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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「神の愛を注ぐ聖霊」

(2010.05.30)

聖書箇所:ローマの信徒への手紙8章8〜17節

1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

1.「平和」そして「希望」
(1)有名な言葉

 今日も使徒パウロが記したローマの信徒への手紙から学びます。この聖書箇所を学ぶために開いた解説書の一つで私がびっくりしたことがありました。日本でも大変に有名な神学者の方がこのローマの信徒への手紙を一般の方々にもわかりやすいように記した書物なのですが、何とこの5章の最初の部分は、「何の解説も付けずにそのまま読むのがいい」と言って、本文をそのまま転載しているのです。その後、5章12節以下から「ここからは解説が必要」と解説が再開されているのです。この神学者に習ってこの礼拝で、「ただこの本文を皆さんで読むことにしましょう」となればたぶんすぐに礼拝は終わってしまいます。有名な神学者が言うならともかく、私がそれをすれば怠慢と言うことになってしまうので、この箇所についてのお話を少ししたいと思います。
 私たちもこの箇所を読んですぐ分かるのかどうかは別として、確かにこの箇所には私たちの心に残る印象深い言葉が記されていると思います。「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」(1節)。神様との間に成り立つ平和、この言葉を使ってアメリカの有名な説教家ビリー・グラハムは大変に有名な本を記しました。また、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と言う言葉もとても有名で、もしかしたら皆さんの中にもこの言葉を愛唱聖句としてそらんじることができる方もいるのではないでしょうか。ここには私たちが求めてやまない「平和」や「希望」と言う言葉が登場します。私たちは自分の生活の中で絶えず「平和」を求め、また「希望」を捜していると言えます。しかし、聖書はここで真の「平和」や「希望」は私たちが懸命になって獲得するものではなく、神様からの贈り物、恵みであると語っているのです。聖霊なる神はそれらの贈り物を私たちの信仰生活に届けてくださるとパウロはここで教えているのです。

(2)私たちの誤解

 ところでこの聖書が語る「平和」や「希望」について学ぶ前に、私たちがいつも考えている「平和」や「希望」とはどのようなものなのか、そのことについて少し考えてみましょう。まず、私たちが知っている「平和」は非常に壊れやすいものだと言うことができるのではないでしょうか。そのため、私たちはそれを壊したり、奪おうとする出来事や人物を恐れて生きなければなりません。この聖書の部分では「苦難」と言う言葉が登場します。パウロはここで「苦難をも誇りとします」と言っていますが、私たちが苦難を恐れたり、回避したいと何時も考えるのは自分たちの持っている平和がその苦難によって簡単に破壊され、奪われてしまうと思っているからです。それではどうして、私たちの持っている平和はこんなにももろく、壊れやすいものなのでしょうか。答えは簡単で、その平和は私たち自身が作った平和だからです。だからこそそれは不完全で、長続きのしない平和なのです。
 そしてもう一つ考えてみたいのは「希望」と言うテーマです。この希望についても、私たちは様々な問題を持って生きています。閉塞感に襲われている現代社会では、多くの人々がこの希望を失い、生きる力を無くしています。ある有名な心理学者は自分が入れられた強制収容所での体験を通して、「人間は希望がなければ生きてはいけない」と語っています。かつて、戦後の日本を再建しようと考えた人々は日本が経済的に豊かになることを夢見て、必死の思いで努力してこの日本を作り上げました。彼らはその希望に支えられて困難な時代を生きたのです。しかし、その人々によって作り出された現代社会において、返って多くの人々が希望を失いかけていると言う問題が生じています。私たちを支える「希望」とはいったいどういうものなのでしょうか。そしてその「希望」をどうしたら私たちは手に入れることができるのでしょうか。

2.信仰による義=神から与えられた平和
(1)信仰による義

 結論から先に言えば、パウロがここで論じている「平和」や「希望」は人間が作り出したものではなく、神様が私たちに与えてくださるものなのです。だから、私たちが考えている「平和」や「希望」と違って、それは壊れることなく、私たちから決して奪われることがないのです。むしろ、その「平和」や「希望」は苦難の中で私たちを支えることができるものだとも言えるのです。
 それではこの「平和」や「希望」は神様から私たちにどのように与えられたものなのでしょうか。パウロは次のように語っています。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから」(1節)と。

 「信仰によって義とされる」、神学用語では「信仰義認」と呼ばれる主題を明確に語ったのがこのローマの信徒への手紙だと言われています。「わたしたち人間は信仰によって神様の前で義とされる、つまりただしい者とされる」と言うテーマをこの手紙で強調して論じているのです。ところがこのパウロの言葉を読んで「なるほど私たちには信仰が大切なのだ。だから神様から失格者として取り扱われないように信仰を頑張らなければ」と考える人がいます。しかし、そう考えてしまうとこのローマ信徒への手紙を書いたパウロの意図は全く理解されていないと言うことになりかねないのです。なぜならこの手紙の中でこの「信仰による義」に対立して取り上げたれているのは「行いによる義」と言うテーマで、この「行いによる義」と言う考え方こそ「自分は一生懸命頑張らないと失格者になる」と主張するからです。「行いによる義」は人間は神様に喜ばれることを一生懸命がんばってして、それによって初めて神様から「ただしい者」と認められると教えます。実はイエスが地上にやって来られたときにユダヤ人が信じていたものはこの「行いによる義」であって「信仰による義」ではありませんでした。
 「信仰による義」とは私たちを「ただしい者」としてくださるのは神様であって、私たち自身ではないと言うことを語る言葉です。私たちは私たちに向けられた神様の一方的な恵みによって義とされるのであって、そこには私たちの行う業や、資質は全く関係してこないのです。そして、その神様の恵みを受け取るのが「信仰」なのです。だから、ローマの信徒への手紙の語る信仰は、それを受け取るのか、受け取らないかを決めるような私たちの心の姿勢であるとも言ってよいのです。

(2)神との平和

 パウロは続けて語っています。

 「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」(1節)。

 「義とされる」、「ただしい者と認められる」という言葉は元々裁判で使われている法廷用語から由来しています。私たちは神様の法廷で無罪判決を受けることができたのです。これが「義とされる」と言う言葉の意味です。それではどうして私たちはこの法廷で無罪判決を受け取ることができたのでしょうか。神の御子イエス・キリストが私たちに代わって有罪判決を受けて、その刑罰を肩代わりしてくださったからです。私たちが何か努力したのではなく、神様が私たちのために救いの手をさしのべてくださったのです。だから、私たちは今や、ただしい者と見なされているのです。
 ところで、それによって私たちに与えられ平和とはどのようなものでしょうか。私たちはもはや、神様に裁かれることはありません。神様の子供としての取り扱いを受けることができるのです。その神様と私たちとの親しい関係を語るのがここで言う「神との間の平和」なのです。だから私たちはこれからは神様の裁きを恐れる必要はありません。その恐れから解放されているのです。そしてそれが私たちにキリストによって与えられた平和の正体なのです。更に私たちに与えられたこの神との平和は、私たちの日常生活にも影響を与えます。なぜなら、私たちの父として私たちのために御業を行ってくださる神は、私たちの人生に最もよきことを与えてくださると信じることができるからです。
 そこでパウロは続けて語ります。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」。神が私たちの味方となってくださるなら、その神が栄光を受けになることこそ、自分たちにとっての最大の希望、また「誇り」であると語ります。この「誇り」と言う言葉は「喜び」とも訳してよい言葉ですから、パウロは神の栄光にあずかる希望を自分の喜びとしていたと言うことになります。

3.苦難が希望に
(1)苦難を経験したパウロ

 そしてパウロはこの神の栄光にあずかる希望について別の観点から次のように語るのです。
 「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(3〜4節)。
 パウロはここで神の栄光にあずかる喜びと共に、自分に苦難が与えられることも誇り、つまり喜びとしていると語ります。「苦難を喜ぶ」、もちろん言葉だけなら簡単に誰でも言えるものかもしれません。しかし、本当の苦難を知っている人は、そんな言葉を簡単に言うことはできません。ところがパウロは、使徒言行録やパウロの書いた書簡を通して分かるように、本当に様々な苦難にであった人であると言えるのです。パウロの記したコリントの信徒への手紙二にはその目録のようなものが書かれています。
 「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。25 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります」(11章23〜28節)。
 パウロは本当の苦難を知っている人でした、その苦難を知っている人が「苦難を喜ぶ」と言っているのです。どうしてパウロにとって苦難が喜びとなったのでしょうか。パウロは言います。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」。

(2)苦難から生まれる忍耐、練達、そして希望

 まず苦難は「忍耐」を生みます。「忍耐」とは苦難に際しても、前を向いて歩もうとする心の姿勢のようなものと言っていいかもしれません。しかし、このパウロの語る忍耐はこの世が教える「忍耐」とは大きく違うところがあります。なぜなら、この忍耐はパウロの信仰と深く結びついているからです。どんな苦難が襲っても、神様の約束が必ず実現すること、それを信じているからこそパウロは「忍耐」ができたのです。パウロの忍耐は彼の頑強な性格から生まれたと言うより、神様の確かな約束があってこそ生み出されるものだと言えるのです。
 つぎに「忍耐から練達が生まれます」。広辞苑で「練達」は「熟練して精通すること。物事になれて奥義に達したこと」と言っています。また聖書の解説書ではこの練達は「苦難によって姿を現した特質」と説明されています。今までは隠れていたものが苦難を通して明らかになる、それが「練達」と言うことになります。それでは苦難を通して何が明らかになるのでしょうか。このことについてパウロは先程取り上げたコリントの信徒への手紙第二の最初のところでこんなことを語っています。

 「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」(1章8〜9節)。

 「自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」。これが苦難を通してパウロの生涯で明らかになったことだと言うのです。もちろん、神を頼りにすることをパウロはそれまでも知っていましたし、人にも教えて来たはずです。しかし、それが本当に分かったのは苦難を経験したからこそだとここでパウロは言っているのです。
 確かにパウロが言うように、苦難を通してまず私たちが知ることは、今まで自分が頼ってきたものが本当は頼りにならないと言うことです。しかし、そこで私たちは絶望してしまうことはありません。なぜなら、そのような苦難の極みにおいて私たちを支える方を私たちは知らされているからです。だからパウロは「練達は希望を生み出す」と語ります。つまり、このパウロが語る希望とは神ご自身であることが分かるのです。この神様は私たちを裏切ることは決してありません。

(3)御霊によって注がれる神の愛

 「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。パウロはここで聖霊の働きに言及します。どうして、私たちはこの地上の生活の中で神様を頼りにできるのか、どうして私たちにとって神の栄光にあずかることが誇りであり、喜びとなるのでしょうか。普通の人間にはそんなことは分かりません。またどんなに努力しても、そのような喜びを得ることもできません。しかし、私たちは既にイエス・キリストが遣わしてくださった聖霊を宿している者です。その聖霊が私たちの信仰生活の中でこの確かな真理を私たちに教えてくださっているとパウロは語るのです。聖霊はイエス・キリストを通して表わされた神の愛を日々、私たちに注いでくださると言っているのです。この愛を注がれているからこそ私たちは苦難の中にあってもパウロと同じように、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことは(何者にも)できないのです」(ローマ8章39節)と告白することができるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 私たちが長い間、探し求め、しかも得ることができなかった真の「平和」、そして「希望」をイエス・キリストによって与えてくださったあなたの恵みの御業を心から感謝します。この恵みを喜んで受け入れる信仰を私たちに与えてください。そしてその恵みのすばらしさを苦難を通しても、聖霊によって与えられるあなたの愛によって知ることができるように導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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