Message 2011 Message 2009 Message 2008 Message2006 Message2005 Message2004 Message2003
カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
「エルサレムへの旅立ち」

(2010.06.27)

聖書箇所:ルカによる福音書9章51〜62節

51イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。
52そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。
53しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。
54弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。
55イエスは振り向いて二人を戒められた。
56そして、一行は別の村に行った。
57一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。
58イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
59そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
60イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
61また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」
62イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

1.決意を固められたイエス
(1)目的を忘れる

 誰もが知っているような有名な落語の一つに、物覚えが悪い主人公が登場します。彼はあるとき、家の主人に頼まれた買い物の品を忘れないようにと、道すがらその品ものの名前を繰り返して口ずさみます。これで大丈夫と安心た矢先、主人公は目の前の道にできた水たまりをまたいで渡る瞬間に「どっこいしょ」と言ってしまうのです。すると、そこから彼の口から繰り返して語られる言葉は「どっこいしょ」に変わってしまうのです。そして目的のお店に着いた主人公は「どっこしょください」と言ってしまうと言うお話です。
 私たちを楽しませてくれる落語の一つですが、最近、どうも物忘れがひどくなっているせいか私はこの話を他人事とは思えないようになっています。ときどき、必要なものがあるので三階の部屋まで取りに行こうとします。ところが三階に上がったときたまたまそこにいた家内から、何かの用事を言われたりすると、それを考えている内に、肝心の自分はなぜ三階に上がってきたのかを忘れしまうのです。結局また二階に戻って、しばらくしていると「あっ、そうかあれを取りに三階まで行ったんだ」と思い出すのです。こんなことを何度も繰り返し、以前はそんなこともあまりなかったのに、年を取ったせいだなとつくづく思わされるようになりました。
 私たちが買い物の品や、身の回りの品物を忘れることは日常に起こるありふれた出来事かもしれません。忘れたら、また思い出せばよい話です。しかし、私たちが自分の人生に与えられた肝心の目的を忘れてしまい、その目的とは全く無関係なことにいつのまにか大切な時間を費やしてしまっていたとしたらこれは大変なことになってしまいます。今日のイエスの物語はそのような失敗を私たちが犯していないかどうかに気づかせるお話になっています。

(2)イエスの旅立ち

 今日の物語は「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(51節)と言う言葉から始まっています。私たちが今、読んでいるこのルカによる福音書の特徴は福音書を大きく三つに分けて、イエスのガリラヤでの活動、そして今日の箇所から始まるエルサレムへの旅の途中の出来事、さらにはイエスの最後の一週間にエルサレムで何が起こったかと言うことを知らせています。そしてこの三つの部分の中でここから始まるエルサレムへの旅の途中に起こった出来事を伝える部分に一番の分量が割かれているのです。もちろん、ここにはイエスと弟子との旅の途中に起こった単なる「道中記」と言ったものが書かれているのではありません。イエスのエルサレムへの旅はこの最初の言葉に記されているように、イエスが持っていた固い決意と深く結びついていました。
 ここで「天にあげられる時期が近づく」と言う言葉はイエスがエルサレムで遂げられた十字架の死を意味するだけではなく、その後に起こる復活と昇天という出来事をも含む意味を持った言葉です。このときイエスは神の計画に従って自分が地上の生涯で何をなさなければならないかをはっきりと自覚し、それを実現するためにエルサレムへと向かわれたのでした。
 「決意を固められた」と言う言葉の元々の言葉は「顔を固めた」と言うおもしろい言葉が使われています。イエスの顔はエルサレムの方向だけに向けられ、それはこの後も変わることがなかったと言う意味の言葉です。今日の物語ではこの「顔を固めた」イエスに対して、あちらにもこちらにも顔の向きを変えてしまって方向が定まらない人々の姿が登場しているのです。

2.目的を見失う
(1)サマリヤの人々の拒否

 イエスと弟子たちの故郷でもあるガリラヤからエルサレムに向かうための旅の途中には、サマリヤと言う地域を通過する必要がありました。このサマリヤを通れば最も早くエルサレムに向かうことができるのですが、当時のユダヤ人たちはこの道を通ることを避けてわざわざ遠回りをして旅をしたと伝えられています。その理由はこの地域に住むサマリヤ人とユダヤ人は元々同族の出身でありながらたいへんに仲が悪く、始終争い合っていたからです。
 有名なソロモン王の死後、その王国は北と南に分裂し、サマリヤは南のユダ王国と対立する北のイスラエル王国の中心地となりました。そして、やがてこの北イスラエル王国がアッシリアと言う大国に滅ぼされたとき、アッシリアはこの地に大量の移民を送ったためにこの地の住民の混血化が進んだのです。この結果、南のユダに属する人々にとってはサマリヤ人は外国人の血が混じった、宗教的にも怪しい人々だと考えられていたのです。ヨハネによる福音書に記された有名な「サマリヤの女」の物語では当時、サマリヤの人々とユダの人々が神様を礼拝する場所を巡って、それはエルサレムか、サマリヤにあるゲリジム山かで深刻な争いをしていたことが記録されています(4章1〜42節)。
 イエスはこの地を通過する際に、先に使いの者を送られ、宿や食事の準備をさせようとしたのです。おそらくこの旅は一人や二人だけの旅ではなく、イエスとかなりの数の弟子たちが加わった大きな団体旅行であったはずです。ですから、この旅を成功させるために先に遣わされた使いの勤めは大変に重要だったのです。ところがサマリヤの村の人々はイエスの一行を受け入れることをせず、彼らを拒否してしまいます。

「しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである」(53節)。

 サマリヤの住民はイエスの旅の目的がエルサレムに向けられていることを知り、自分たちの利害と相容れないと考えたのでしょうか。聖書学者はこの出来事は神様の計画が実現されようとするとき、そこに沢山の障害が起こることを読者たちに想起させようとしていると解説しています。私たちが神様に従って生きようとするとき、世はそれを歓迎せず、冷たい拒否の態度を示すのです。このことは私たちも信仰生活の中で体験することだと思います。しかし、問題はこのような拒否に出会ったときの私たちの反応です。
 この出来事に遭遇したイエスの弟子のヤコブとヨハネの兄弟は次のようにイエスに進言しています。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(54節)。旧約聖書の列王記下には預言者エリヤが自分を逮捕しようとやってきた兵士たちに天から火を降らせて、焼き尽くしたと言う出来事が記されています(列王記下1章)。ヤコブとヨハネはこの出来事を知っていて、イエスも同じことができるに違いないと信じていたのでしょうか。しかし、イエスはこの二人の願いに応えず、彼らを戒められたと言うのです(53節)。このヤコブとヨハネの提案は一見、イエスのためのように見えますが、実はそうではありません。自分たちが人々から冷たくあしらわれたことが気に入らず、収まりきれない自分の怒りをイエスの力を通して実現しようとしたものなのです。だからイエスは彼らを厳しく戒められたのです。
 ヤコブとヨハネはいつしか自分たちに与えられた重要な使命を忘れ、目の前に起こった出来事に振り回されてしまっていたのです。しかし、このようなことは私たち自身の人生にも起こりうることではないでしょうか。

(2)何のために人生の時間を使うのか

 もうだいぶ以前ことですが、私は名前も知らない一人の婦人から電話でこんな相談を受けたことありました。その人、以前に住んでいた地域の自治会で会計係の仕事を引き受けました。ところがそのとき帳簿のお金の計算が合わなかったことがあり、どうも近所の人々は自分がそのお金をごまかしたと思ったようだと言うのです。その婦人、自分に濡れ衣を着せた近所の人々を思い出すたびに、強い怒りが湧いてきてどうしようもないと言うのです。
 「どうしたらいいのでしょうか」と尋ねられて、私はその誤解をどのようにして解くべきかと言う相談かなと思って聞いたのですが、実はその出来事が起こったのは20年以上も前のことだったのです。今は自分も遠くに引っ越してそこに住んでいないし、肝心のその当時の近所の人々の消息も分からないと言うのです。私はどう答えていいものかと思いながら、その婦人の話を電話越しに聞いていたとき、その背後でなにやらうなり声のようなものが聞こえることに気づきました。私は、その婦人に「誰かそばにいるのですか」と尋ねてみると、その方は障害を持った息子さんと一緒に暮らしていると言うことが分かりました。そこで私はその婦人に「今は生きているのか、どこにいるのかも分からない近所の人々のことを考えて自分の人生に与えられた大切な時間を使ってしまうよりも、あなたの大切な息子さんのためにその時間を使うことの方が大切ではないですか」と尋ねてみました。するとその婦人は「そういわれれば、そうかもしれません。私は自分の人生に与えられた時間の使い方を間違っていたのかもしれません」と答えられたことを思い出すのです。
 私たちの人生に与えられた限られた時間を何のために使うのか、それは私たちに委ねられています。ところが、そんなときに私たちが考えるべき事は、自分が今、深刻に考えていることと、自分の人生の目的はどのように関わっているのかと言うことです。案外、私たちはその人生の目的とは全く関係のないことに大切な時間を使ってしまっていることがあるのです。

3.様々な障害
(1)どこにでも参ります

 次に続けて語られるお話はイエスに従おうとしている人たちとイエスとの間に交わされた会話の内容です。ここには三人の人が登場します。まず最初に登場する人はイエスにこのように語りかけます。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」(57節)。するとイエスはこの人に「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(58節)と答えるのです。「どこへでも従って参ります」と言う人に、「自分がどこに行くことになるかを本当に知った上でそのような決心をしたのか」とイエスは問いただしているのです。なぜなら、「どこにでも参ります」と言いながら、行ったところが自分の期待していたようなところではなかったと言うことが起こらないためです。
 クリスマスの物語に登場する東の方からやって来た占星術の学者たちは、新しく生まれたユダヤ人の王に会うために最初、エルサレムの王宮を訪ねました。しかし、そこには本当の王はいませんでした。そして彼らは星に導かれて、貧しいヨセフとマリアの住む小さな家に導かれ、そこで幼子イエスに出会うのです(マタイ2章1〜12節)。
 神様の御業は私たちの期待をいつも遙かに超えています。私たちがその神様に従うためには、私たちの期待を超えた神様の御心にいつも心を開いている必要があるのです。

(2)何を最初にすべきか

 次に登場する二人はいずれもイエスの「わたしに従いなさい」と言う招きの言葉に答えて、次のように語ります。最初の人は「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と答えます(59節)。当時のユダヤでは父親の葬儀を出すと言うことがその息子に課せられた大切な義務でした。ですからその義務を遂行するために兵役の義務も延期されることがあったと言うのです。しかし、イエスはこの人に「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」(60節)と言われます。「死んでいる者たち」とは神様の福音に背を向け、「神の国を言い広める」と言う大切な使命を放棄した人々を意味しています。そして、イエスは「あなたが一番にすべきことは死者を葬ることではない」と教えているのです。もちろん、このイエスの言葉は私たちが家族の葬儀をしてはいけないと言うことではありません。私たちはキリストの福音に従って、復活の希望を持って葬儀を行うことができるのです。しかし、そのような希望を私たちが抱くためには私たちがまずイエスに従い、イエスの与えてくださる福音による希望を信じる必要があるのです。そうでなければ私たちの行う葬儀には全く希望がなくなってしまうからです。
 次に登場する人はイエスに招きに「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」(61節)と願い出ます。しかし、イエスはこの願いに対しても「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(62節)と言われます。ここに登場する「鋤」は動力源である牛に引かせて使う農機具です。それを使う農夫は片手で牛につけた手綱を持ち、もう片方で鋤を操作するという大変に熟練した作業が要求されました。そのためよそ見をすると鋤は右に左にとそれて、畑をまっすぐに耕すことができなくなってしまうのです。イエスはこのたとえを用いて、よそ見をせずに、まっすぐに自分に従うべきであると教えているのです。よそ見をすれば、私たちはいつしか自分に与えられている大切な目的を見失って、全くその目的とは反する事柄に心を奪われ、大切な人生の時間を使い果たしてしまうからです。
 ここに登場する二人はイエスの招きに答えようとしますが、いずれもその前に他のことをさせてほしいと言っています。もしかしたら、それはイエスに従いたくないための言い訳だったのかもしれません。ただこの二人に共通するのは「イエスの招きに今すぐ答える必要はない」と言う余裕があると言うことです。なぜなら生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされている人はそんなことは言えないからです。その点で彼らはイエスの救いが自分に必要であることを自覚していなかったのかもしれません。
 このイエスのお話に登場する人々は決して私たちとは別の特別な人々ではあません。むしろルカはイエスの弟子として生きようとする私たちの抱える問題がここにあると教えているのです。ほっておけば、目の前の事柄に心を奪われ、私たちにとってもっとも大切な使命を忘れてしまうのが私たちです。それでは私たちはその誤りから立ち戻るためにどうすればいいのでしょうか。なぜなら、私たちは自分ではその過ちに気づくこともできないからです。しかし、だからこそイエスは私たちにその都度、その過ちを教えてくださるのです。私たちの教会生活に卒業がないこと、私たちが毎週、教会の礼拝に出席する必要がある訳はそこにあります。イエスは私たちの弱さを知った上で、恵みの手段として教会を私たちに与えてくださるのです。そして今日も私たちがイエスの弟子として生きることができるようにと聖霊を送り、助けてくださるのです。

【祈祷】
天の父なる神さま
目先の事柄に心を奪われ右に左にと心の向きが変わる私たちです。福音が伝えられ、神の国が実現することよりも、自分の怒りにまかせて、大切な人生の時間を使ってしまう私たちです。そのような私たちをみ言葉と聖霊によって導いてくださるあなたに感謝します。あなたの招きを喜んで受け入れ、今日もあなたに従うことができるようにしてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

このページのトップに戻る