1.信仰が足りない
(1)つまずかせるな
聖書学者の中で今日の聖書箇所はイエスが別々のときに、別々の場所で語られたいくつかの伝承が、福音記者ルカによって一つの物語に編集されたものと考えられています。たとえば、今日の最初に出てくる「使徒」と言う呼び名はここで突然登場し、このお話の前と後では彼らは「弟子」と言う呼び名で語られています。この点に関してある人は福音記者が編集作業で見落としたもとの文章の言葉がそのまま残っているのではないかと言っています。
ただ、私たちはそのような説が有力であったとしても、わざわざ元は別々のお話であったものをここに一つにして編集した福音記者の意図に従って、この部分のお話を考えることも大切だと思っています。なぜならそのように考えると、今日の最初の部分で弟子たちがイエスに願った「わたしどもの信仰を増してください」と言う言葉の意味をよく理解することができるからです。
皆さんはご自分の信仰についてどんなことを普段感じられているでしょうか。よく多くの人から聞く言葉は「私の信仰は強くありません」とか、「まだまだ未熟な信仰です」というものです。むしろ「私の信仰はすばらしいものです」とか「非の打ち所がないほど完成した信仰です」と語る人にはほとんど巡り会ったことはありません。そう考えると私たちのほとんどの人が、この弟子たちと同じように「わたしの信仰を増やしてください」、「強くしてください」と願っていることになるのかもしれません。
それではここで使徒たちはどうして「わたしどもの信仰を増してください」とイエスに願う必要があったのでしょうか。実はこの弟子たちの言葉の前に、次のようなイエスの言葉が記されているのです。
「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(3〜4節)。
ここには「兄弟の犯した罪を赦せ」と言うイエスの語られた言葉が記されています。実はこの17章の最初のところからイエスは「つまずき」と言う問題を取り上げて論じているのです(1節)。しかし、ここでの「つまずき」は私たちが日常で考える他人に誤解を与え、その人の心を傷つけたと言ったような一般的行動を指すものではありません。ここでは明らかにその人が神様から離れて行ってしまうような原因を作ることが「つまずき」と言う言葉で論じられているのです。
ですからイエスはこのような「つまずき」が起こらないように、弟子たちに「兄弟の罪を赦しなさい」と教えられたのです。そのためここではその罪を単に見逃してやると言うのではなく、その人を「戒め」て、悔い改めに導けとイエスは語っています。それはその人が神様の元に戻ることができるようにするためだからです。
(2)七回赦せ
ところがイエスの教えの厳しさは「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と言うところにあります。一生懸命に戒めて、悔い改めに導いた人が、また同じ過ちを繰り返します。それでもその人がまた「悔い改めます」と言ったら、「あなたは赦してあげなさい」とイエスは教えられたのです。しかももし、その人が同じようなことを一日の内に「七回」繰り返しても、あなたは「七回」その人を赦してあげなさいと言われるのです。この「七回」と言う数は赦すことができる限界の数を表わしているのではありません。聖書において「七」は完全数を表わしていますから、むしろ「完全に赦してやりなさい」、「どこまでも赦してやりなさい」とイエスは弟子たちに教えたと言うことになるのです。
それではイエスはどうしてこんな厳しいことを弟子たちに求めたのでしょうか。それはイエスを遣わされた神様は人が自分の罪を悔い改めて、ご自分の元に帰ってくることをどこまでも求めておられる方だからです。このルカによる福音書はここの少し前の15章でイエスが語られた「失われた羊」、「無くした銀貨」、そして「放蕩息子」のたとえを取り上げています。このたとえ話はこの神様の御心を豊かに教えています。神様は失われた者が回復することを求めておられるのです。ですからその神様のために働き、福音を宣べ伝える使命を委ねられた弟子たちは、この神様の思いに従って行動する必要がどこまでも求められていたのです。だから、彼らとってたいへん厳しい教えがここでイエスの口から語られたと言う訳なのです。
このイエスの教えに対して弟子たちは「イエス様、そんなことはできません」とは言いませんでした。むしろ彼らはイエスのこの言葉に従いたいと思ったのです。そしてだからこそ彼らは「わたしどもの信仰を増してください」とイエスに願ったと言うのです。それは彼らが自分の力ではそのイエスの教えに従うことは困難だと考えたからです。どうしても自分の力では兄弟の罪を日に七回も赦すことはできないと彼らは考えたからなのです。
2.信仰とは何か
(1)小さな信仰でも
さて、ここでは分かってくるのは弟子たちがイエスの教えに従って生きようと願うとき、自分の信仰が足りないと感じていたことです。そして彼らはその自分の信仰を増やしてもらえれば、何とかその問題を解決できると考えていたと言うことです。機関車は普段は平地のようなところを走っているときには問題がないのですが、峠のような坂道を客車を引いて上ろうとするときに、別の機関車を更に連結してもらわなければなりません。なぜなら、そのままでは馬力が弱くて坂道を上ることができないからです。そうすると弟子たちはこのとき自分たちの信仰をこの機関車の馬力のようなものと思っていたとも推測することができます。
しかし、イエスの弟子たちに対する答えは、彼らの持っていたこの信仰についての考え方を覆すようなものでした。
「主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(6節)。
イエスはここで「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」と語られます。この「からし種」と言うのは一ミリか二ミリぐらいの大きさの種で、当時の人々の日常表現では「最も小さいもの」を示すときに用いられました。そんなからし種のような小さな信仰であっても、「この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」とイエスは言うのです。桑の木が自分で抜け出して海に根を下ろすなど常識ではありえないことです。ありえないこと、つまり小さな信仰があれば、「奇跡」のようなことが起こるとイエスは語られたのです。
(2)信仰は増やすようなものではない
もちろん誰も意味もないのに「桑の木を動かして、その根を海に移したい」などと考える人はいません。つまりイエスのこの言葉は「信仰があれば、あなたたちが不可能と考えていることも可能になる」と教えているのです。弟子たちが不可能だと考えたことも、「からし種一粒ほどの信仰」があれば可能であると言っているのです。
ここで最も重要なのは、イエスは「もし自分の信仰が足りなければ、それを増やせばよい」とは言っていないことです。つまり、イエスは信仰を機関車の馬力のようなものとは考えていないのです。
それではいったいイエスの考えた信仰とはどのようなものなのでしょうか。それについて私たちはイエスの語られた有名なぶどうの木のたとえから学ぶことができると思います。イエスはそのたとえ話の中で次のように私たちに教えているからです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネによる福音書15章5節)。そして「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(同7節)と。
イエスはここで私たちに「あなたがたが豊かに実を結ぶために、不可能と考えていることを可能とするためには、わたしにつながっていることが必要だ」と教えているのです。このイエスの言葉から考えるなら私たちの信仰とはこのイエスとのつながりを成り立たせるものと考えることができるのです。だから、信仰があれば「この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」とイエスは教えられたのです。なぜなら、それを可能とするものは私たちの持っている力、つまり馬力ではなく、私とつながってくださっているイエス様ご自身であるからです。
つまり信仰による力とはまさに私の力ではなく、私の人生の上にこのイエス様ご自身が働いてくださることなのです。
3.取るに足りない僕
(1)それは自分の功績ではない
信仰についてこのようなことを理解できれば、次に語られるイエスのたとえ話の意味も理解することができます。ここでは一生懸命に農作業に従事した僕が、家に帰って来ると今度はその主人のために食事の給仕をして働きます。そのようにして彼は主人のために懸命に働くのです。ところがこの僕はこんなに働いてもその主人から何かの報酬を期待することはできないとイエスは教えられます。むしろ彼は「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言う立場にあるとイエスは説明されているのです。そしてあなたたちも神様に対してそのように言いなさいとイエスはここで教えています。
どうしてこんなたとえ話がここに語られているのでしょうか。それは先程から私たちが考えているこの章の流れから理解することができます。弟子たちはイエスの言葉に従って、これからたいへんに困難なことをしなければなりません。つまり、人を赦すと言うことです。そこで彼らはやはり自分たちはイエスの弟子になのだから頑張らなければならないと考えました。そして自分の持っている力が足りなければ、その足りない信仰をイエス様に増やしてもらって、がんばってそれをしようと考えたのです。
人間は自分の力を使って特別なことをしたなら、その行為に対して当然の報酬を願い求めます。「こんな他の人にはできないようなことを一生懸命になってしたのだから、当然にそのことは評価されていいではないか」と考えるのです。ところがイエスはその行為は神様の評価の対象になり得ないとこのたとえ話で教えているのです。そしてあなたたちは、むしろ「しなければならないことをしただけです」と神様に言いなさいとイエスは教えられるのです。それはどうしてでしょうか。私たちが先程考えてように、私たちの信仰を通して実現する業とは、イエス様が私たちを通して実現してくださった業であり、私たち自身の業ではないからです。だから私たちの功績にはならないのです。自分がしたことではないことで、自分をほめてもらうおうと考えることはおかしな事なのです。
もし、私たちが神様から自分の行った業の功績を求めているとしたら、その人はその功績が自分の力で実現したのだと考えていることを表わしているとも言えるのです。
(2)わたしたちが「つまづく」ことがないために
先日、テレビで「エデンの東」と言う古いアメリカの映画が放送されていました。今まで何度も見た作品ですが、懐かしくてまた見てしまいました。そしてその中で、最初は兄の恋人、そしてやがて主人公の恋人になる女性が、主人公の父親に向かって語っていた台詞が心に残りました。主人公の父親は自分の子供たちを厳格な自分の教えに従って生きるようにと教育してきました。だからその教えに忠実な兄の方を愛し、主人公である弟の方を憎んだのです。劇の終わりの頃にこの主人公の恋人は父親に、「彼にあなたの愛を伝えてほしい」ととりなしています。その中で彼女はこの父親に「あなたはいままで罪を犯した彼を何度も赦してきました。でも彼を一度も愛そうとはしなかった。彼に必要なのはあなたの愛です」と語るのです。
たしかにこの父親は自らも従う厳格な教えに従って、主人公の犯した罪を赦し続けました。しかし、その赦しは彼の愛から生まれたものではなかったと言うのです。そして「あなたが彼に「愛している」と言ってくださらなければ、彼の一生はだめになってしまいます」と彼女は続けて語ったのです。
「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」。このイエスの教えを、もしかしたら「がんばって守れる」と言う人がいるかもしれません。しかし、どんなにがんばって、そしてがまんして人の罪を赦すことができても、そこに本当に愛は存在しているでしょうか。口では「赦します」と語りながら、私たちの心の中には怒りの炎が渦巻いていると言うことはないでしょうか。だからこそ、このイエスの教えを私たちは自分の力で守ることはやはりできないのです。私たちが信仰を通してイエス・キリストとつながり、そのイエスが私たちを通して働いてくださらなければ全く不可能な教えであると言えるのです。
イエスは「つまずき」を避けるためにここで「罪を赦せ」と言う教えを弟子たちに語りました。しかし、この教えこそ、無力な弟子たちを追い詰めるような厳しい教えであったのです。ところが、この教えはイエスを信じて生きる私たちに「つまずき」を与えるために、語られたものでは決してありません。なぜなら、私たちがこの教えに真摯に耳を傾けようとするとき、私たちにとってイエス・キリストが必要であることを知ることができるからです。自分の力に自惚れるものは、イエスの助けを必要とは感じず、神様から離れ本当に「つまずいて」しまいます。だから、このイエスの教えは私たちをその危険から守り、イエスとのしっかりとしたつながりへと私たちを戻すものとして大切な役目を持っているとも言えるのです。
【祈祷】
天の父なる神様。
あなたの語る厳しい命令に弟子たちは「わたしどもの信仰を増してください」と願いました。しかし、あなたはそんな彼らの誤解を指摘し、信仰をとして実現するものがどんなにすばらしいものであるかを教えてくださいました。なぜなら、私たちの信仰を通して主イエス・キリストご自身が御業を表わしてくださるからです。どうか、そのことを私たちが忘れことがないようにしてください。愛の無い私たちを愛で満たしてくださるあなたが、その愛を私たちを通して兄弟にも表わしくださいますように。そのために何よりも私たちがあなたにとどまり続けることができるように助けてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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