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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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忠実で賢い管理人

(2010.08.15)

聖書箇所:ルカによる福音書12章13〜21節

32〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
33自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
34あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
35「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。
36主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
37主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。
38主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
39このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。
40あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
41そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、
42主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。
43主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。
44確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
45しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、
46その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。
47主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。
48 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

1.小さな群れよ、恐れるな
(2)多数の意見に抹殺される少数者の意見

 私の亡くなった父は普段からたいへんに話し好きで、寝ているとき以外は黙っている風景を見たことがないほどでした。ところが昭和二年生まれで戦争を体験していた父でしたが、自分の戦争体験を口にすることはほとんどありませんでした。わずかに、焼け野原になった東京で、丸焦げになった人間の遺体をあまりにもたくさん見たので、最後にはそれを見ても無感覚になってしまったと言う話を父から聞いたことがあります。そんな父がよく言っていたのは、「戦争は嫌だとか、兵隊に行きたくはないと思っても、そんなことを口にしたらすぐに逮捕されて牢屋に入れられてしまうのだから、どうしようもなかった」と言う言葉でした。当時は「非国民」と言う言葉があったと言います。国家の一大事に自分勝手なことを言う者は「国民に非ず」、つまり非国民として裁かれ、糾弾されたのです。
 このように大多数の人々の中で、その人々とは異なった意見や発言したり、違った生き方をすることはとても困難なことであると言ってよいでしょう。日本のキリスト教会も戦争中は信仰の自由を大幅に奪われ、中には信仰のゆえに弾圧され、何人もの牧師が投獄され、そこで命を落としたと言う経験があります。

(2)少数者に与えられる祝福

 イエスは今日の聖書の箇所の最初の部分で自分に従って生きようとする弟子たちに「小さな群れよ、恐れるな」(32節)と言う励ましと慰めの言葉を与えています。この言葉はイエスと弟子たちのエルサレムに向かう旅の途中に語られた言葉です。このエルサレムではイエスの命を狙うたくさんの敵が待っています。そして事実、イエスはエルサレムで彼らに逮捕され、十字架の死を遂げると言う出来事が起こったのです。そのような出来事を前にして、イエスは弟子たちに「小さな群れよ、恐れるな」と励まされたのです。
 それではどうしてイエスは弟子たちがたとえ「小さな群れ」であっても、彼らに敵対する沢山の人々の前で恐れる必要がないと言ったのでしょうか。「今は小さいが、やがてあなたたちは大多数になる」。そんなことをイエスは約束しているのではありません。イエスは次のように語られています。「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(32節)。そして弟子たちに次のように続けて語られたのです。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(33〜34節)。
 実はこの箇所は先日、私たちがこの礼拝で学んだ愚かな金持ちの物語(13〜21節)と深いつながりを持っています。あの「愚かな金持ちは」自分のために準備したたくさんの食料や財産を結局、自分では何も使うことができないまま悲劇的な死を迎えてしまいます。彼が頼りにしていた財産は彼の命に何の役にも立たなかったのです。
 ここでイエスは、大多数の人々の意見を恐れて、それに迎合して生きようとする生き方もまた、この金持ちと同じ生き方であると教えているのです。どんなに器用にこの世の中で立ち回って人々のご機嫌をとり、生きることができたとしても、それもまた私たちの本当の命のためには役に立たないと教えているのです。そしてこの地上の大多数の意見に逆らい、信仰を持って生きる人々に、神様は神の国を与え、永遠の命の祝福を与えてくださるとイエスは約束されているのです。

(3)終末を見つめて生きることの意味

 今日の箇所ではこのあとに続いて二つのたとえが語られています。これらのたとえは世の終わり、終末の出来事に関することを教えていると言えます。しかし、これらの話は、やがて必ずやってくる宇宙的な終末だけを語るのではなく、それと同時に私たちの個人的な終末、つまり、愚かな金持ちの上に突然訪れた、私たちの地上の死の出来事をも念頭に置いて考えられていると言ってよいのです。死は私たちにとって厭うべき存在であるかもしれません。しかし、その死と私たちが向き合うとき、私たちの人生にとって本当に価値があるべきものは何かということが分かると教えているのです。
 仏教説話にもこんなお話があります。仏陀は弟子たちに次のようなたとえ話を語りました。ある金持ちに三人の夫人がいました。金持ちはいつも、その三人の中で一番美しい夫人にばかり目を向け、大切にしました。そして二番目に美しい夫人にはその次に時間を使い、最後のあまり見栄えのしない容姿を持った夫人をあまり顧みることがありませんでした。ところがあるとき、この金持ちが突然に遠いところに旅立たなければならない事情が生まれました。今まで行ったこともない所に行くのですから、金持ちは心細くてなりません。金持ちは普段、自分が目にかけている一番美しい夫人に「一緒に旅について来てほしい」と願いでます。ところが、金持ちが今まで一番、心にかけ、愛していたこの夫人はその場ですぐに「そんなところに行くのはいやでございます」と答えます。そこで金持ちは仕方が無く次に、二番目に心をかけていた夫人を誘うと、彼女は最初は「一緒にいきましょう」と言ってくれたのですが、いよいよ出発の日となっとき「やはり、ご一緒することはできません」と気持ちを翻したのです。ところが、彼がほとんど顧みることがなかった三番目の夫人は何も言わずに金持ちの旅に同行して、彼から決して離れることがなかったと言うのです。
 仏陀は弟子たちにこのたとえについて解き明かしました。一番美しい夫人とはあなたたちが一番頼りとするこの世の宝、財産や名声その他である。二番目の夫人はあなた自身の肉体である。これらのものはあなたたちの旅立ち、つまり死を前にして何の役にも立たない、そして三番目の夫人とはあなたたちの心である。だからこそ、あなたたちはこの三番目の夫人を一番に愛し、彼女のために今の時間を使うべきではないかと教えられたと言うのです。

2.主人が給仕をしてくれる
(2)終末のときは恐ろしいものではない

 それでは、私たちの前に必ず訪れる、宇宙的な終末、そして個人的な終末を前に、私たちはどのように生きるべきなのでしょうか。イエスはここでまず「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」(35節)と教えます。これは結婚式に出掛けていった主人がいつ帰ってきても、いいように準備をしながら待つ僕の姿を語っています。イエスが「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(40節)と語られているように、私たちはいつ終末がやってくるかを知ることができません。しかし、この言葉を語ってくださったイエスは真実な方であり、私たちを決して偽ることをされない方です。ですから私たちはその時が訪れることは確かだと信じて、その日のために備えをして生きる、それが私たちの人生だと教えられたのです。
 ここで注意すべき事は、イエスは彼に従う弟子たち、つまり「小さな群れ」の中に生きる者にとって決して終末は恐ろしいときではないと言っていることです。その日は彼らにとってイエスが再びやって来てくださるとき、そのときイエスに従う者はそのイエスと出会うことができると言う祝福にあずかることができるのです。
 このイエスの約束を信じて生きた使徒パウロは自分の死についてフィリピの信徒への手紙の中で次のように語っているところがあります。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(1章21節)。パウロが「死ぬことは利益」と言っているのです。そしてその訳を続けてこう語っています。「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」(23節後半)。パウロは自分の死をキリストとの出会いの時と信じて生きていたのです。パウロの魅力的な生き方の一つの秘訣は、彼が自分の死をキリストとの出会いの時と信じ、その日を待ち望みながら生きたことにあると言えるのです

(2)労苦した者に与えられる喜び

 しかも、ここでイエスは大変おもしろいことを語っています。「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」(37節)と。僕が「腰に帯を締め、ともし火をともしている」のは主人がいつ帰って来ても、その主人にすぐに食事を出し、給仕することができるためではないでしょうか。ところがこのイエスのたとえでは全く逆のことが起こっているのです。主人が「僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」と言うのですから。これは主人の到着を待ち続けた僕たちの苦労を一気に吹き飛ばしてしまうような祝福のときです。いえ、この喜びは「小さな群れ」でありながらも、信仰を捨てず、イエスに従い続けて生きた彼らだからこそ、その祝福の意味を知り、喜びに満たされることができるのです
 以前、戦後の荒廃した日本を背景にした戦災孤児たちの姿を描いた映画を見たことがあります。戦争で親兄弟を亡くした彼らは、生きるために人を騙し、また盗みを働きながら毎日を送っています。そこに一人の若い復員兵が登場して、何とかして孤児たちを立ち直らせて、彼らに希望を与えたいと奮闘するお話です。
 あるとき孤児たちに働く喜びを教えたいと考える若い復員兵は、人に頼んで仕事をわけてもらい、孤児たちを働かせます。しかし、孤児たちは一生懸命、働いて得た報酬がわずかなサツマイモだけであったことで不満を漏らすのです。ところが、文句を言いながらもそのイモを食べる孤児たちの一人が、「でも、このイモはおいしいぞ。今までにこんなおいしいイモを食べたことがない」と言い出します。すると、文句を言っていた孤児たちのほとんどが、こんどは「そうだそうだ」とそのイモの味を不思議がっているのです。すると若い復員兵は彼らにこう語ります。「それはこのイモが特別なのではなくて、君たちが一生懸命働いて、おなかがすいているからだよ。盗んだパンより、一生懸命に働いて得たイモのほうがずっとおいしいだ」と。
 イエス・キリストの出会い、その祝福の時を本当に喜べるのは「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と言うイエスの言葉に従って、困難の中にあっても信仰を持ち続けて生きる者に与えられる特権でもあるのです。

3.二人の違い

 三つ目のお話はペトロの「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」(41節)と言うイエスへの質問から始まります。この質問の答えはこのお話の最後のイエスの「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」(48節)と言う言葉から、特にイエスに選ばれたペトロたち、弟子たちに与えられた勤めが他のだれよりも、重要で責任があることを教えていると考えることができます。
 ここでは主人が突然か帰ってきたときに、忠実に働いている姿を見られる者と、「どうせすぐには主人は帰ってこない」と考えて、好き勝手なことをしている者が、その姿を突然に帰ってきた主人に見られてしまうことの対比が語られています。もちろん、イエスは弟子たちに後者のような者になってはならないと教えておられるのです。
 それではどうして後者の者はこのような失敗をしたのでしょうか。まず第一に、彼は必ず主人は帰ってくること、おもいがけないときに帰ってくると言うことを忘れていると言うことです。言葉を換えていえば彼は主人の帰りはいつになるのかわからない、いや、もしかしたら帰ってこないのではないかと思い込んでしまっているのです。そしてその考えは彼の次のような生き方に表わされます。「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば…」(45節)。
 つまり、彼は主人が帰ってこないと勘違いして、自分が主人の代わりになって勝手なことをしているのです。これは先日学んだように、せっかくの豊作で得た、たくさんの穀物を自分のためにしか用いることを考えなかった愚かな金持ちと同じです。両者の共通点は、自分に預けられたものを自分だけのものと勘違いして、それを預けてくださった方のことを忘れています。もし、そのことを忘れずに、彼らが自分に与えられたものを用いたいたとしたら、それらの財産や富は大きな意味を彼らに与えるはずです。つまり、それらを通して彼らは主人の評価を受けることができたのです。そして主人と喜びを共にすることができたのです。
 聖書は私たちに与えられるこの世の富や宝を決して意味がないものと教えているのではありません。しかし、それを私たちが使うときに、その宝を私たちに与えてくださった神様のみ旨を考えて、それを使うことが大切であることを教えているのです。
 イエスはこのお話の最初で「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」と教えています。私たちが私たちを豊かにしてくださる神様を忘れて、この世の富みにだけ目を注いで生きるとき、私たちは神の僕ではなく、いつの間にかこの世の富の奴隷となってしまいます。そのとき、この世の富は私たちのためにあるのではなく、むしろ私たちの自由を奪い、やがては私たちを滅ぼしてしまうと言うのです。
 そこでイエスは、私たちが地上の命を自由に、意義あるものとして生きるために、いつも神の御旨に従っていきよと教えられるのです。そうすれば、私たちの地上の人生は、真の祝福にあずかるとき歩みとなると教えるのです。それはエルサレムへの旅を、十字架の向こうに待っている、神の救いの勝利のときと考え、その旅を勧めたイエスの生き方と同じものと言えるのです

【祈祷】
天の父なる神様。
 私たちに絶えず「小さな群れよ、恐れるな」と励まし、豊かな祝福を約束してくださるあなたに感謝します。地上の宝や、この世の巨大な力に、心を奪われては迷いだしてしまう私たちです。どうか、私たちが天上の宝と祝福のすばらしを正しく知る信仰の目を与えてください。様々な困難が私たちの人生には起こり続けます。どうか、私たちに終末の向こうにまってい勝利と喜びを覚えさせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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