1.十字架を背負う
今日の聖書箇所でイエスは「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(27節)と語られています。十字架は新約聖書が書かれた時代、地中海一帯を支配していたローマ帝国が犯罪者を罰するために用いた処刑方法の一種です。とても残酷な処刑の方法で、ローマの市民権を持っている者にはこの処刑の方法は適用されなかったようです。そして、特にこの十字架で処刑されたのはローマの植民地において、ローマ帝国に反旗を翻す活動をした者たち、つまり国家反逆罪と言う重大な犯罪を犯したと者たちだけに適用されたのです。イエスは彼に敵対するユダヤ人指導者たちの陰謀により、国家反逆罪を犯した罪人としてローマの法廷に訴えられ、十字架の刑罰を受けることになりました。
それではイエスの弟子となろうとする人にとって「自分の十字架を背負う」とはどう言う意味を持っているのでしょうか。日本でも江戸時代にキリスト教が激しい迫害を受けた歴史があります。長崎にはその際に禁じられたキリスト教を信仰した罪で処刑された人々を記念する遺跡が残されています。彼らもまたイエスを救い主と信じることで、当時の権力者から迫害され最後には処刑されると言う扱いを受けました。
この江戸時代の殉教者の話を以前に聞いたときに興味深かったのは、当時の権力者は民衆の間からキリスト教信仰を根絶やしにするために、逮捕した信徒たちを見せしめとして処刑しました。「キリスト教など信じていると、同じ目に遭うぞ」と脅かすために、逮捕された者たちはたくさんの村々を引き回されたと言うのです。しかし、不思議なことに最後に処刑された人の数は、最初に引き回しの行列が出発したときの数より多いのです。どうしてかと言えば、その行列を目撃した人々の中で次々と「自分もキリストを信じる者だから、この行列に加わりたい」と願い出る者が現われたからです。最後には悲惨な死が待っているこの行列に、自分から申し出て加わって言った人がいたこと、そしてもちろんその他の人々も「信仰を捨てるなら、今すぐ釈放する」と言う権力者たちの説得を受け入れることなく、処刑されていったのです。今の私たちには想像もつかない出来事がそこで起こっていたと言わざるを得ません。
もちろん、「自分の十字架を背負う」と言う言葉を、「あなたたちも殉教の死を遂げるように」と勧めていると短絡的に受け止めることは誤りです。むしろ現代の私たちは信仰者がその信仰の故に国家権力から迫害を受けることがないように、つまり新たな殉教者が生まれないように信教の自由を守る戦いを続ける責任を持っています。
しかし、それではイエスが語る「自分の十字架を背負う」と言う言葉は私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか。イエスはこの言葉の箇所と同じように「わたしの弟子ではありえない」と言う言葉をこの同じ聖書箇所の中で繰り返し使っています。その一つは「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(26節)。もう一つは最後のところで「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(33節)と語っているところです。私たちはこの二つの言葉を手がかりとして「自分の十字架を背負ってついて来なさい」と招かれるイエスの言葉の意味を考えてみたいと思います。
2.弟子が一番に愛するものは何か
(1)家族と自分を憎む
まず私たちがここで、たいへんに抵抗感を感じてしまう言葉は「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と言うイエスの言葉です。ここには家族、そして自分自身を「憎む」ことがイエスの弟子である条件だと言っているような言葉が記されています。この言葉をそのまま受け入れるなら、信仰者が家族を大切にすること、また自分自身を大切にすることは誤りであると言うことになります。
実はこの「憎む」と言う言葉にはギリシャ語で書かれた新約聖書の持つ、特別な問題があると考えることができるのです。ギリシャ語はローマの時代に広く様々な国々で用いられた当時の国際共通語です。新約聖書の記者たちは使徒たちやそれに続く、様々なキリスト者の熱心な伝道により、教会が様々な地域に建てられたときに、その地域に住む人々が理解できる言葉でイエスの生涯やその福音を知らせる必要がありました。そこで彼らが選んだのはギリシャ語という言語を用いて新約聖書を記すことでした。ところが、イエスが住んでいた地域で日常に用いられた言語はこのギリシャ語ではなく、ヘブライ語やその親戚のような言語であるアラム語と言う言葉だったのです。だから、新約聖書記者は、元々は違う言語で語られている言葉をギリシャ語に訳して説明したのです。
外国語を翻訳すると様々な面で問題が生じることを皆さんももしかしたら体験されたことがあるかもしれません。英語の言葉を日本語の言葉に翻訳すると、あまりにもはっきりとした物言いになってそのままではコミュニケーションに障害をもたらすことがあります。また、日本語独特の丁寧な表現を英語に翻訳することがともて難しいこともよく生じます。
実はヘブライ語には二つの事柄を比較する言葉が直接にはありません。ですから、その代わりに、反対の言葉を用いて、二つの事柄の内にどちらが大切かを表現することがあるのです。つまり、ギリシャ語では「憎む」と表現されている言葉は「愛する」と言う言葉の反対語ですから、「…より愛さない」と言う意味を持った言葉にヘブライ語ではなるのです。つまり、ここでは家族や自分を愛することよりも、弟子になるべき者がもっと愛さなければならないものがあること、大切にしなければならないことがあることを語っていると考えることができます。弟子にとって一番大切なのは彼らが従うべきイエス・キリストです。つまり、イエスの弟子となる者は、まずイエスを愛して、他の何者よりも優先して彼を大切にすべきだと言うことが教えられていると言うことになるのです。
(2)一切を捨てる
「憎む」と言う言葉の意味をこのように考えて、イエスの言葉を読むならば、次に語られる言葉の意味も自然と理解できると思います。「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(33節)と言う言葉です。ここでは「自分の持ち物を一切捨てる」と言うことがイエスの弟子となるべき者に要求されていると読むことができます。この言葉通りに中世の有名なキリスト者であったアッシジのフランシスコと言う人物は、個人的な所有を一切否定して貧しい修道生活に入りました。そしてこの言葉は今でも修道者の生活の根本原理のように考えられています。しかし、それならばイエスの弟子となるべきものは、すべて持ち物を一切捨てて修道生活に入る必要があるのでしょうか。
先の言葉でイエスを愛することが何よりも優先されることを学びました。ここでもその言葉の意味がそのまま適用できると思います。つまり、大切なのは「自分の一切の持ち物を捨てる」と言う行為自身ではなく、それらのものよりもイエスを愛すること、イエスを大切にすることが要求されていると言うことです。そしてもしイエスに従うことと、持ち物を捨てることのどちらか一つを選ぶように要求される場面になれば、弟子はイエスに従うことを選ぶこが大切であると教えているのです。
私たちの持ち物は確かに私たちの生活の中で私たちがよりよく生きることができる助けとなります。しかし、私たちが従うべきイエスはこれらのものが私たちに提供することができない、大切なものを与えてくださるのです。だからこそ、私たちは何よりもイエスを大切にし、愛し、彼に従うべきだと教えられているのです。
3.腰を据えて考える
(1)軽はずみな判断
ところでここでイエスはご自分の勧めを人々に理解させるために、二つのたとえ話を語っています。一つは塔を建てる人のたとえ、もう一つは別の国と軍隊を使って戦わなくてならなくなった王様のたとえです。塔や家を建てる人はまず、設計図に基づいて、どのような資材がその建設に必要であるかを考えます。そしてその資材を購入するためにどれだけの資金が必要かを考えるために見積書を作るのです。そしてその見積書に上った予算の資金を手に入れる目処が立ってはじめて建設工事が開始されるのです。しかし、その手順をおろそかにして、工事をスタートさせたならば、どうなるでしょうか、途中で資金が底をついて、工事中止と言うことになりかねません。
また、他国と戦わなければならなくなった国の王は、自分の国の戦力と相手の国の戦力を計算して、勝ち目があるときに戦いを仕掛けます。もし、それが不可能だと考えられるなら、たとえ不利な条件をのんだとして和睦の道を追い求めること必要があります。そうしなければ国は無益な犠牲を被り、さらに国が滅んでしまう危険があるからです。8月のは終戦記念日に合わせて太平洋戦争について考える番組がテレビで放映されていました。それらの番組を見ているとかつての日本の指導者たちは、このイエスのたとえに登場するような指導者ではなかったことが分かります。もし、当時の指導者が賢かったなら、日本でもアジアでもあれほどのたくさんの人々の命が失われると言う悲劇を少しでも食い止めることができたはずです。
この二つのたとえ話に共通して現われる言葉は「腰をすえて」(28節、31節)と言う言葉です。軽はずみな判断で行動すれば、目的を達せすることができないばかりか、むしろ大きな犠牲を払わなければなりません。だからまず「腰をすえて」よく考えなさいとイエスは言っているのです。
(2)決心を確かめる
ではどうしてイエスはこのたとえ話をこのとき語る必要を感じたのでしょうか。そこには確かに理由がありました。この最初の部分で「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた」(25節)と言う言葉が記されています。つまり、今日の箇所の言葉はイエスが特別に弟子として選んだ人々のために語られていると言うよりも、もっと広範な人に向けて語られていることが分かります。そこにはイエスの弟子となると言うことの意味も知らないし、さらには弟子となる覚悟など考えたことのない人々がいました。多くの人は「イエスの後についていけば何かいいことがあるだろうか」と言う好奇心に基づいて行動していたからです。確かに最初のきっかけはそれでいいのかもしれません。しかし、それだけではイエスに従う弟子の生活を生きることはできないのです。
この点については今日の教会に訪れる人も同じだと思います。それぞれ、教会にやって来たきっかけ、さらには信仰を求めるきっかけになったことは違うかもしれません。しかし、洗礼を受けて教会生活を始めるためには、何よりも教会生活が何を意味し、それがどんなに大切であるのかを正しく理解する必要があるのです。教会は洗礼を希望する人にそれらの事柄を理解させた上で、洗礼を受けて教会生活を始める決心があるかどうかを確かめなければなりません。
イエスの今日の言葉は現代で言えば洗礼準備や、洗礼のための試問会の内容と同じように、イエスに従う者の決心を確かめていると言ってよいのです。
4.引き返すことはできない
(1)イエスだけが提供できる救い
ところで今日のイエスの言葉は私たちに大変に厳しい決心を促しています。そしてこの言葉を聞いてもし、「私は自分の家族の方が大切です」、「自分の財産のほうが大切です」と言う結論を下して、イエスの前から離れて行くとしたら、それはいったいどのような意味を持っているのでしょうか。
第一にそう考える人はイエスが提供する救いが自分にとって絶対に必要であると言う事実を理解していないと言えます。自分が生きるために、必要なものを私たちは必死になって求め続けます。それなのに、ここでイエスの言葉に応えないとしたら、その人はその必要性を感じていないと言うことになります。
毎日テレビの放送でチリの炭鉱で起きた落盤事故の犠牲者のニュースが報道されています。地中700メートルのシェルターに閉じ込められた人々が、一日も早い救助を求めながらそこで生活しています。彼らを救い出す方法は一つだけです。地上から彼らを引き上げることができる穴を掘ることです。それ以外に地中から彼らを助けることができる方法はありません。
聖書は罪と死の絶望的運命に捕らえられているのが私たち人間の本当の姿であると教えています。しかし多くの人々はそれを気づいていません。私たちは自分ではどうにもならない絶望の暗闇に閉じ込められているのです。イエス・キリストはその暗闇の中に閉じ込められている私たちのために、脱出口を作ってくださった方です。それがイエスの十字架の死の意味です。そして、私たちが助かるためには、このイエスの提供する救いを受ける必要があるのです。
(2)私たちの決心を可能にする約束
イエスの招きを拒否する人々は自分の家族が、あるいは自分自身の力や財産が自分を救い出せると思っています。しかし、それはこの問題を解決するためには何の役にも立ちません。つまり、私たちは「十字架を本当に自分で背負いきれるだろうか」と言う疑問を持っていたとしても、イエスに従わない限り何の希望も無いのです。
しかし、私たちはこの厳しい招きの言葉と同時にもう一つのイエスの私たちに対する招きの言葉を覚える必要があります。イエスは私たちに語ります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイによる福音書11章28〜30節)。イエスは私たちに「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いから」と約束されています。軛は農作業をさせるために二頭の牛をつなぐもために用いられたものです。つまり、私たちとイエスが一緒になって荷を負うと言うことをこの言葉は意味しています。だから私たちが自分の十字架を負ってイエスに従う決心をするとき、イエスは私たちと共にその十字架を背負ってくださるのです。私たちはこのイエスの力を信頼して、イエスの招きに答えることができることを忘れてはならないのです。
【祈祷】
天の父なる神さま
私たちに救い主イエス・キリストを遣わし、その弟子として生きるよう招いてくださったことを感謝いたします。自分の十字架を背負ってイエスについて行こうと決心する私たちを、共に私たちとあゆんでくださるイエスが助けを与え、その決心を私たちが全うすることができるように助けてくださることを感謝します。どうか私たちにも迫害の中で希望を持って信仰を守り抜いた人々と同じように生きる力を、聖霊を通して与えてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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