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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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  「死と復活の預言」

(2010.06.20)

聖書箇所:ルカによる福音書9章18〜24節

18イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
19弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
20イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
21イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、
22次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
23それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
24自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」

1.信仰告白の意味
(1)奇跡を経ても無理解な群衆

 私たちは先日の礼拝で、イエスが五千人の人々に五つのパンと二匹の魚から食事を与えられた奇跡について学びました。今日のお話はこのすぐ後に起こった物語です。すでに学びましたように、この五つのパンと二匹の魚の奇跡はイエスがキリストであるということを理解させるために、またイエスはキリストとして私たちにどのような救いを実現してくださるかを教える意味がありました。ところが今日の個所を読んでみるとこのイエスのなされた奇跡を体験したはずの群衆たちがイエスについてどのように考え、うわさしていたかが弟子たちの口を通して語られています。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます」(19節)。この言葉とこの奇跡が行われる以前にガリラヤの領主ヘロデの口を通して語られたイエスについての群衆のうわさを比べると全く同じであったことがわかります。ヘロデも群衆の噂について次のように語っています。
「ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った」(7〜9節)。
ヘロデはイエスについて人々は洗礼者ヨハネの生まれ変わり、また旧約聖書に登場する有名な預言者エリヤの再来であるとか、他の預言者が生き返ったのだと噂を聞いています。つまり、群衆のイエスに対する考えは五つのパンと二匹の魚の奇跡を体験した後も、それ以前と全く変わっていなかったことがわかるのです。
これはイエスの行われる奇跡を体験することが、イエスを正しく理解するための決定的な要因とは考えることができないということを意味しています。聖書の中でユダヤの群衆はイエスに何度も「自分たちにしるしを示せ」、「奇跡をおこなって自分のことを証明してみよ」と迫る場面が登場します。ところが、そのようなときイエスはその人々の要求に答えることに否定的な態度を示しているのです。つまり、どんなにイエスによって驚くべき体験をしたとしても、頑なな人間の心はそのままでは変わらないと言うことを言っているのです。

(2)イエスの祈り

それでは私たちの心を変え、イエスについての正しい理解を促す決定的な要因は何なのでしょうか。今日の聖書はそのことについて次のように教えています。「イエスがひとりで祈っておられたとき」(18節)、この物語はこのイエスがささげられた祈りによって始っています。そして、このイエスの祈りの後に弟子の一人のペトロは「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」というイエスの発せられた言葉に答えて、「神からのメシアです」と答えているのです。「メシア」、それは神様のための特別な使命を担うために「油注がれた者」という意味であり、「救い主」という意味を持っています。ですからペトロはここでイエスに対して「あなたは私の救い主です」と自らの信仰を告白しているのです。そしてこのペトロの告白が生まれる背後にはイエスの熱心な祈りがあったと聖書は教えているのです。
今日のこの礼拝では一人の姉妹の洗礼式が行われました。この洗礼式も「あなたは私の救い主です」という信仰の告白を行うものです。今日、洗礼を受けた姉妹も、また先に洗礼を受けている私たちも、このペトロと同じように「あなたは私の救い主です」と自らの信仰の告白をし、洗礼を受けることができたのです。洗礼を受けるまでの道のりは人それぞれ違うものかもしれません。しかしどの人にも同じだと言えることは、まずイエスの祈り、イエスの私たちへの働きかけがあってこそ、私たちはイエスへ自分の信仰を告白し、洗礼を受けることができたと言うことです。そのような意味で、洗礼式とは私たちの人生を導いてくださっている主イエスの働きを確かに確信することができる時だと言えるのです。

2.日々、十字架を背負うとは
(1)省略された失敗談

 ところでこのペトロの信仰告白の物語はマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書が共通して取り上げている物語です。この三つの福音書ともペトロの信仰告白の後に、イエスがやがて受けるべき十字架の死についての預言をイエスは語られています。ところが、マタイとマルコではこのイエスの言葉をすぐに遮って弟子のペトロが「そんなことがあってはなりません」といさめ始めたという出来事を報告しています(マタイ16章22節、マルコ8章32節)。そしてこのペトロの行動に対してイエスは「サタン、引き下がれ」というような言葉を使って大変厳しく誡められているのです。
 ところが、このルカによる福音書はマタイ、マルコと同じようにイエスの十字架の死に関する預言を伝えながらも、その後にすぐ続くはずのペトロの行動を省略してしまっています。つまり、ここには「サタン、引き下がれ」と語ったイエスの言葉が記されていないのです。さらにイエスはこの十字架の死の予告をこの後も繰り返し弟子たちに語っています。その三度目の予告に伴って、弟子のヤコブとヨハネの兄弟が、自分たちを弟子たちの中でも特別に扱ってほしいという願いを語る場面が登場します。この物語はマタイとマルコによる福音書に記されているのに(マタイ20章20〜28節、マルコ10章35〜45節)、このルカは福音書の中では全く取り上げていません。ルカは弟子たちのこの失敗を記していないのです。おそらくこの福音書が書かれた当時、ペトロやヤコブ、そしてヨハネは初代教会の有力な指導者として活躍していたと考えることができます。そこでルカはこの指導者たちの不名誉になることはあえて書き記すことを避けたのではないかという推測も成り立つのです。

(2)十字架を負うことで、イエスを正しく知る

 ただ、これらのペトロやヤコブ、ヨハネの失敗物語を記さなくても、明らかにこの時点でイエスに対する信仰を告白した弟子たちも十分にはイエスを理解していたとはいえません。しかし、そのように簡単にはイエスを正しく理解することができない人々、私たちのような頑なな心を持った者たちに対して、「それではどうしたらよいか」というアドバイスをルカは省略することなくここで語っています。イエスは次のように語られました。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23節)。

 自らが十字架にかかることを預言されたイエスはここで弟子たちにも「あなたがたも自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と勧めています。この十字架は本来処刑の道具であって殉教の死を表す象徴であると言えます。そうなるとイエスは弟子たちに「あなたたちも私と同じように殉教の死を覚悟して従いなさい」と教えていることになり ます。確かにこのイエスの言葉に従って初代教会は、激しい迫害の中でたくさんの殉教者を出すこととなりました。有名な話では、ローマ帝国がキリスト教を公認し、長い迫害の時代が終わったときに、各地から教会のリーダーたちが集められてこれからの教会をどのようにして行くかという会議が開催されました。このとき集まった教会のリーダーの多くは激しい迫害の中で信仰を守り抜いた人々で、迫害の中で受けた拷問によって体に様々な障害を持つ人々がほとんどであったと伝えられています。当時の人々はこのイエスの言葉に従って「自分の十字架を負って」、イエスに従い続けたとも言えるのです。
 ところでこのイエスの「十字架を負う」という言葉が殉教の死と考えるなら、ルカがここで書き記した「日々」という言葉は文章の意味を不自然にさえるように思われます。「日々、殉教する」という意味ではおかしな言葉になってしまうからです。ですからルカはおそらくここで「十字架を負う」という言葉を私たちが信仰生活で体験する様々な試練に意味を広げて考えていると言ってもいいのではないでしょうか。信仰生活の中で体験する激しい試練は私たちが初めから望んだものではありません。むしろそれらは私たちにとっては不都合な出来事であると言えます。しかし、それを負いながら、神様に信頼して歩むこと、それがここで言っている「日々、十字架を負う」という意味になると言えるのです。
 イエスに対してもつ自分の期待に固執し、そこからしかイエスを理解しようとしない人は激しい試練や、困難に出会うと「これは私の考えていたことではない」、「イエスは私の救い主ではない」と判断し、イエスから離れて行ってしまいます。しかし、試練に出合いながらも、そこには神様の豊かなみ旨が隠されていると信じ、神様はこの試練を通して私たちを必ず救いへと導いてくださると信頼することがここで私たちに求められているのです。そしてそのような信仰を抱いて歩む者は、イエスが私たちのために準備されている真の救いの祝福を味わうことができます。そしてどのような意味でイエスが私たちのための救い主であるのかを正しく知ることができるのです。
 ですから「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という命令は、私たちが救い主イエスを正しく知るために必要な道であると言ってよいのです。

3.命を救い生き方とは
(1)目的を持つ人生

 さらにイエスは続けてこのように語っています。
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(24節)。
「わたしのために命を失う者は、それを救う」。これもまた殉教の死の勧めとも読むことができますが、前の節の言葉から考えるとき、ここでも同様な意味の言葉が繰り返し語られていると考えたほうがよいと思います。つまり、試練の中でも信仰を持ち続けることで、私たちが得ることができる祝福の道が繰り返し語られていると言えるのです。
イエスは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」と言われています。確かに私たちはいつも自分の命が無事に保たれることを願って生きています。健康をいつまでも維持して、長生きしたいと思っています。そのために病気を癒してほしいと願います。そしてそのような願いを私たちが抱くことは決して悪いことではないように思えます。しかし、ここで語られているのは「自分の健康を願ってはいけない」とか、「長生きしたいなどと思ってはならない」ということを意味しているのではないのです。むしろ私たちが与えられた命のときを何のために使うのかということがここで問題とされているのです。人生を何の目的も持たないまま、生きようとするとき、それは本当の意味で生きているとは言えるのでしょうか。むしろ、私たちの人生は目的があり、その目的のために自分の命を使うこと、もしかしたらときにはその目的のために自分の命が損なわれる危険があったとしても、その目的のために生きることが大切なのです。
カルヴァンは私たちが毎日曜日の礼拝で読んでいるジュネーブ教会信仰問答の最初部分で「私たちの人生の目的とは何か」と問いながら、それは「神様を知ること」であり(問1)、その目的を持って生きることが私たちにとっての最上の幸福だと教えています(問3)。面白いのは、この目的を知らずに生きる者は「野獣よりも不幸である」とカルヴァンが言っている点です(問4)。まさに、この目的を失って生きる人間は野獣にも劣る存在となると言っているのです。確かに野獣は自分の命を長らえるためには、日々努力を惜しみません。しかし、神様を知り、神様に従って生きることができるのは私たちに人間だけ与えられた特権であるといえるのです。

(2)命の価値は長さではなく、質

「死の準備教育」という学問のテーマがあるのですが、この題名だけを聞いたら私たちは「死」について研究する学問かと考え、誤解してしまう傾向があります。しかし、その学問の内容はどうしたら人間は満足して自分の人生を生き切ることができるかということを学ぶのです。その中で最も論じられることは人間の命の価値は長さで測られるのではなく、その人がどれだけ充実して生きたか、その質で測れるということです。
 私たちはよく、誰かが亡くなったという話を聞いたとき、その人の年齢を真っ先に聞き、「それは長生きされましたね」とか、「若くして残念なことでしたね」と、年齢の多さでその人の人生の価値を判断してしまうことがあります。確かに、長寿も神様が与えてくださった祝福の一つかもしれません。しかし、もっと大切なのはその人が自分の人生に与えられた目的を果たし、その命を価値あるものとして生きたかどうかということなのです。価値ある人生を送るためには目的を持って生きることが大切なのです。そしてその私たちの命の価値を決めるものこそが、イエス・キリストに従って生きることだと今日の聖書は教えているのです。
 誰も好き好んで「自分の十字架を負って生きる」という道を簡単に選び取ることはできません。しかし、弟子たちがその道を歩み、イエスに従って生きることができたのは、日々、十字架を背負う人生の中で、イエスとともにある喜び、その人生の素晴らしさを知っていったからではないでしょうか。ですから、私たちもまたこのイエスの招きに答えて、信仰生活を送るとき、私たちは主イエスから与えられる人生の本当の喜びと祝福を知り、ますます、この方とともに歩みたいと願わずにはおれなくなるのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
 私たちに聖霊を送って、あなたへの信仰を告白する恵みを与えてくださったことを感謝いたします。今日も私たちはそのあなたの導きによってこの礼拝に参加し、あなたのみ言葉に耳を傾けることができました。そしてあなたは私たちの命を価値あるものとし、幸福の中で生きるべき道を教えてくださいました。どうか私たちがあなたに従うことで、この世のものは誰も提供することのできない、真の幸福を味わうことができるようにしてください。そのために私たちの試練の中に隠された、豊かな信仰の意味を教えてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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