1.働き人が起こされるように
今日の箇所ではイエスによる72人の弟子の任命と彼らを宣教旅行に派遣する出来事が記されています。このルカによる福音書ではすでにイエスが12人の弟子たちを伝道旅行に派遣した出来事が述べられています(9章1〜6節)。そして今回はその数を遙かに上回る72人の弟子たちが遣わされているのです。この72人は計算すれば12人を6倍した数になります。この72人の数の根拠については、当時のイスラエルの人々が考えていた世界の民族の数と言う説があるようです。そうなると、この物語はイエスによる世界宣教の指示とも読み取ることができると思います。
このようにここでは大変に沢山の弟子たちがイエスによって派遣されるのですが、イエスはこれでも足りないと感じているのか、彼らに次のように語っています。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(2節)。このイエスの指示は収穫が多くなるように、あなたたちは努力しなさいと言っているのではありません。神様は私たちに豊かな実りを約束されているのです。しかしその豊かな実りを刈り入れる収穫のためにはあまりにも働き人が少ないので、そのために働き人を送ってくださるように神様に願いなさいと言っているのです。
働き人が起こされなければ、神様の準備してくださった豊かな実りを刈り入れることができません。そのため、私たちに求められているものは、この働き人が新たに起こされるために神様に祈り願うことです。そして、それだけではなく、私たちに自身がこのイエスの言葉に答えて働き人の一人としての生きることだと言えるのです。そのような意味で、ここにはこのイエスの招きに答えて、働き人の一人として奉仕する私たちへの心構えが語られていると言えるのです。
2.イエスが配慮してくださる
(1)イエスが宣教の主人公
ここで興味深いのは内容は聖書はこの72人の派遣について「主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」(1節)と語られている点です。つまり、イエスは自分がこれから行こうとしているところに、予めこの72人の弟子たちを遣わされたと言うのです。先日の聖書箇所ではイエスと弟子たちの旅行のための宿泊場所や食事の準備を整えるために予め派遣された弟子たちがいたことが語られていました。ここでも72人の弟子たちはイエスの準備をするために遣わされているのです。ところが、このお話はそのイエスが後から出掛けていったと言う話は語れないままに、この派遣先から帰って来た弟子たちの宣教報告の記事が記されているのです。これはどうしてなのでしょうか。
おそらく、これはイエスは当初の計画に反して結局どこにも行かなかったと言うことを言っているのではなく、実際にはこの弟子たちを通してイエスが豊かに働いてくださったことを報告しているのです。そのような意味でこのお話は、この後、キリストの教会が何度も経験する宣教の活動の意味を私たちに明らかにしていると言えるのです。宣教の働きはイエスご自身が行われるものであって、私たちはそのイエスの働きがこの地上に実現するために用いられている者に過ぎないのです。そのような意味で、この宣教に遣わされる働き人がまず心得なければならないのは、この働きの主人公であるイエス・キリストへの信頼であることをこの物語は私たちに続けて教えているのです。
(2)いろいろなものを準備する必要はない
イエスはここで宣教旅行に派遣される弟子たちに対して「財布も袋も履物も持って行くな」(4節)と語られています。7月に入り夏休みの計画をそろそろ立てておられる方もおられると思います。どこかに家族と一緒に旅行しようとするとき、なるべく予算のかからないような方法をとろうとするなら、宿泊する宿はなるべく料金の安いところを選ぶ必要があります。しかし、料金の安い宿に泊まろうとするとき、予め用心しておく必要があるのは、その宿に寝間着や洗面用具の備え付けがあるかどうかと言うことです。私がよくする失敗は、インターネットなどを使って一生懸命安価な宿を見つけたのに、行ってみると寝間着も洗面用具もなくて慌てたと言う経験です。その点で、宿泊料の高い高級ホテルは何から何までそろっているので安心です。宿泊者は何も持っていかなくても安心してそこに泊まることができるのです。イエスは弟子たちをこれから待っているところはこの高級ホテルのようなところだと言っているのでしょうか。そうではありませんイエスは宣教旅行に派遣される弟子たちにそこに行くのは「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と語っているのです。
それではどうして、彼らは自分のことを心配する必要がないのでしょうか。それはイエスご自身が彼らのことを心配し、配慮してくださるからです。そして、このとき弟子たちはこのイエスの働きを自らがこの旅で体験することができる機会に招かれていたとも言えるのです。
3.使命を遂行するために
(1)自分のことで心配する必要はない
私たちがイエスに信頼して生きること、そのためには私たちにイエスが求めておられることは次のことがらです。「途中でだれにも挨拶をするな」(4節)。「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい」(7節)、「家から家へと渡り歩くな」(7節)。挨拶ぐらいしておかないと後々の人間関係にひびが入るかもしれない。それが心配で私たちは表面的にでも相手に気に入られるような態度を取ろうとします。そして逆に自分が挨拶したのに、相手がその挨拶に答えてくれないと腹を立てるのです。そのように私たちは他人が自分をどのように受け入れてくれるかに最大の関心を置き、自分の期待した通りの待遇を受けることができなかったら、腹を立てて、もっとよい待遇をしてくれる人を捜し求めるのです。私たちは自分に対する人々の態度によって一喜一憂しながら生きているのです。まさに、ここに語られていることは誰か他人のことを語っているのではなく、私たちの普段の生活の姿を語っているのです。しかし、イエスは私たちにそれをしてはいけない、いえ、その必要はないとここで教えてくださっているのです。そしてその理由は私たちのことを神様ご自身が関心を持ってくださり、私たちのために働いてくださるからだと言うのです。だから私たちは自分のことで心配する必要はないとここで教えられているのです。
(2)神の国を体験し、その神の国を伝える
それではその代わりに私たちに求められているものは何でしょうか。
「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」(5節)。
「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」(9節)。
イエスが派遣される弟子たちに求められていることは『神の国はあなたがたに近づいた』と言う福音の知らせを人々に伝えることです。そしてこの神の国が近づくことによって、私たちの上にまことの平和が実現するのです。このとき弟子たちに病人を癒す権能が特別に授けられていたのはこの神の国が訪れたことを人々が目に見える形で知るためだったのです。つまり病人の病気が癒すことが目的ではなく、その出来事を通して人々が神の国が近づいたことを知ることが重要だったのです。神の国とは「神の支配」と言う意味を持った言葉です。ですから神様がこの世界を、また私たちの人生を支配してくださるのが神の国なのです。
実はイエスが派遣される弟子たちに語った指示は、弟子たちがまずこの神の国に生きることができるようするためのものであったとも考えることができます。なぜならどんなに言葉巧みに福音の内容を人々に説明できたとしても、その神の国に生きるすばらしさを知らない人が伝えるなら、そのメッセージは人々の心に伝われることができないからです。ですからこのときイエスの弟子たちはこの神の国に生きるすばらしさを体験しながら、その神の国の福音を人々に告げ知らせたのです。
4.喜ぶべき事は
(1)喜びの根拠をどこに置くか
さて、このイエスの指示に従って宣教に派遣された弟子たちが帰ってきたとき彼らはその活動報告を感動を持ってイエスに伝えました。
「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」」(17節)。
この当時の人々にとって悪霊の存在とその力はより現実的な影響力を持っていました。彼らはこの地上に起こる不幸な出来事や、様々な問題はこの悪霊が引き起こすものであると考えていたからです。だから悪霊を屈服させるとは、文字通り悪魔に憑かれているような人を救い出したと言うだけではなく、様々な問題を持っている人々を救うことができたと言うことを表わしています。弟子たちはこのような輝かしい効果を上げて旅行から帰ってきたのです。ところがその弟子たちにイエスは次のような言葉を語られています。
「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(20節)。
このとき弟子たちは自分たちが旅先ですることができたことを根拠に大きな感動を受け、喜びを感じていました。しかし、できたことに対する喜びは、それができなくなったときに必ず奪われてしまうものだと言えます。私たちの喜びの根拠が自分のできとことにだけ置かれているとしたら、その喜びはやがて私たちの手から必ず奪われてしまうのです。
先週のニュースの中で日本でも有名な韓国の一人の俳優が自殺したと言う知らせが人々を騒がせました。どうしてその人が自ら死を選んだのか、その理由はよく分からないと言います。ある人は、彼は自分の人気に陰りが出てきたことを恐れていたのではないかと解説していました。人々の人気が一番に大切な俳優にとって、その人々の評判がどのようになるのかは一番の関心事であったはずです。
しかし、そんな大スターでなくても、私たち自身も自分の存在が人々からどのように受け取られているかをいつも気にして生きています。そして人々の好意ある評価を受けるためにいろいろな努力をして生きているのです。しかし、そんな努力も私たちが人々の期待に答えることができなくなったら、どうにもなりません。私たちはもはや自分は誰にも必要とされていないと絶望するだけです。しかし、イエスは私たちの喜びの根拠はそんなところにあるのではないとここで教えているのです。
(2)神の国では大切な存在
「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(20節)。あなたがたの存在がどんなに大切であるかを知るために、あなたは人々のあなたに対する人気を気にする必要はない。なぜなら、天の国の名簿には確かにあなたの名前がすでに書き記されているからだとイエスは言うのです。あなたのことを誰かが何と評価したとしても、このあなたに対する神様の評価は変わることがないし、神の国の名簿にはあなたの存在は決して欠けることができない存在として取り扱われているとイエスは語るのです。
どうしてイエスはこの地上に来られて、その命を十字架に捧げる必要があったのでしょうか。それはこの天の名簿に名前が書き記されている私たち一人一人が決して欠けることなく、神様と共に生きることができるためだったのです。「一人の人間の命の価値はこの地球よりも重い」と言った人がいるそうです。しかし、聖書が語る私たちの命の価値はまさに、神の御子であるイエス・キリストの命と同じような価値を持っているのです。イエスはこのことを私たちに教え、そこに私たちの喜びの根拠があることを教えているのです。
【祈祷】
天の父なる神さま。
地上の評価に心奪われ、私たちの名が天に書き記されていることを忘れてしまうわたしたちです。主は十字架にかかり、私たちのために命を捧げることによって、その真理を私たちに明らかにしてくださいました。私たちの喜びの根拠を、この真理の上に置くことができるようにしてください。そして、この真理を多くの人々に伝えるための働き人を送ってください。また、私たちもその使命を担うことができるように助けてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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