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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「すべての人の飢えを満たす」

(2010.06.06)

聖書箇所:ルカによる福音書9章10〜17節

11b〔そのとき、イエスは群衆に〕神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。
12日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」
13しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」
14というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。
15弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。
16すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
17すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

1.困り果てる弟子たち
(1)無理な命令

 教会暦では今日の礼拝は、私たちが毎月礼拝の中で守っている聖餐式についてその意味や、そこに示された神様の恵みを思い起こすための日とされていて、それと関連した聖書箇所が指定されています。つまり、今日の聖書箇所に登場する五つのパンと二匹の魚によるイエスの物語は、私たちが守っている聖餐式と深い関係があると考えられているのです。それではこの物語と聖餐式はどのように関係するのか、その関係を突き止めることを目標に私たちはここに記されたイエスの物語を学びたいと思います。
 まず、第一にこの奇跡とこの物語が記されている聖書の前後関係の箇所とのつながりから考えて見ましょう。9章の始めにはイエスによって神の国を宣べ伝えるために12人の弟子たちが伝道旅行に遣わされた記事が収録されています(1〜6節)。ここでイエスはこれから伝道に遣わそうとする弟子たちに「「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」(3節)と言う大変有名な指示を与えています。
 そして今日の箇所は10節を読むと分かりますが、「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた」と書かれているように、この伝道旅行から弟子たちが帰還した直後に起こったことがわかるのです。「旅行には何も持っていくな」とイエスに言われて旅立った弟子たちが、そのすぐ後でイエスに導かれ、今日の物語のような体験をすることになりました。つまり、弟子たちはこのとき、旅から帰って来てすぐにイエスに従ったので、まだ何の準備もしないまま、もちろん金も食事も着替えさえも持っていなかったとのだと想像することができるのです。その弟子たちに対してイエスは5000人もの空腹を抱えた人々のために「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)と語られたのです。「何も持って行くな、何も準備するな」と言われていた彼らがここでは急にイエスから「5000人の人々のために食事を準備しないさい」と言われているのです。これは到底無理な命令ではなかったでしょうか。イエスが弟子たちに「もしものときのために、いつでも非常食を準備していなさい」と言われていたならともかく、その逆の指示をイエスから受けていた弟子たちに「彼らの食べ物を何とかしてやりなさい」と言われているからです。

(2)弟子たちが体験したもの

 この聖書箇所を解説する本の一つを読んでいて、私が「なるほど」と思ったことがあります。それはこの伝道旅行から返ってきた弟子たちの姿を示した言葉です。その弟子たちの姿を福音書はこう告げています。

 「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた」(10節)。

 彼らは旅先で自分が何をしたかについて、自分に何ができたかについてイエスにここで詳しく報告したと言うのです。そしてこのときの弟子たちの関心は自分にできたこと、自分が行ったことにあってと言うのです。おそらく彼らはその自分をただしく評価してほしいと言う願いで、イエスにこの報告したのです。「お金も食べ物も着替えもあなたの命令のように持っていきませんでした。しかし私たちはがんばったので、何とかご命令通りのことができました」と弟子たちはイエスに報告したのかもしれません。
 しかし、この彼らの報告には大切なことが抜け落ちてしまっていたのです。「何も持っていかなくても、なんとかできた」と言うのではなく、むしろ何も持っていかなったのに、神様に豊かに助けられたので伝道の使命を達成することができたのです。つまり、彼らが報告すべきだったのは自分がしたことではなく、神様が彼らにしてくださった数々の恵みだったのです。しかし、彼らはそれを忘れて自分に何ができたかだけに関心を持って、イエスに語ったのです。そこでイエスは彼らを更に訓練する必要を感じて、今日の物語の出来事へと導かれたのです。
 「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)。このイエスの言葉に促されて弟子たちはこのとき初めて「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」(同節)と自分たちがぶつかっている問題に対して、自分たちの力は何の役にも立たない、無力であると言うことに気づかされているのです。
 深刻な問題の前に自分の無力さを痛感すると言う経験を私たちもすると思います。しかし、どうして私たちがそこで絶望せざるを得ないのかと言うことを考えるなら、確かにそこでも私たちは自分の力ばかりに関心を持ち、自分の力だけを頼っているからではないでしょうか。イエスはそのような私たちをあえて困難な出来事へと導かれます。そしてそこで私たちが自分の力ではなく、神様の力を頼りにすることを求められるのです。それでは弟子たちはこの困難な出来事の前で、手をこまねいているだけなのでしょうか。そうではありません。イエスはここで弟子たちが持っていた五つのパンと二匹の魚を受け取られました。私たちも同じように、私たちが持っているだけでは私たちの無力を示す象徴でしかないものを、神に委ねるのです。そこで、私たちは自分の力ではなく、神様の偉大な力を体験することになるのです。

2.イエスによって満たされた人々
(1)「増えた」とは言わない

 イエスは5000人の人々に飢えを満たすためには何の役にもたたないと思われたような五つのパンと二匹の魚を使って、5000人の人々を養い、彼らの空腹を満たしました。このお話の結論には「すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」(17節)となっています。五つのパンと二匹の魚が5000人の空腹を解決し、なおその残りのパンくずが十二籠にいっぱいになったと言うのです。これはイエスの御業によって明らかに五つのパンと二匹の魚が奇跡的に増えたと言うしなかない報告です。しかし、ここも聖書学者の解説を読んでいて興味深かったのですが、福音書記者はここでパンが増えた、魚が増えたと言うように「増えた」と言う言葉をここで一度も使っていないのです。確かにここではパンと魚が増えていないとおかしいのです、しかし福音書記者はそれが「増えた」とは書き記していないのです。つまり、福音書記者とってパンと魚が「増えた」のかどうかは関心の的ではなかったことがわかるのです。ここではパンと魚が増えたか増えなかったかは問題ではなく、むしろイエスの手を経たとき五つのパンと二匹の魚が5000人の人々の必要を満たすことができたと言うことが大切であり、そのことを福音書記者はここで語ろうとしたと言うのです。

(2)量が増えても解決はしない

 数日前にテレビを見ていて、地球の環境破壊に関する話題を取り上げている番組が放映されていました。そこで興味深かったのは中国のある地方では、自分たちが毎日、飲む水にも事欠き、彼らにとっては自分が自由にできる水があることが豊かさの象徴であり、また幸せを生み出すものだと考えられていると言うのです。ところが、その直後に取り上げられた南太平洋のある島の人たちは、かつて島が持っていた資源によって豊かさの頂点を味わいながら、今はその資源が枯渇して生活苦に陥っているという報告が取り上げられています。島の周りは太平洋ですから、そこに出て行けば魚が捕れます。また小さくても自分の家の庭を耕せば、自分たちが食べられるだけの野菜を栽培して生活することができます。しかし、一度豊かさの頂点を体験した人々はそんな暮らしに満ち足りことができません。どんなに貧しくなっても、ファーストフードを食べ糖尿病になり、「車がないと不便だ」と言い、「また世界旅行をしたい」と言っては今の暮らしを最悪だと考えているのです。
 満ち足りると言うこと、満足すると言うことは決して量の問題ではないのです。だから福音書記者はここで「増えた」と言うことには関心を示さないのです。むしろ、イエスこそが人々を満ち垂らせることができる方であることをこの聖書は教えていると言っていいのです。

3.イエスによって実現した神の国
(1)神の国の実現を示す物語

 さて、それではこの箇所で取り扱われているイエスの行われた奇跡は私たちにいったい何を教えようとしているのでしょうか。このことについてある聖書学者はルカの福音書の記述の特徴を示しながら二つのことを語っています。
 実はこのパンと魚によって群衆の飢えを解決したと言う奇跡物語だけは、四つの福音書が共通してとりあげているただ一つの物語なのです。その意味では教会にとってとても大切な物語だと言えるのです(マタイ14章13〜21節、マルコ6章30〜44節、ヨハネ6章1〜14節)。ご存知のようにそれぞれの福音書記者は同じ出来事を紹介するときにも、それぞれ違った視点を持ってその出来事を記述しています。特にこの五つのパンと二匹の魚に関する物語では、おそらくルカが自分の記す福音書を作る際に参考にしたとされるマルコによる福音書はイエスが群衆を見て「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれた」(6章34節)ことや、群衆を組に分けて「青草の上に座らせるように」(同39節)命じられたと言う言葉が記されています。これはマルコがこの物語を通してイエスこそ約束の民を導く真の牧者であることを説明したかったと考えることができるのです。
 それに対してこのルカの関心は「この人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」(11節)と記されているところから、イエスの活動の目的が神の国を語り伝えることであり、そこで伴われた病人を癒す行為はこのイエスによって既に神の国が訪れたことを証しするものだと考えられているのです。そして、この五つのパンと二匹の魚の物語の目的もイエスによってもたらされた神の国の祝福を私たちに伝えるためのものだったと考えることができるのです。

(2)神との親しい愛の関係

 「神の国」、それはイエスの福音の内容そのものと言っていいものです。それは私たちが死んだ後に行く「あの世」のようなところを言っているのではありません。むしろ、私たち信仰者は既にこのイエスによって神の国に生きる者とされているのです。そしてこの神の国に生きる者には、神様から様々な祝福が与えられています。しかし、その中でももっとも大切なことは、私たちが真の神との親密な愛の関係の中に生きることができるようになったと言うことではないでしょうか。実は聖書の中で食事を共にすると言うことはこの親しい愛の関係を象徴する行為として記されているところが多いのです。聖書を読むとイエスは弟子たちとよく食事を共にされています。「イエスと弟子たちはいつも一緒にいたからそれは当然ではないか」と言えるかもしれません。しかし、この食事はイエスが弟子たちを愛した、その愛が形として示される行為であったと言えるのです。
 私たちが今日も参加する聖餐式の意味はこの神様との親しい愛の関係を表わしています。この聖餐式に参加する私たちは神に愛されていることを確信することができるのです。なぜなら、この聖餐式で出されるパンとぶどう酒が指し示すキリストの肉と血が私たちの犠牲として献げられたために、私たちはこの神様との関係を回復され、神の国に生きる者とされたからです。

(3)この方こそキリスト

 もう一つ聖書学者たちがここで注目しているのはこの物語を挟んで登場する二つの物語の役割です。この物語の直前にはガリラヤの領主ヘロデがイエスの噂を聞き、「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は」(9節)とヘロデがイエスのことをただしく理解できなかったことが記されています。一方、この物語のすぐ後の箇所ではイエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と言う問いに促されて、ペトロが「神からのメシアです」と答えた記事が登場します(20節)。この前後関係を考慮するとき、今日の物語は弟子たちがイエスを「神からのメシア」、つまりキリストであるとただしく告白するために行われたものであると考えることができるのです。
 人はキリストに対して様々な期待を抱きます。多くの人々はこのキリストを通して自分の願望が実現されることを願い求めます。そして、それを実現できる者こそ「キリスト」であると考えてしまうのです。しかし、私たちの持つ願望が実現しても、それは決して私たちの心を満たすものとはなりえません。しかし、イエスはそのような私たちを本当の満足へと導く方なのです。それでは私たちを満ち足りさせるものとはいったい何なのでしょうか。それがこのイエスによって実現された神の国であり、そこで成り立つ神様との親しい愛の関係なのです。この物語は、イエス・キリストが私たちにもたらしてくださる神の国の祝福が何であるかを私たちに教え、その祝福を実現してくださる方はこのイエス・キリスト以外にはおられないことを教えているのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 イエス・キリストの救いの御業により、神の国に生きる者とされた幸いを感謝します。その証拠として私たちはこの礼拝にあずかり、また聖餐式を通してその祝福を確信することができます。ほおっておくと、自分のことだけに関心をむけてしまう私たちです。そして自分たちの無力さに絶望する私たちです。どうか自分に向けられた関心をあなたに向けることができるようにしてください。
主イエス・キリストのみなによって祈ります。アーメン。
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