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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「キリストの霊を持つ者に」

(2010.05.23)

聖書箇所:ローマの信徒への手紙8章8〜17節

8 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
10 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となっています。
11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
12 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。
14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

1.私たちも霊を持っているのか
(1)私たちにも起こりうること?

 今朝はイエスが約束された聖霊が弟子たちのところに訪れたこと記念する聖霊降臨日、ペンテコステの礼拝です。礼拝の最初に読みました使徒言行録の記事はこの出来事を私たちに伝えています。この記事を読みますと、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(2章2〜4節)と言うような大変に驚くべき出来事が弟子たちの上に起こったと言うことがわかります。
 もちろん、この使徒言行録の記事の意味を説き明かすことはとても大切なことです。ただ率直に言ってこの聖書の記事を読むと、私たちはそこに起こった出来事と私たちが普段、送っている信仰生活とは大変に違っていると思えます。なぜなら、私たちのほとんどはこんな不思議な現象を自分で体験したことはないからです。そこで考えるのは、どうして自分たちはこの弟子たちと同じ信仰を持っているのに、同じような体験をすることがないのかと言う疑問です。また、中にはここに記された出来事と同じような体験をしなければ本当の信仰を得たことにならないと考える人もいるのです。しかし、そう考えていろいろな努力をしても、やはりこのときの弟子たちと同じような出来事を経験することは私たちにとって難しいと思います。
 それではこの聖霊降臨の出来事はこのときの弟子たちだけに起こった特別な出来事と考えるべきなのでしょうか。私たちの信仰生活には全く関係のない過去の出来事と考えてよいのでしょか。この質問に対して私たちは二つの答えを準備する必要があると思うのです。確かに私たちはこのときの弟子たちのように聖霊の働きによって突然、今まで習ってもいない外国の言葉を話し出すことはないと思います。しかし、このとき、弟子たちに与えられた聖霊は、今信仰生活を起こっている私たちの上にも確かに与えられているのです。聖霊の働きが私たちの信仰生活にどのように表れるかと言う点では、私たちとこのときの弟子では大きく違っています。しかし、聖霊が私たちの信仰生活の中に働き、私たちを導いてくださっていると言う点では、私たちとこのときの弟子たちの間にはほとんど違いがないのです。私たちはそのことについて使徒パウロが記したローマの信徒への手紙から今日は考えてみたいと思います。

(2)キリストの霊を持つ者がキリスト者

 このローマの信徒への手紙は使徒パウロがローマに住んでいるキリスト者たちに書き送った手紙です。このときパウロはまだローマに行ったことがありませんでした。パウロの計画では是非、ローマに行ってそこで働きたいと言う願いがありました。しかし、それはまだ実現していなかったのです。そこでパウロはローマの信徒のために、キリスト教信仰についての大切な教えをこの手紙に綴ったのです。
 このローマの信徒への手紙を解説することは、説教者にとってとても大切なことだと言えます。しかし、それだけにこの手紙を解説するためには慎重で、十分な時間を用いなければなりません。この手紙の要点を一口で語ることは不可能ですし、それは乱暴なことだと言えるのです。しかし、今日呼んでいる箇所を理解するためにあえてその冒険をするとしたら、パウロはこの手紙の中で私たちの救いが100パーセント神様の御業によることを語っています。そこには不完全な人間の努力や功績が全く入り込む余地がないと言っているのです。誰も極上のワインに水を足すような愚かなことはしないと思います。それではワインの味は台無しになってしまいますし、その価値を失ってしまいます。私たちの救いに神様の御業以外のもの、私たちの努力を付け足すことは、これと似ていると言えます。それでは神様の御業の完全さが損なわれてしまうのです。
 しかし、それではこの神様の救いの前で不完全な私たち人間は、そのままなのでしょうか。神様の救いは私たちと全く違った場所で私たちと無関係に実現すると言えるのでしょうか。そうではありません。この神様の救いの御業は、この不完全な人間に働きかけ、私たちをやがて完全なものにしてくださるのです。この神様の救いの御業が私たちの上にどのように実現するかと言うテーマは、神学の中では「救済論」と言う名前で取り扱われます。そしてこの救済論の主役も、私たち人間ではなく、神様ご自身であり、もっと詳しく言えば、今日私たちが取り扱おうとしている聖霊の働きなのです。つまり、この聖霊の働きがなければ素晴らしい神様の救いの御業も、私たち自身とは全く関係のないものになってしまうのです。そこで今日の聖書の箇所でパウロは「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」と語っているのです。
 だいぶ前に、ある人が私に自分の職場の同僚を紹介する際にこんなことを言われました。「この人、クリスチャンではないのに、私よりクリスチャンらしいのですよ」。神様を信じていないのに、クリスチャンらしいと言うのはおかしな表現だなと私はそのとき思いました。おそらく、その人は自分の友人が誠実で、愛情に満ちている人だと言うようなことを伝えたくてそう言ったのかもしれません。しかし、聖書はキリストを信じていないものは、キリスト者ではなく、キリストの霊を持たないものはキリストに属する者ではないとはっきり断言しているのです。 

2.私たちを死から救い出す霊

「肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます」(8〜9節)。
 聖書では「肉」と「霊」と言う二つの言葉が対照的に取り上げられて表現されることが多くあります。私たちは「肉」と言うと「肉体」とか、その肉体に備わった「本能」と言ったようなものを想像しがちです。しかし、聖書の語る「肉」にはもっと大切な意味があるのです。それは神様に敵対して生きる人間の性質、そのためいつも自己中心に生きている私たち人間の姿を語っていると言うことです。そしてこれとは対照的に「霊」とは、神に従う生き方、何をするにも神様を中心にして考える生き方を表現しているのです。
 それではどうしたら、私たちはこの「肉」の支配から解放され、「霊」的に生きることができるのでしょうか。パウロはここではっきりと言っています。神の霊、つまりキリストの霊がその人の内に宿っているなら、その人は霊の支配下にあり、霊的に生きることができると言うのです。そしてここで語られている神の霊、キリストの霊こそ、私たちが今日、考えている「聖霊」のことだと言えるのです。
 私たちが肉の支配つまり、神に敵対して生きる生き方を続けている限りでは、そこには死と滅び以外のものは待っていません。しかし、ひとたびこの聖霊の働きを受け、信仰生活に入り、神に従う生活を始めた者は、「体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となっている」のです。つまり、私たちにとってこの肉体の死は終わりではなくなるのです。聖霊が私たちに与えてくださる命は、私たちを永遠に生かものだと言っているのです。

3.私たちに与えられた義務
(1)いやいやする義務ではない

 このように私たちを神様に従う者と変え、私たちの死ぬべき命、生きるものと変えてくださった聖霊は、私たちの信仰生活を導いてくださる方だと言えるのです。ですから、私たちは安心してこの聖霊の御業に委ねて生きればよいと言うことになるのです。しかしパウロはここでそれだけで終わらせるのではなく、この霊の支配下に生きる者には「義務がある」と教えています。
 私たちはどうも「義務」と言う言葉を聞くとあまりよい気持ちにはなれないところがあります。なぜなら「義務」と聞くと、本当はしたくないけれど、それをしないと罰せられるから仕方なくすると言うようなことを想像するからです。かつては日本にも徴兵制度と言うものがあって、成人になった男性は一度は兵役につく義務がありました。戦争に行って、人を殺したいとは誰も思ってはいません。しかし、それは義務であり、それを果たさなければ自分が牢屋に入れられてしまうから仕方なく、兵隊になり、戦争にかり出され、人に銃口を向けなければなりませんでした。むかしのことではなくても、私たちはたとえば税金を払うことでさえ快く思っていないところがあります。しかし、それは国民に与えられた義務ですからしなければなりません。それではキリスト者にもこのような義務があるとパウロは言うのでしょうか。
 私たちがその義務を考える際に忘れてはならないのは15節の言葉だと思います。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」。今の私たちは違うのですが、かつては私たちも奴隷として生きていた、むしろ脅迫されながら、恐れに満ちた中で不自由な生活を送っていたとことをパウロは語っています。従わないと怖いので、肉が求める義務を果たさなければならなかったのがかつての私たちだったのです。
 ところがキリストに救われて、キリストの霊が宿る私たちの生活は今はそうではないと言うのです。そしてそこで求められる義務も、恐怖によって縛られて、いやいやするものでないと言うのです。パウロが私たちに教えようとする義務は、人が嫌々したがなければならない義務ではなく、むしろキリストに救われた者として自由な立場から、喜んですることができる義務だと言っているのです。

(2)「アッバ、父よ」と呼ばせてくださる聖霊

 それではキリストに救われている私たちに与えられた義務とはなんでしょうか。それは聖霊の支配に従い、喜んで神様に仕えることです。そのことをパウロはこのようにも語っています。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」(13節)。

 私たちの信仰生活の中でいつも問われて来るものは、「神様が望まれることは何か」と言うことではないでしょうか。信仰生活の中で私たちはそのことを第一に考え、聖霊に従って、神様が喜ばれる道を歩むことを求められています。確かにこれは私たちにとって楽な決断ではありません。だからパウロはこの箇所の最後のところで「キリストとともに苦しむ」と言う表現を用いているのです。肉が支配する世に従うより、神様に従うと言うことは苦しみを伴う難しい決断であり、行動です。しかし、パウロはそれによって私たちは「栄光」を受けることができると言うのです。
 私たちに与えられている信仰の戦いは、無意味なものではありません。なぜならその戦いは私たちを死から命へと導き、私たちに神様の栄光を受け継がせるものとなるからです。そしてその戦いを内にあって導いてくださるのが、私たちに与えられた聖霊の働きです。
 それでは、この聖霊が確かに私たちの内に宿ってくださっていることをどこで私たちは確信することができるのでしょうか。パウロはここで言っています。「この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」(15〜16節)。それは私たちが既に、神様を父と呼んで信じ、従っているところに表わされていると言うのです。
 むかし、牧師になる者が健康診断書を教会に提出することは必要かどうか、ということで神学生仲間内で議論したことがあります。一人の人が「たとえ色々な病気を持っていても頭がまともであると分かれば、それでいいのではないか」と言い出しました。するとその話を聞いていた私たちの大先輩の牧師が笑いながら「まともな奴が、牧師になろうなって思うかな」と言われたことを思い出します。
 世の中に通じる損得勘定から考えれば、神様に従うなどと言う生き方は愚かなものでしかないと思います。しかし、私たちがその愚かなことを今、必死になって、願い、そのために努力しているのはこの霊が私たちの内に確かに宿っているからなのです。このような意味で、私たちもまたペンテコステの出来事を信仰生活の中で経験していると言えるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 ペンテコステの日に弟子たちの上に聖霊を送ってくださったあなたが、私たちにも同じように聖霊を与えてくださることを感謝いたします。聖霊なる神は私たちを導き、この世の中にあっても神様に従う信仰を与え、私たちを死と滅びの力から守り、永遠の命へと導いてくださることを感謝します。私たちがこの聖霊の働きに信頼し、この信仰の戦いを戦い抜くことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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