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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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聖霊を与えてくださる

(2010.07.25)

聖書箇所:ルカによる福音書11章1〜13節

38〔そのとき、〕1イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 2そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。

『父よ、御名が崇められますように。

御国が来ますように。

3わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。

4わたしたちの罪を赦してください、

わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。

わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

5また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
6旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。
7すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
8しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
9そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
13このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

1.イエスの弟子たちのための祈り
(1)自分たちの祈り

 今日の箇所ではイエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」の言葉が記されています。そしてそれに続けて「しつように」祈ることを教えるイエスのたとえ話が記されています。また、聖書の言葉によればイエスが弟子たちにこの「主の祈り」を教えられた理由は、弟子たちの「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」(1節)と言う願いがきっかけであったとされています。ここに登場するヨハネは皆さんもご存知の「洗礼者ヨハネ」と呼ばれる人物です。彼はイエスよりも前に生まれ、イエスの登場を準備するという重要な役目を担った人物でした。このヨハネの語る悔い改めのメッセージを聞くためにユダヤ全土から沢山の民が集まったことが福音書には記されています(ルカ3章1〜20節)。
 そこでヨハネを真の教師と仰ぎ、彼に従って生きたいと願う弟子たちの群れが生まれました。実はイエスの弟子であったペトロも、その兄弟アンデレも最初はこのヨハネの弟子であったことが聖書に記されています(ヨハネ1章35〜42節)。だから彼らは洗礼者ヨハネとヨハネの弟子が何時も自分たちだけが知っている祈りを捧げていたことを知っていました。そしてその祈りで彼らが一つの集団として強い絆を保っていたことを知っていたのでしょう。そこでイエスの弟子たちは彼らと同じように自分たちにも共に祈ることができる特別な祈りがほしいと考え、それを与えてくださるようにとイエスに願ったと言うのです。
 そしてイエスはこの弟子たちの願いに答えられて「主の祈り」を教えてくださいました。つまり、「主の祈り」とはイエスの弟子として生きようとする者たちに与えられている合い言葉のような祈りでもあると言えるのです。人種や原語の壁を越えて今でも世界中で沢山の人々がこの「主の祈り」を祈っています。そして私たちはこの「主の祈り」を祈り合うことによって、お互いが同じイエスの弟子であることを確認することができるのです。

(2)救われた者が祈れる祈り

 聖書でこの「主の祈り」は今日のルカによる福音書の箇所とマタイによる福音書(6章9〜13節)の二箇所に登場しています。そして私たちが礼拝でも祈っている「主の祈り」はマタイの福音書の記述が原型となっています。ルカの紹介する主の祈りはこのマタイのものよりも簡潔な表現で記されています。しかし、その祈りの項目や全体の構造なほとんどマタイのものと変わりません。
 この主の祈りは大きく分けて、二つの部分に分かれ、前半部は神様のための祈りであり、後半部分はその神様に自分たちが願い求める祈りが記されています。
 この当時、人々は律法や聖書を勉強するためにそれぞれ有名な教師について学ぶ、習慣がありました。そしてヨハネが弟子たちに祈りを教えたように、それぞれの教師は独自の祈りをその弟子たちに教えていたようです。しかし、この「主の祈り」がそれらの教師たち教えた祈りと根本的に違うのは、出だしの部分で神様を「父よ」と呼んでいるところです。この「父よ」と言う言葉はもともと、当時言葉を覚え始めた子供が最初に自分の父を呼ぶときつかった言葉だったようです。日本の子供はそんなときお父さんを何と呼ぶのでしょうか。「おとうちゃん」とか「パパ」と呼ぶのでしょうか。当時のユダヤ人は神様をそんな軽々しい呼び名で呼ぶことは失礼だと考え、もっと違う呼び方をしていました。ですからこんなに神様を親しく呼ぶのはこの「主の祈り」にだけ表わされた特徴なのです。
 イエスは私たちに神様を「父よ」と親しく呼びかけなさいと教えられました。それは私たちに取って神様は最も親しい存在であることを自覚させるためです。もちろん、神様と私たち人間とは全く違った存在であり、私たちは本来、神様をそんなに親しく呼ぶことはできません。しかし、この神様の真の子であったイエスが、私たちにこの呼び名を使いなさいと教えられているのです。そしてこのイエスは私たちを救い、私たちが神様を「父よ」と親しく呼んで生きることができるようにしてくださった方なのです。そのような意味で、この「主の祈り」はこの主イエスに救われた者たちだけが祈れる祈りでもあるのです。

2.神を神として生きる

 先日、フレンドシップアワーで創世記3章に登場する、最初の人間アダムとエバの犯した罪の物語を学びました。神様の創られた園で何不自由なく暮らしていたはずの最初の人間に忍び寄った悪魔は彼らを誘惑しました。その誘惑の中心は「あなたも神のようになれる」と言うものでした。そして人間はこの甘い誘惑の言葉にまんまと乗ってしまい、食べてはいけないと言われた善悪の知識の木の実を食べてしまったのです。人類の罪と悲惨はこの人間の犯した失敗から始まったと聖書は教えています。
 聖書も神様も信じない人々はこの物語を人間の作り出した神話に過ぎないと笑うかもしれません。しかし、人間の抱える問題の中心はいつも自分が「神様のよう」になろうとするときに、また自分が「神であるかのよう」に勘違いするところに起こるのです。
 なかなか普段意識には昇らないのですが私たちはときどき、自分が全能の神だと勘違いして生きています。なぜなら、私たちは他人や世界が自分の思った通りにならないことに腹を立て、不満を抱き、またそのことで絶望したりするからです。それを変えることができるのは神様だけなのに、私たちはそのことを忘れてしまうのです。
 イエスは私たちに「明日のことを思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6章34節)と語られています。明日はまだ私たちのところにやって来てはいない事柄、つまり神様が管理する領分なのです。しかし、私たちは自らを勘違いして、神様だけに許された領分を侵して思い悩んでしまいます。だからイエスは、私たちに人間としてできることをしなさいと教えられたのです。
 主の祈りの前半部の「御名が崇められますように。御国が来ますように」と言う願いは、神様が神様として取り扱われるように、そのような世界が来るようにと祈っています。これは神様のための祈りですが、実はこの事が実現するとき、人間は「神になろう」と言う誤った願いから解放され、本当の幸せをつかむことができるのです。そして後半部分はこの神様と人間の間の正しい関係の中で、私たちが神様から与えていただかなければならないことを願っているのです

3.しつように頼む
(1)しつような願いに動かされた友人

 この主の祈りに続いてイエスは弟子たちにさらにたとえ話を使って祈りについて教えています。突然尋ねて来た友人のために別の友人の家に夜中を訪ねて行った物語の主人公は「友達をもてなすためにパンを三つ貸してほしい」と願います。しかし、この願いを最初に聞いた主人公の友人は「こんな夜中に訪ねて来て面倒をかけないでほしい」とその願いを断ってしまいます。ところがこのたとえ話の主人公が「しつように頼みこんだ」ので仕方が無く友人は彼にパンを与えたと言う話です。
 この物語の要点は8節の「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」と言う言葉です。友情などと言うことが頼りにならなくても、しつように頼めば、相手を動かし、願いを叶えることができると言うお話です。
 この言葉の後に違ったたとえが語られて「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」(11〜13節)と言う言葉が語られます。前半部のたとえ話だけを読むと神様は私たち人間に対して、この物語の仕方がなく友人の願いを聞き入れた人物と同じような存在なのかと勘違いしてしまいます。しかし、ここでは「悪い者でありながらも」と言う言葉が登場し、神様は決してそのような方ではないと言うことを教えているのです。だから私たちは神様が私たちの願いを迷惑がっていると考える必要はありませんし、その考えは間違いであると言えます。しかし、問題なのは私たちが自分の祈りを「しつように」祈り続けることができないことにあると言えるのです。

(2)恥や外聞を気にするのは

 この「しつように願う」と言う言葉は「頑固に自分の意見を通す」、「うるさくつきまとう」と言う意味を持った言葉です。そのような意味ではむしろ好ましい行動とは言えないものです。ギリシャ語の原語ではそれはもっと強くなって、この言葉は「常識を顧みない」とか「恥ずべき行為」と言う意味を持っています。つまり、このたとえ話の主人公は恥も外聞もなく友人に願い続けたと言うことになります。
 そうなるとこのように祈れない私たちはどこかで「恥や外聞を気にしていて。自分の格好を気にしている」と言うことになるのではないでしょうか。私が病院に現在、入院中の母とよく衝突するのは、「そういうことは看護士の人に頼んでみたらどうだ」と母に言うと、母は必ず「そんなこと頼めない」と言うことです。もちろん、頼んだからと言って看護士の人が母の願いをすべて聞いてくれることはないと思います。でも母はそれを聞く前から「どうせだめ」と考えて、自分で自分の病院生活を不自由にしているような気がしてならないのです。
 しかし、私も考えて見ると自分の生活のいろいろな場面で母と同じようなことをしているのに気づきます。私もどうせ頼んでもどうにもなんならない。むしろ断られるのが格好悪い、そんな思いがあるために、何も言えなくなってしまうことが多いのです。もちろん、すべては自分の責任だとあきらめがつけばよいのですが、案外何も相手に伝えていないのに「相手は自分のことを配慮してくれない」と不満を感じる身勝手なところが自分にはあるのです。
 どうして、私たちは人にではなく、神様に対して「しつように頼む」こと、祈ることができないのでしょうか。その根本的な原因は、「頼んでも答えてくれない」と言うあきらめが私たちの心の中にあるからではないでしょうか。だからイエスはそのような神様に対する誤解を捨てるようにと「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(9〜10節)。むしろ、人には無理かもしれないが、神様にならしつように頼みこんで好いのだと私たちに教えてくださっているのです。

4.聖霊を与えてくださる

 ところでイエスは私たちの「しつような祈り」の答えてとして神様が私たちに与えてくださるものについて最後にこう語ります。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(13節)。ここを読むと、イエスは私たちが何でも好いから自分に必要なものをしつように祈り続けなさいと言っているのではなく、聖霊が与えられるようにあきらめることなく祈り続けないさいと言っていることが分かります。つまり、私たちに必要なものは聖霊だとイエスは教えているのです。この聖霊の働きは私たちにいつも救い主イエスを指し示し、私たちの人生を内側から変える力を持っています。
 先日、教師会のために発表しようとした資料の中に中世の時代に生きた、ベルナルデゥスと言う有名な説教家の話がありました。彼の説教はたくさんの人の心を捕らえ、宗教改革者のマルティン・ルターにまで影響を与えました。ルターは彼を「他の誰よりもイエス・キリストを愛した人物だった」と評しています。ベルナルデゥスはそのため自分のすべてをイエスに献げたいと言う熱い献身の思いを何時も持っていたと言われています。ベルナルデゥスだけではなく、聖書に登場する数々の人物も神様を愛し、神様のために生きた人物には皆共通したところがあります。それは彼らが、神様が自分をどれだけ愛してくださっているか、イエス・キリストがどれだけ自分を愛していてくださっているかを知っていたことです。
 私たち人間に対して「こんなふうに生きなさい」と教える道徳家や宗教家は数多くいます。しかし、彼らの教えは私たちを本当に変える力はありません。イエスは私たちを愛し抜くことで私たちを変えてくださる方です。聖霊はそのイエスの愛を単なる知識や言葉だけではなく、現実の働きを持って私たちに知らせてくださる方です。だからこそ、イエスはこの聖霊を私たちに与え、私たちをイエスの弟子として生かしてくださるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 私たちに「主の祈り」を教えてくださり感謝します。祈り続けることの困難さをいつも感じている私たちです。どうか私たちに聖霊を送ってくださり、あなたの私たちに対する愛を確信させてください。私たちがあなたに祈り続けるために、あなたへ信頼を与えてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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