。それではこの「栄光」とはいったいどのようなことを言っているのでしょうか。ここではユダがイエスと弟子たちが食事をしている家から外に出て行ったとき、つまりイエスを裏切ろうとする計画が実行に移されたときのことが語られています。そしてイエスはその時が来たのを知り「今や、人の子は栄光を受けた」と語っているのです。つまり、ここでの「栄光」と言う言葉はイエスの十字架の出来事をさしていることがわかります。しかも、この十字架はイエスのための栄光だけではなく、天の父なる神の栄光でもあると言われているのです。
 広辞苑で調べると「栄光」と言う言葉は「かがやかしいほまれ。光栄。名誉」と説明されています。この言葉をイエスの十字架の出来事に当てはめようとすれば、神様の側の栄光は私たちが考えている栄光とかなり違っていることがわかります。私たちの考えから言えば、神様の勝利、つまり神様に敵対するすべての存在が滅ぼされることによって実現するものが「栄光」だと考えます。しかし、イエスの十字架は人を滅ぼすためになされるものではありませんでした。
 むしろ、イエスの十字架は神に敵対し、その栄光を損なう存在でしかなかった私たち人間を救い出すためものであったのです。しかも神様の栄光はその私たち人間を救い出すことで豊かに表されたと聖書は語っているのです。簡単に言えば神様の救いの御業こそが、神様の栄光であると言うことができるのです。
 私たちは自分の持っている弱さを、また自分に不都合なことを取り去ることによって自分が完璧な人間になり、その栄光を表そうとするかもしれません。しかし、神様はむしろご自分にとって不都合な存在であった私たち人間を捨て去るのではなく、救い出すことを通してご自分の栄光を表されたのです。それがイエスの十字架はその神様の栄光を実現させるものだったのです。そして福音書記者はこの神様の栄光が実現されて、今の私たちがあるのだと教えています。キリストの十字架の救いが実現し、豊かに表された神様の栄光に基づいて、今、私たちはイエスの弟子としてこの教会に集められているからです。

3.新しい掟
(1)新しさの根拠は

 イエスはここで弟子たちに次のように語っています。

「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(33〜35節)。

「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる」とイエスは語り出しています。つまりこれから語ることは自分がいなくなったときに備えるために語ることだと言っているのです。そして、この福音書を記したヨハネにとってイエスがいなくなったときとは、キリストの昇天後のことをも同時に指し示しています。つまり、ここで語られるイエスの言葉、キリストの昇天後に信仰を得て、今、信仰生活を送っている私たちにとってもとても重要なものだと言うことです。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」。ここで「新しい掟」とイエスは言っています。つまり、この「新しき掟」に対して「古い掟」もあると言うことが前提となっています。実は「互いに愛し合う」と言う教えは、ユダヤ人にとって物珍しいものではなく、モーセの律法の中でも教えられていることだったのです。しかし、イエスはその掟とは違い自分があなたがたに教える掟は「新しい」と語っているのです。それではこのイエスの教えの新しさとはどこにあるのでしょうか。
 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。この掟の新しさの根拠はここに示されて。あなたがたが互いに愛し合わなければならないのは、イエスが私たちをまず愛してくださったからであると言うのです。そして、その愛が豊かに表れた場所こそ、先に「栄光」と言う言葉で表されたイエスの十字架の出来事なのです。イエスは私たちを罪を負った人間を滅ぼすのではなく、私たちを救い出すことによってご自身の栄光を表されたのです。そしてこの十字架を通して私たちに対する豊かな愛を示してくださったのです。このイエスの十字架の救いの事実に基づいての掟が「新しい掟」、互いに愛し合いなさいと言うことなのです。
 確かに、「互いに愛し合う」と言う掟はいろいろなところで今での教えれ、実践されています。しかし、それらの掟は一見イエスの教えと同じように見えますが、それらは「古い掟」に過ぎないのです。イエスの教える新しい掟は、その救いにあずかる者の上にしか実現しないからです。ですから、この教えはキリスト教会にしか実現できないものだと言うこともできるのです。

(2)弱さがあるからこそ愛し合う

 「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(35節)。

 この愛が実現することを通して私たちがイエスの弟子であることがすべての人々の前で明らかにされると言っています。つまり、昇天されたイエスが今も生きていることを、イエスの弟子たちが互いに愛し合うことを通して表してくださると言っているのです。
 復活されたイエスを人々に示すために教会は成熟しなければならない、立派になってすばらしい証しをしなければならないと私たちは考えます。しかし、その際、私たちが忘れてはならないのは、神様がご自身の栄光を表すために取られた姿です。なぜなら、私たちはそれを忘れていつも違ったところに自分たちの栄光を求めようとするからです。
 ヒットラーと言う政治家は嘗てドイツに理想的な国家を作るために、それを邪魔するすべてのものを無くしてしまえばよいと考えました。障害者やユダヤ人をガス室に送って殺し、優秀な人々だけを残せば、国家もやがては世界も完璧なものになると考えたのです。もちろん、このヒットラーの考えを公に評価する人は今は少ないかも知れません。しかし、私たちはその誤りを言葉では分かっていても、いつのまにか彼と同じように自分にとって不都合なものを切り離して、自分の理想を実現し、栄光を表そうとするのです。
 しかし、イエスは私たちに「互いに愛し合いなさい」と教えました。それは簡単に言えばお互いが助け合うことを教えています。しかし、もし教会に完璧な人々だけが集まっていたなら、そこでは助け合う必要は無くなってしまいます。つまり愛し合う必要は無くなってしまうのです。しかし、私たちは互いに弱さを持っていますし、実際にたくさんの欠けを持って教会に集められています。だから私たちは互いに助け合い、また愛し合うことができるのではないでしょうか。私たちの持っている「弱さ」は、私たちの愛を生み出す原因となるのです。もちろん、この「弱さ」を通して本当の愛が実現するのは、私たちの主イエス・キリストの力です。私たちが私たちの力でその愛を実現したのなら、人々は私たちの力を知ることができても、イエスの愛を知ることはできません。そこにイエスの力が働くからこそ、人々はイエスを知ることになるのです。
 ですから自らの「弱さ」を切り離し、また自分の力のみでそれを解決しようとしてはいかません。なぜなら悪魔はそのような人々を利用しようと狙っているからです。しかし、その「弱さ」を神様に持って行き、神様の愛を知る者は、その神様によって豊かに用いられ、キリストの弟子として生きることができることを今日の聖書は教えているのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 私たちは自分の弱さや、不都合な部分を排除して、完璧な人間になろうと考える愚かな間違いを犯します。イスカリオテのユダはその弱さを神様に委ねることができませんでした。どうか、私たちがあなたに自分の「弱さ」を委ねて生きることができるようにしてください。そして私たちの教会が持っている弱さを切り捨てるのではなく、その弱さを支え合って、あなたの愛をこの教会に実現していくことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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