1.難解なイエスのたとえ話
(1)一つの物語として読むのは難しい
私たちが今日、この礼拝で学ぶ「不正な管理人のたとえ」と呼ばれているお話は、おそらくイエスが語られたたとえ話の中で最も難解なお話であると言ってよいかもしれません。そこで多くの聖書学者や、説教家たちがこのたとえ話に対していろいろな解説をしています。しかし、どの説明も決定的にこれが正しいと言うものはなく、それがまた私たちを混乱させる原因となっているのです。
一部の聖書学者たちはこのイエスのたとえ話が難解になっている原因は、ここに収録されているイエスのお話は本来、一つのものとして語られたものではないためだと言っています。この箇所はイエスが「富」あるいはこの世の「財産」について別々に語られたお話が後になって一つとされたものだと考えるのです。つまり、このお話をイエスの語られた一つのお話と考えるから、その内容を理解するのが難しくなってしまうのだと言うのです。確かに、このイエスのお話を読むとどうも前後のつながりが不自然のような気がするのです。ざっとこのお話を読んで問題に感じる点を考えて見ましょう。
(2)ぬけ目のないやり方をほめる主人
たとえばこのたとえ話に登場する不正な管理人の態度です。彼は主人のお金を忠実に管理する勤めを与えられていたのに、そのお金を勝手に無駄遣いしてしまいます。そしてそのことが主人の耳に入ることとなり、彼は管理人の職を解かれる結果となります。彼はその職を失ってしまった後、自分はどうすべきかを懸命に考えます。ところが彼は自分の能力、さらには外聞を気にするため、新たな生活の糧を得る方法を見いだすことができません。そこで、彼は主人から言い渡された残務処理の作業のためのわずかな時間を利用して、主人に借金をしている人々を呼び集め、その証文の額を勝手に書き換えてしまうのです。これで借金を減額した相手に恩を売り、それによって今後の自分の身を振り方について有利な道を作ろうとしたのです。
この管理人の行動は正しさをどこまでも要求される神様の観点から言って非難されるべきものでしかありません。彼は自分の主人の財産を無駄遣いしたばかりではなく、その上でさらに主人の財産に損失を与えて自分に有利な立場を作りだそうとしたからです。
ところがこの管理人の行動によって莫大な損失を被ったであろう主人はこの管理人について「抜け目のないやり方をほめた」(8節)と言うのです。聖書には莫大な借金を許した王の話が登場します(マタイ18章21〜35節)。しかし、ここでは不正に不正を重ねて、自分の財産に穴を開けた管理人を主人はゆるすのではなく、「ほめて」いるのですからとても不思議なことになっています。
(3)不可解なイエスの勧め
さらにはこのお話の後に語られるイエスの勧めの言葉「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(9節)も簡単には理解できないものです。いったい「不正な富で友を作れ」と言う言葉は、私たちにどのようなことを教えているのでしょうか。
またこの後に続く主イエスの言葉では「忠実」と言う言葉が何度も繰り返されていますから、その言葉が大切なことが分かります。ところが「不正にまみれた富みについて忠実でなければ」(11節)と言う言葉は言った何を意味するのでしょうか。前後関係を通して読めばここは、不正な管理人が、さらに不正を行って友達を得たことを「忠実」と言っていることになります。しかし、この管理人のどこが「忠実」だと言うのでしょうか。彼の不正な態度は、主人に対して「不忠実」である証拠しか表わしていません。
そして最後に「神と富とに仕えることはできない」(13節)と言う言葉がありますが、このたとえに登場する不正な管理人はどこで神に仕えていたと言えるのでしょうか。彼にとって大切なのは「お金」であり、このお話のどこにも神様は登場しません。もし、このお話に登場する彼の主人が神様をたとえていると考えるなら、彼は忠実に神様に仕えていたとは言えません。
2.十字架とイエスのたとえ
このお話を理解するために、私たちはもう少し自分が見つめている視点を対象物から離して、もっと広い視野で考えることが大切かもしれません。そもそもこの16章の難解なたとえ話は、前回学んだ15章のたとえ話に続けてイエスによって語られていることが分かります。あの15章では徴税人や罪人と呼ばれる人がイエスと仲良くしているところをファリサイ派の人々や律法学者たちが目撃し、不平を言ったことから始まっていました(15章1〜3節)。そこでイエスのたとえ話は徴税人や罪人と呼ばれる、神様から離れて人生を歩んできたような人々が、神様の元に立ち返る姿を神様自身が喜んでおられることを教えています。そして神様はその喜びを得るために、どんな犠牲も惜しまないことを、またむしろよろこんでその犠牲を払おうとしていることを語っています。この神様の御心を理解できないファリサイ派の人々や律法学者たちは喜ぶべき出来事を喜べないでいたのです。
どうして福音書はこの部分でこんなお話を紹介しているのでしょうか。それはこのお話がイエスのエルサレムへの旅の途中に記されていることから理解することができます。イエスのエルサレムへの旅の目的、そこでイエスが十字架にかかって命を投げ出されると言う出来事はいったいどのような意味を持つのでしょうか。その答えをイエスはこれらのお話で説明されよとしているのです。どんな犠牲をかけても、失われた者を捜し出そうとする神様の熱意、それがイエスの十字架の上に実を結びます。ですから、このたとえ話の意味を本当に理解する者は、イエスの十字架の死を通して、神様の御旨が実現されたことを知ることができますのです。
そこでこの16章がイエスの口から続けて語られます。ところがその最初のところにこんな状況説明がつけられたています。「イエスは弟子たちにも次のように言われた」(1節)。この不正な管理人のたとえは、ファリサイ派や律法学者たちではなく、イエスに従ってエルサレムへの旅を続けている弟子たちに向けて語られています。ここでは語られる対象は違っています。しかし、このお話も弟子たちが続けているイエスのエルサレムへの旅の意味、そこでの十字架の死と言う出来事を教えているのです。その出来事が彼らイエスの弟子たちにとってどんなに大切なものであるかを伝えるためにイエスはこのたとえ話を語られたと言えるのです。
3.ファリサイ派の宗教観
この部分では「富」や財産が問題になっています。実はこの「富」の問題はこの16章全体と関係しているように思えます。14節には「金に執着するファリサイ派の人々」が登場しますし、その彼らに語られたと考えられる「金持ちとラザロ」のたとえ(19〜31節)でも、豊かさや貧しさと言う問題がお話の題材になっています。
ここにはファリサイ派を始めとする当時の宗教家たちがもっていた独特の宗教観が問題となっているように思えます。彼らの宗教観はある意味で非常に単純です。なぜなら、神に選ばれ、救いにあずかっている人はこの世でも豊かな祝福を得ていると彼らは考えていたからです。逆を言えば、病気や貧困、その他の様々な問題がある人たちに訪れるのは神の祝福から漏れている証拠だと考えたのです。彼らが徴税人や罪人と呼ばれる人々に同情的ではなく、軽蔑の目を向けた理由はここにありました。そこでこの世の祝福を追い求めること、自分の財産を豊かにすることは、彼らにとって自分の救いを確信することができる立派な宗教活動となったのです。ですから彼らが「金に執着する」原因の一つはこの宗教的な意味もあったと言えるのです。イエスはこのようなファリサイ派の人々の救いの理解について「否」を唱えました。ですから、イエスが「貧しい者」や「悲しむ者」が幸いであると教えたのは、このファリサイ派の人々の見解の誤りを指摘するためでもあったのです。そしてこの箇所の結論である「神と富とに仕えることはできない」も、当時の人々の誤った信仰理解に対する警告でもあったと考えることができるのです
4.緊迫した立場に置かれる主人公
(1)何が評価されているか
それではイエスはこの不正な管理人のたとえを弟子たちに語ることで、彼らに何を教えようとしたのでしょうか。先程も語りましたように、このお話はイエスのエルサレムへの旅に同行する弟子たちにとって大切なことが語られていると言って間違いなにでしょう。
この不正な管理人のお話の中でまず、注目すべき点は彼の置かれた緊迫した状況です。彼は勝手に自分の主人の財産を無駄遣いしてしまいました。そして第三者の告げ口によって彼の罪はいまやその主人の耳にまで入ることになり、その結果、彼は管理人という職を解雇されることになってしまったのです。彼にとって管理人と言う職を解雇されることは致命的なことでした、なぜなら彼自らが語っているように、彼のこれからの生計を支える手段を彼は何も持ち得ないからです。「どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい」(3節)。こんなことを言うこの管理人はまだどこかに余裕があるのではないか、人間どうにもならなくなったら、「力がない」とか「恥ずかしい」などと言ってはいられないと思われる方もいるかもしれません。しかし、聖書はこの管理人の言葉を通じてこの彼にはむしろ、この困難に対処すべき力も方法も残されていないことを語っているのです。そして、彼は自分が生き残るべき唯一の方法をついに見つけ出すことになります。
それは主人が「会計報告をしなさい」と言い渡して、彼に許したわずかな時間を使うことでした。彼が主人に対する借用証文を書き換えることができるのはこのわずかなときしかできません。そのわずかな時間を最大限に用いて、この管理人は自分の今後の生活に役に立つ立場を作ってしまったのです。つまり、このたとえ話の最も大切なことは、自分に与えたれた今のわずかな時間を、どのように有効に用いるかと言うことにあるのです。多くの説教者たちはここから、このたとえを神様の厳しい裁きの前に立たされる私たちの立場に適応しています。この裁きが下るまでのわずかな時間を私たちが最大限に用いて、今の自分にできることを見つけ出しこの裁きに備えることが大切であるとイエスは教えていると言うのです。
(2)自分を受け入れてくれるものを作れ
さてそうなるとイエスの「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(9節)と言う勧めは私たちにどんなことを教えているのでしょうか。ここでの「不正」と言う言葉は、神の国における「正義」の反対の言葉と考えることができます。つまり正義によって成り立っている神の国に対して、今のこの世を支配するものはすべて「不正」なものと呼んで良いのです。なぜなら、この世の正義も結局は神様のためになされない限り、正しくはないと言えるからです。そこでこの「不正にまみれた富」とは「この世の富」、私たちが今、この地上で与えられているものすべてを語っていると考えることもできるのです。そうなると「この世の富」とは私たちの財産だけではなく、すべてに持ち物、また私たちの命のときをも意味していると考えることができます。つまり、このイエスの勧めは結局、私たちのこの世における生を、地上の営みだけに使い果たしてしまうのではなく、永遠の営み、神の国に生きることを目的として使う必要があると教えていると考えることができます。だから私たちはそのために私たちを受け入れてくれる「友」を作る必要があるのです。つまり私たちは神様との親しい関係を回復し、神様を自分の「友」としなければならないのです。そのために私たちに必要なことはイエスの十字架です。私たちはイエスのこの十字架の贖いを通してだけ神様との関係を回復することができるからです。
(3)神様の裁きの前に今日を忠実に生きる
「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」(11節)と語るイエスは、私たちが今生きているこの地上で神に忠実に生きることが大切であると繰り返して教えています。宗教改革者マルティン・ルターが語ったと言われる言葉の中で「たとえ、明日、この世の最後のときがやってき来るとしても、私は今日はりんごの木を植える」と言う言葉があります。明日、この世の最後の日がやってきたら、今日のんきにリンゴの木など植えるなど意味がないと思う人がいると思います。しかし、この言葉はそんな「のんき」なことを語っているのではありません。むしろこの言葉は今日のイエスの言葉が何度も強調する「忠実さ」と言うことを教えているのです。
神様は私たちそれぞれが自分に今日与えられている時間を使って、自分にできる業を忠実に果たすことを求めおられるのです。そして私たちは終わりの日に神様がやって来て、私たちの業を公正に裁いてくださることを信じて生きているのです。もちろん、そのときに私たちのこれらの小さな業が神様に受け入れられる証拠はイエス・キリストの十字架の死にしかありません。その意味で私たちのこの世での神様への忠実な生き方を支えるのは、このイエスの十字架以外にないと言えるのです。私たちはこのたとえ話を通してそのことをもう一度覚えたいと思います。
【祈祷】
天の父なる神様。
自らの犯した罪の故に私たち人間は危機的な状況に立たされています。しかし、あなたはそのような私たちに主イエスを遣わして、その十字架の贖いを通して私たちが神様を友とすることができる道を開いてくださいました。どうか私たちが今与えられている命の時間を十分に用いることができるようにしてください。私たちが永遠のみ国での祝福を覚えつつ、今日与えられた業に忠実になることができるように助けてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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