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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「主の昇天」

(2010.05.16)

聖書箇所:ルカによる福音書24章46〜53節

46〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「聖書には〕次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
48あなたがたはこれらのことの証人となる
49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

1.復活、昇天、そして聖霊の働き
(1)40日後の出来事

 今朝はイエスが天に昇られた出来事を記念する「主の昇天」の祝う礼拝です。使徒言行録の記事に従えばイエスは復活された後、40日にわたってこの地上にとどまりご自身の姿を現され、その後に天に昇られたと記されています(1章3、9節参照)。ですからキリスト教国ではイースターの日曜日から数えて40日目の木曜日にこの礼拝が守られるところが多いようです。しかし、日本のようなキリスト教国ではない国々ではその次の週の日曜日をイエスの昇天を記念する礼拝にあてているのです。
 イエスの昇天の出来事を同じように記録するルカによる福音書と使徒言行録は、どちらも同じ著者ルカによって記されています。しかし、使徒言行録はイエスの昇天を復活の40日後とはっきり記しているのに対して、福音書の方はその日数を記録しないでむしろ復活されたイエスが弟子たちの前に現われた出来事を語った後、すぐに50節で「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き」、天に昇られたと語り続けています。
 福音書は単なるイエスの行動や言動を記した記録ではなく、信仰の書物です。ですから著者はここで正確な日数にあまり関心を持っていないのかもしれません。また40日と言う数は荒れ野の試みの40日間とか、出エジプトの民の40年間の生活のように、40日と言う日数を教えるより、イエスの復活顕現が誰も疑う余地がないほど、確かなものであったことを表しているのかもしれません。いずれにしても、私たちが関心を向けなければならないのは、福音書がイエスの昇天について私たちに何を教え、それが私たちの信仰にとってどのような意味を持つのかと言う事実であると思うのです。

(2)イエスはどこにおられるのか

 私たちがイエスの昇天の意味を探ろうとするとき、それを正しく知るためには当然、イエスの復活の出来事が前提とされなければなりません。また、この後で起こる聖霊降臨の出来事も念頭に置いて考えなければ昇天の意味ははっきり分からないと言えます。復活、昇天、聖霊降臨、この三つの出来事はイエスについて、彼が今どのような形で存在し、また私たちとどのような関係を持っておられるのかを教えるものだと言えます。
 主イエスの復活は、イエスが死に勝利し、今も生きておられることを私たちに教えています。そして、イエスが今も生きておられるという真理を私たちが受け入れるなら、その次に問題となるのは、それでは今、イエスはどこにおられるのかということになるでしょう。その問いに答えるのが、今日私たちが聖書を通して向き合っているイエスの「昇天」と言う出来事です。復活されたイエスは天に昇られたのです。そして今も、イエスは天におられるのです。復活されたイエスは今も生きて、天におられると言うことになるのです。
 それではこの天におられるイエスは、地上に生きている私たちとどのように関係されるのかと言う問いが次に生まれます。なぜなら、天は私たちにとって遙かに遠い場所と言えるからです。天におられるイエスと、地上に生きる私たちとはどのような関係があるのでしょうか。その問いに答えるのが聖霊降臨と言う出来事なのです。イエスは天から私たちに聖霊を送ってくださり、私たちを導き、私たちとともに生きておられるのです。つまり、イエスは今も生きておられ、天におられるけれども、聖霊を私たちに送り、私たちとともに生きてくださっているということがこの三つの出来事を通して明らかになるのです。
 先程語りましたようにルカは福音書と使徒言行録の二つの書物を記し、その両方の書物にこのイエスの昇天の出来事を記録しました。福音書はイエスの昇天の出来事で終わり、使徒言行録は同じこの昇天の出来事から始まります。ルカはこの昇天の出来事を通して、イエスの働きが新しい段階に入ったことを私たちに教えているのです。つまり、イエスは今、天上におられながらも、地上の教会を通して働き続けてくださっていると言うことを示しているのです。

2.誰が宣べ伝えるのか

 その点で興味深いのはイエスが昇天される前に弟子たちに語った言葉の内容です。天に昇られる前にイエスは弟子たちに次のような言葉を語っています。
 「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」(46〜48節)。
 イエスはここで旧約聖書に約束されていた神様の救いの出来事が実現すると教えています。そしてその際に弟子たちは「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ことの「証人となる」と語られているのです。この言葉少し、難解です。本来単純に考えるなら、「あなた方が証人となって人々に宣べ伝えなさい」と語られるなら自然な言葉の流れになります。つまり、宣べ伝えるのは証人が持つ使命と言うことになります。しかし、ここでイエスは弟子たちに「人々に宣べ伝えられるこのとの証人となりなさい」と言われているのです。つまり、宣べ伝えている人は弟子たちとは別の人物で、弟子たちはその別の人物がしているのことの証人となりなさいと言われているのです。
 それでは宣べ伝えているのは誰かと言うことになります。そこで大切になってくるのが「その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と言われるところの「その名によって」と言う言葉です。「名前」というのは聖書の時代の人々にとって、名前を持っている人の人格それ自身をさすものとして使われました。つまり、ここでは「その名」、「イエス」と言う言葉を通してイエス自身が「宣べ伝えられる」と言うことを語っているのです。
 もちろん、実際に世界に出て行き、そこでイエスの福音を伝えたのは弟子たちであり、無数の信者の群れでした。しかし、実はそこで本当に働いているのはイエス自身であると言っているのです。ここには私たちがイエスの証人となって生きるときに忘れてはならない大切な態度が記されています。教会の歩みは確かにそこに集う多くの人々の努力や犠牲によって進められています。しかし、本当にそこで働かれるのは主イエスご自身なのです。このことを忘れてしまうならば、私たちの活動は主イエスの証し人としての使命を失い、自分の存在をただアピールするだけのものになってしまいます。どんなにそこで華やかで、立派な活動が行われたとしても教会はイエスの御業を伝えると言う本当の使命を失ってしまうのです。私たちにとって大切なのは何時も、私たちを通して生きて働かれるイエスの御業が褒め称えることです。そして、その使命を私たちが遂行するときに、人が作り出す満足ではなく、神様から与えられる喜びが私たちに訪れるのだと言えるのです。使徒言行録はまさに、弟子たちの歩みを通してイエスが豊かに活動されたことを伝えているのです。

3.彼らはどうして喜んだのか
(1)大喜びする弟子たち

  それではイエスの昇天の出来事を体験した弟子たちはどのようになったのでしょうか。旧約聖書には預言者エリヤが天に昇ったと言う出来事が記されています(列王記下2章)。このときエリアの後継者となるエリシャは、自分の師であるエリヤが自分から離れて行ってしまうことを知って、エリヤから離れず、困らせたと言う出来事が記されています。イエスは自分たちから離れて一人で天に昇られようとしています。自分はイエスから離れたくないと考えるのが当然の反応のように思えます。しかし、聖書は弟子たちの表した意外な反応を伝えています。

 「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(52〜53節)。

 弟子たちは天に昇られたイエスを礼拝して、喜びに満たされたと言うのです。彼らはイエスを礼拝しました。ユダヤ人が礼拝を献げることができるのは天地万物を造られたお一人の神だけです。そのことを知っている弟子たちがイエスをここで礼拝しているのですから、彼らがイエスを真の神であると信じていたことがここから分かります。そしてイエスを天に見送った後に彼らは大喜びしてエルサレムに帰っていきました。それは「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえるため」、神様に礼拝を献げるためであったと言うのです。

(2)イエスを通して神を知る

 イエスの昇天は彼らを喜びに満たし、絶えず神殿礼拝せずにはおれない者としたのです。神殿で神様に礼拝を献げることは彼らにとって子供のときから守って来たあたりまえの行為であったに違いありません。しかし、この時の弟子たちにとってはその礼拝は依然と変わらないように見えて、全く違ったものだったのです。なぜなら彼らは自分たちが信じてきた神こそ、イエス・キリストご自身であったと言うことを主の昇天を通して知ったからです。確かに彼らは子供のときから神様について教える聖書の言葉を耳にし、またそれを信じてきました。しかし、今はその聖書の言葉は彼らにもっと確実に、また身近なものとなったのです。なぜなら、イエスはご自身を通して彼らに豊かに真の神の姿を示されたからです。
 私たちのために御子を送り、私たちの罪を赦すためにこの御子を十字架につけた神は、その御子を通して私たちの上に豊かに救いの御業を実現してくださるのです。
 かつてイエスは神を知りたい、神をこの目で見たいと願った弟子たちに対して「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14章9節)と語られました。私たちはこのイエスを通してはっきりと神を示され、その愛に触れたのです。ですからこのイエスを知る私たちにとって神様に礼拝を献げると言うことは、大きな喜びなのです。このようにイエスの昇天は私たちがイエスを通して神様を知ることができたことを教えるのです。

【祈祷】
天におられる父なる神様
 イエス・キリストの昇天を通して、私たちに示された恵みに感謝いたします。私たちのために救いを完成し、その救いを聖霊を通して、また教会を通して地上に実現してくださるあなたを、私たちが証しすることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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