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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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「イエスに耳を傾ける」

(2010.07.11)

聖書箇所:ルカによる福音書10章38〜42節

38〔そのとき、〕イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
39彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
40マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

1.わかちゃいるけど、やめられない
(1)ベタニア村の二人の姉妹

 今日の箇所の物語ではマルタとマリアと言う二人の姉妹が登場します。この姉妹は聖書の他の箇所でも登場しています。ヨハネによる福音書11章にはこの二人の姉妹にラザロと言う兄弟がいて、彼が病気で死んだ後、イエスによって生き返らせられたと言う話が記されています。このヨハネによる福音書の記事から考えるとこの二人の姉妹とラザロはベタニアと言うエルサレムから三キロ弱しか離れていない村に住んでいたことが分かります。イエスのエルサレムへの旅はこの後19章あたりまで続いていますから、この物語の起こった場所がエルサレムの近くであると考えるとこの後の旅の時間的経過が問題になってきます。この福音書の記述に従えばイエスはこのときエルサレムに入る寸前だったのに、また後戻りして行ってしまったようになるからです。そこで、この物語は時間的配列でここに記されてのではなく、直前の善きサマリア人の話(25~37節)や、イエスが弟子たちを宣教旅行に派遣した物語(1〜24節)と関連づけてこの箇所に置かれたのだと説明する人もいます。そうなると、この物語の意味をこれらの前後に記された出来事と関連で読み解くことが大切であると言うことになってきます。

(2)教えられてもやめられない

 この物語は大変短くて、読んでみても決してわかりにくいお話ではないと思います。ところが、このお話が教えようとしていることは分かるが、その内容を簡単に受け入れるのには抵抗があると言う点では、先に学んだ善きサマリア人の物語とこの物語は似ているところがあります。特にこの物語のクライマックスと思われる場面で語れるイエスの言葉で「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」(41〜42節)は、まるで今の自分に語れられている言葉のように思える方は少なくないと思います。私たちは日々の生活の中で考えなければならない問題を沢山持っています。一つの問題を解決してから、また他の問題を解決すればいいのではないかと言われても、そんなに簡単に整理することはできません。そこで抱えきれない問題を持ったまま結局何も解決することができずに、右往左往してしまうことが多いのです。確かにそんなことで思い煩うよりも、どうしても大切なことに自分も持っている時間と心を注げばいいと教わっても、それができないところに私たちの深刻な問題はあるように思えます。つまり、いくらイエスに「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」、「だからそのことをしなさい」と言われても、「でも、それが分かっていても、できないので困るのです」と言いたくなるのが私たちなのではないでしょうか。
 まさに私たちは「思い悩み、心を乱してもどうにもならない」と言うことを知っていながら、「わかっちゃいるけど、やめられない」と言う昔の歌の文句のようにいつも沢山の問題に支配されてどうにもならない状態に陥っているのです。それではイエスはそんな私たちの姿を知らずに、この助言をしているのでしょうか。ここに記されているイエスの言葉は私たちの生活に何も役にたたないのでしょうか。もう一度本文からこのお話の意味を考えたいと思います。

2.横道にそれる落とし穴
(1)み言葉を聴く権利

 まず、このお話はイエスと弟子たちの一行が旅先でマルタと言う女性の家に迎え入れられたことがから始まっています。このマルタにはマリアと言う妹がいて、彼女たちは一緒に一つの家で生活していたようです。不思議なことにこの今日の物語には彼女たちの兄弟ラザロの姿は全く表れていません。そしてイエスを家に迎え入れたこの二人の姉妹は非常に対照的な応対の仕方をここでしています。妹マリアは「主の足もとに座って、その話に聞き入って」(39節)いましたし、その一方で姉のマルタは「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いて」いたのです(40節)。
 この二人の状態を記した言葉にはそれぞれ興味深い意味が含まれています。マリアは「主の足下に座って」いたと記されています。この「足下に座る」と言う言葉は律法の学者からその弟子が学ぶ姿勢を表わしていて、ここからこの言葉は「弟子になる」と言う意味を持つようになりました。つまり、マリアはここでイエスの弟子となったと言うふうにも読める言葉なのです。
 ついでに語るなら、ユダヤ人社会の中では男女の間にはっきりとした働きの違いが作られていました。そして律法を教え、またそれを学ぶのは男性だけに許されているものと当時の社会では考えられていたのです。ですからこのユダヤ人社会では女性はその律法を学ぶ男性を支える役目として働くことが求められていたのです。つまり、この物語を当時の社会通念から考えれば、イエスの足下に座ってその言葉を聞いているマリアは女性としてはふさわしくない行動をしていると考えられます。そしてもう一方のマリアはむしろ客をもてなすと言う当時の社会が女性に求めている価値観の中で行動していたのです。つまり、この二人の行動は当時の常識では妹マリアの行動が批判され、姉マルタの行動が評価されてよかったのです。ところが、イエスは「マリアは良い方を選んだ」(42節)と語り、姉マルタにも同じようにイエスの足下に座り、そのみ言葉に耳を傾けることを求めているのです。
 先週、コリントの信徒への手紙第一の学びを皆さんは聖書研究会でしたわけですが、あの場合は教会の中でたいへんな混乱があったことが前提となり男女の働きの違いが、聖書の中で強調されていました。しかし、このイエスの教えから分かるように神様のみ言葉を聴く権利は男女とも同じように与えられているのです。ですから、教会は男性も女性もその性の違いでみ言葉を聞く機会を奪われたりすることがないように心がける必要があると言えるのです。

(2)横道に引っ張られるマルタ

 ところでもう一方のマリアの「せわしく立ち働いて」と言う言葉にもおもしろい意味があります。ギリシャ語でこの言葉は「まわりに引っ張られていく」とか、「横道に引き込まれる」と言う意味を持ってます。与えられた目的を遂行するために一生懸命に働くことは素晴らしいことです。マルタもイエスと弟子をもてなすためにそれに集中していればよかったのですが、そうではなくなってしまったと言うのです。いつの間にか、彼女は当初、自分が抱いていた目的から大幅にそれて行き、全然違う方向に引っ張られて行ってしまったのです。
 そこで彼女はいつの間にか当初の目的とは違った別の思いに支配され、大切なことを忘れてしまっていたのです。この点では私たちが、先週学んだ善きサマリア人に登場する倒れた旅人を見て見ぬふりをして通り過ぎた祭司やレビ人とよく似ています。彼らは律法に対して熱心でしたが、その思いはだんだんと自分をどうして守ることができるかと言うところにそれていって、結局彼らは律法を与えたくださった神様の心を忘れてしまったのです。そして自分のことに心がいっぱいの彼らは目の前に倒れている旅人を助けることができなかったのです。マルタはこのとき大切なことを見逃してしまうと言う点では彼らと同じだったと言えます。
 そしてこの肝心な目的を見失ってしまったマルタだからこそ、妹マリアを非難し、またイエスの行動を批判すると言うことになっていくのです。マルタはイエスに語ります。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(40節)。
 客をもてなすと言う女性に与えられた大切な使命を忘れて、非常識にも男のようにイエスの言葉に耳を傾けているマリアをどうして放っておくのか。「イエス様。あなたがまず妹を叱るべきです」とマルタはイエスに語ります。しかし、もはやマルタは自分の怒りにまかせて、ここで大きな誤りを犯しています。まず、彼女はイエスを手厚くもてなすことを心がけていたのに、ここではイエスを非難してしまっています。また、もっと重大なことはマルタはみ言葉を教える教師であるイエスに、「あなたが間違っています。私の言う通りに直しなさい」と教え初めているのです。しかも、それは真理に基づくアドバイスではなく彼女の一時的な感情から出された言葉に過ぎないのです。先週、私たちが学んだパウロの言葉はこのように一時的な感情に支配されて、教会の指導者を批判する人たちを警めるために書かれています。その点では今日のイエスの教えもパウロの手紙の教えも矛盾したことは言っていないと言えるのです。

3.イエスに対する相応しい歓迎

 さて、このように横道に引きずり込まれて、大切なことを見失ってしまったマルタに対してイエスは次のように語ります。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(41〜42節)。

 「マルタ、マルタ」と呼びかけるイエスの言葉にはマルタを非難する語調はありません。むしろ、マルタを慈しみ、愛するイエスの心がこの言葉には豊かに表わされていると言えるのです。イエスはこの二人の姉妹とラザロを「愛していた」と聖書はわざわざ記しています(ヨハネ11章5節)。

 ここでイエスはマルタに「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と語っています。ある説教家はこの言葉の中で「多くのこと」と言う言葉に注目しています。なぜなら、この「こと」と言う言葉はギリシャ語ではむしろ「分、分量」と訳した方がいい言葉が遣われているからです。つまり、マルタの問題は「多くの分量」のために生じて来たと言うことになります。このことをもっと簡単に言えば、マルタはイエスの一行をもてなすために必要以上のたくさんの「分」の食事を準備しようとしたて横道に引きずり込まれて行ったのです。
 韓国旅行をしたときに、旅先の家でもてなしを受けたとき、とてもたべきれないほどの食事が出されてびっくりしたことがあります。韓国では「ちゃぶだいが壊れるような食事」と言う表現があると言うことです。客がたべきれないほどの食事を出すのが礼儀だとされているのです。マルタもこのときそんな食事を準備しようとしたのかもしれません。ところがここで関係してくるのは、イエスが弟子たちを宣教旅行に派遣したときの指示です。 

「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」(10章7〜9節)。

 この言葉は、イエスと弟子たちの旅はたくさんのご馳走でもてなされるために行くのではなく、福音を伝えると言う目的のために行くものだと教えているのです。その点で、迎え入れてくれた家でどんなご馳走が出てくるのかと言ったことに心を向けることは、大きな誤りだと弟子たちに教えられたのです。イエスのマルタに対する語りかけは、この指示と大きく関係しています。イエスはマルタの家にご馳走を食べにやって来たのではないのです。そうではなく「神の国があなたたがたに近づいた」と言う大切な福音を知らせるためにやって来たのです。だから、多くのご馳走を出すことに心を奪われてしまったマルタより、イエスの伝える神の国の福音に耳を傾けるマリアこそ、イエスがやって来た目的に沿った歓迎の仕方であったと言えるのです。まさに、マリアはこのときイエスのためによいほうを選んだのです。

4.必要な一つのことを行う

 イエスは「必要なことはただ一つである」と教えてくださいました。ここではみ言葉を伝える使命を持ったイエスをもてなす方法は、そのみ言葉に耳を傾けることだと教えられているのです。それは私たちの献げる礼拝でも同じ事が言えます。私たちは恵みの神様に感謝を献げるためにこの礼拝を献げています。この礼拝が成り立つためにはたくさんの方々の奉仕が必要ですし、実際にその奉仕の上にこの礼拝は成り立っています。しかし、その奉仕のすべては、この礼拝ですべての人が神様のみ言葉に耳を傾けることができるためになされているのです。ですから私たちは自分が教会でしているすべての事柄が神様のみ言葉を聴くために向けられているのかを何時も点検する必要があるのです。もし、私たちがそこで横道に引きずり込まれていけば、教会の礼拝に出席しても肝心の神様のみ言葉を聴くことができずに終わってしまうことになってしまうからです。それでは私たちも思い煩いから解放されませんし、神様に喜ばれる礼拝を献げているとも言えなくなるのです。
 ところである聖書解説者はこのお話の中で、マルタの役割にもう少し相応しい評価を与えようとしています。なぜならこの物語に登場するマルタはこの聖書を読む人々にとって決して見習ってはならない、悪い模範として見られている傾向があるからです。しかし、マルタがもし、このとき思い煩って、心を乱し、イエスに不満を語らなかったら、私たちは「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」と言うイエスの大切な言葉を聞く機会を失ってしまったかもしません。
 そう考えるとこの物語でマルタが取った評価できる行動は何かと言えば、彼女は心に憤りを感じても、イエスのところに行ったという点ではないでしょうか。おそらく、マルタが憤ったまま、イエスを恨んで何も言わなかったら、この物語は本当に悲劇で終わってしまっていたはずです。また、マルタが「まず自分のこの怒りを静めてからイエスのところに行かなければ」と思っていたら、彼女は自分の問題を解決できないまま、いつまでもイエスの元に行くことができなかったはずです。しかし、マルタは自分の怒りに満ちた心をありのまま持ってイエスのところに行ったのです。そしてそのマルタをイエスは思い煩いから解放してくださったのです。
 最初に私たちは「わかっちゃいるけど、やめられない」と言う状況にあると語りました。しかしイエスはそんな私たちを確かによく知っておられるのです。そして、私たちにマルタと同じように今のままで、私のところに来なさい。思い煩いに支配されていてもまず私のみ言葉に耳を傾けて聴きなさいと教えてくださるのです。なぜなら、これこそが私たちの抱えている問題を解決することができる唯一の方法だからです。

【祈祷】
天の父なる神様
 自分の人生の目的を忘れて、横道に引きずり込まれ、自分の居場所さえわからなくなってしまう私たちを、あなたは今日もこの礼拝に招いてくださいました。そしてみ言葉を私たちに与えてくださったことを感謝します。どうか、私たちもマリアのように、そしてマルタのようにあなたのみ言葉に耳を傾けることができるようにしてください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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