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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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神様は不正な裁判官のような方?

(2010.10.17)

聖書箇所:ルカによる福音書18章1〜8節

1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

1.気を落とす者への励まし

 今日はイエスの語られた「やもめと裁判官」のたとえから学びます。このお話は「不正な裁判官」のたとえとも呼ばれるお話です。このたとえ話の内容は比較的に分かりやすいお話になっています。しかしその反面このお話を私たちの信仰生活に適用するのにはかなりの難しさを感じるかもしれません。
 この聖書箇所の最初にはイエスがこのお話を語られた目的が記されています。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」(1節)。この部分を読むとイエスは私たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と言うことを教えていることが分かります。つまり「気を落として」落胆している信仰者を励ますためにイエスが語られたのがこのたとえ話だと言うのです。しかし、お話を実際に読んでみると、「気を落として」落胆している人を更に落ち込ませる、そんなことが語られているようにも思えます。なぜなら、一見するとこのお話は私たちに「あなたたちの信仰の忍耐は足りない、だからもっともっとがんばって祈り続け、神様の答えを導き出せるようにしなさい」と言っているように思えるからです。そうなると「気を落として」落胆している人はますます、私にはやっぱりできないと思ってしまう可能性があるのではないでしょうか。それはがんばることができないで苦しんでいる鬱病患者に「がんばりなさい」と励ました、更に落ち込ませてしまうのと同じです。そうなるとこのお話はそういう落ち込んでいる信仰者を励ますためではなく、むしろ「自分はやはり信仰の失格者だ」と言う烙印を押すことにもなりかねないのです。結論から言ってしまえば、ここに登場する不正な裁判官をそのまま私たちの神様だと考えてしまうなら、私たちはこのお話から「気を落として」落胆する者の励ましを受けることができないと思うのです。それでは、いったいイエスはこのお話を通して気落ちし落胆している信仰者をどのように励まそうとしているのでしょうか。本文を読みながらそのことについて考えて見ましょう。

2.不正な裁判官とやもめ
(1)不正な裁判官

「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた」(2〜3節)。

 このたとえ話には二人の人物が登場しています。一人は「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」です。「人を恐れない」と言うのは正義を貫く裁判官にとってときには必要となってくる大切なことでしょう。しかし、この裁判官の最大の欠点は「神を畏れない」と言うところにありました。外国ではその国に入国する際にその人の「宗教」を尋ねるところがあるそうです。日本では自分は「無宗教」だと思っている人が多いのですが、そんな国で「自分は無宗教です」と答えると入国を拒否されることがあると言うのです。なぜなら、信仰を持っていない人は、その人自身を裁く基準をどこにも持っていませんから、自分の考えが正しいかどうかの判断を自分自身がつけることになります。つまりそう言う人はモラルを持たない危険な人物だと判断されてしまうのです。
 「神を畏れない」と言うのはこの裁判官が、その裁判を行う際に基準とするのは自分自身の考えだけであって、それ以外に頼りとするものはないと言うことを意味しています。ですから、どんなにその裁判官の裁きが正しくないと人が訴えても、その裁判官は「私がそう判断したのだから。それでよい」と言えばそれで終わってしまう人物なのです。彼はそのように自己中心的な人物であり、おまけに「人を人とも思わない」、つまり困っている人を見ても少しも「かわいそう」などと言う同情心を持つことがない人物であったと言うのです。

(2)やもめの訴え

 そしてもう一方の登場人物「やもめ」は夫を失ってしまった未亡人のことを言っています。当時の社会は男性中心の社会でしたから、女性が一人で仕事に就いて生活をすると言うことはほとんど不可能でした。ですから、夫を失った女性はこの世では頼りにするものを持ち得ない社会的弱者と言っていい存在だったのです。そこで、旧約聖書はこの「やもめ」を信仰者の共同体はしっかりと守ってあげなければならないと教えました(申命記10章18節、詩編68篇6節)。ですから本来だったら裁判官もこの「やもめ」の願いに真っ先に耳を傾けなければならないはずだったのです。ところがこの裁判官は先程もいいましたように「神を畏れません」から、旧約聖書の教えも彼には全く通用しないのです。
 このやもめは「相手を裁いて、わたしを守ってください」と裁判官に申し出ています。夫を失ったやもめにとって最後のよりどころとなるのは、その夫が残した財産であると考えることができます。ですからこのやもめの訴えから想像できることは、その財産が誰か第三者に奪われようとしていたと言うことです。だから彼女は「自分から夫の残した財産を奪おうとしている人を裁いて、私を守ってほしい」と裁判官に願い出たと考えることができるのです。

3.やもめの武器

 ところが彼女の訴えを取り扱うかどうかを決める裁判官は先程から論じているように「神を畏れず人を人とも思わない」人物です。「神様がこう言っているから」とか、「聖書はこう教えています」と言う説得は彼には全く効果がありませんし、その裁判官が彼女に対する同情を抱く可能性も皆無でした。そしてこの裁判官はイエスが語るように「不正な裁判官」ですから、むしろすでにやもめが訴えようとした相手から「彼女の訴えを取り扱わないでほしい」と言われていくらかの金をもらっていた可能性もあります。そうなるとこのやもめには全く希望がないとも言えるのです。ところがイエスはこの女性に残されたものが一つだけあったことをこのたとえ話で語るのです。それは彼女がこの訴えをやめることなく、裁判官に叫び続けると言うことです。そして彼女がその通りにしたときに意外な反応がこの裁判官に起こったのです。

『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』(4〜5節)。

 なんと「神など畏れないし、人を人とも思わない」裁判官は自分の訴えを止めることがなく、叫び続けるやもめに恐れを抱きはじめたと言うのです。この裁判官が語っている「わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」と言う言葉は、原文の元々の意味はボクシングで相手のパンチを受けて目にあざを作ると言うような意味を持った言葉です。やもめが裁判官にこの言葉通りの暴力を振るうと言うのは考えにくいのですが、この言葉から裁判官はやもめの行動に物理的暴力を受けるのと同じように恐怖感を抱いたと言うことが分かります。
 ついに不正な裁判官は自分の訴えを諦めずに叫び続けるやもめに根負けした形で、その訴えを取り扱おうと言う決断をくだしているのです。つまり、このやもめは自分に唯一残された有効な武器である「叫び続ける」と言う行為を通して、裁判官から答えを導き出したと言うのです

4.私たちを気落ちさせること

 たとえ話の内容は以上の通りなのですが。ここでもう一度、私たちは自分たちの場合、どうして気落ちして祈りをやめるようなことになるのかについて少し考えて見たいのです。
  一生懸命に神様に祈りながら、その答えを神様が与えてくださらないと思えるときに私たちはどのような理由で落胆してしまうのでしょうか。問題の一番の原因は私たちが自分自身を見つめ出すときに始まるのです。そして私たちは神様の答えがなかなかやって来ない原因を次のように考えます。神様は私のようなつまらない存在の祈りを取り扱ってはくれないのだと…。だから神様は私の祈りを無視して、答えを与えてくださらないのだと考えてしまうのです。
 このとき私たちはまさに神様を不正な裁判官のように思ってしまっていると言えます。不正な裁判官は自分の利害に基づいてしか行動しません。ですから自分に利益をもたらす者の訴えに耳を傾け、そうでない人の訴えを無視しようとします。私たちは自分自身を見つめるときに、自分の存在が神様にとって何の役にもならない無益な存在であると考えてしまいます。そして気落ちして祈りをやめてしまうのです。
 しかし、だからこそ今日のたとえ話があるのではないかと言う人がいるかもしれません。確かに私たちは神様にとって何の役にも立たない無益な存在です。だから、そんな私たちの存在を神様がもう一度思い出してくれるように、この物語に登場するやもめのように神様に叫び続ける必要があると教えるのです。しかし、そこで私たちの心に浮かぶ疑問は、それで神様が私たちの祈りに本当に答えてくださる保証はどこにあるのかと言うことです。
 数年前に亡くなった私の父親の遺品の中に、父が生前に買い続けた宝くじの束がありました。そこにそうやって残されているのですから、それは当然当たりくじではなく、すべてはずれとなってしまったものです。父は宝くじがいつか当たることを夢見て、ずっと買い続けていたのだと思います。しかし、私は父が宝くじで大金を手にしたと言う話を今まで聞いたことがありません。そして残ったのは、はずれてしまった宝くじの束と、はかなく消えてしまった父の宝くじに託した夢でしかなかったのです。
 私はこのたとえ話を読んだときにどういうわけか、あの父の残していったはずれた宝くじの束を思い出しました。「いつか神様は聞いてくださるかもしれない」、そう考えて祈り続けても、もしかしたらそこに残されるのは、聞かれなかった私たちの祈りの束だけなのではないかと…。そう考えるととてもこのやもめと同じように祈り続けることは自分にはできないと思います。そしてやはり、私たちは気を落として祈ることを止めてしまうことになるのです。

5.祈りを通して与えられるもの

 それではこのように気を落として祈りをやめてしまうような私たちをイエスはこのお話を通してどのように励ましておられるのでしょうか。

「それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」(6〜7節)。

 このイエスの言葉から分かるのはやはり神様はこの不正な裁判官とは全く違う方なのです。イエスは神様が私たち「選ばれた者」、つまり救われた者の叫びを聞き、速やかに答えを与えてくださるとここで言ってくださっているのです。だから神様は決して、私たちを気落ちさせることはないと言うのです。なぜなら、神様は必ず私たちの祈りに答えてくださるからです。私たちの祈りを無視されることはないのです。

 神様は私たちのためにイエス・キリストを遣わし、その命に代えてまで私たちを求めておられる方です。だからその私たちの祈りを無視されることはないと言えるのです。つまり私たちをどのように神様は大切にしてくださるかを、私たちが知るためには自分自身を見つめるのではなく、イエス・キリストの十字架を見つめる必要があるのです。このイエス・キリストの十字架を通して私たちに対する神様の気持ちを知る者は決して気落ちすることはないと言えるのです。
イエスは続けて語られています。

 「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)。

 実はこのお話は単なる「祈り」についての薦めではなく、「人の子が来るとき」、つまりイエス・キリストが再臨されてこの世界のすべてを裁かれるときを待っている信仰者たちに対して、その心構えを教えている箇所だと言われています。それはこのイエスの結論の言葉と、ちょうどこのお話の直前に語られた「神の国」がどのように実現するかについてのお話(17章20〜37節)と関連づけてこのたとえ話を考えることができるからです。
 私たちの祈りへの最終的な答えは「人の子が来るとき」に与えられます。だからこそ私たちは気を落とすことなくその日を待ち続けなければならないのです。そして、イエスはその日のために私たちが信仰を持ち続けることを望まれているのです。しかし、その信仰を私たちは果たして持ち続けることができるのでしょうか。それは自分の力では困難です。イエスが私たちの信仰を守り続けてくださらなければその信仰を保つことは私たちには不可能なのです。そして祈りは、このイエスの守りを私たちがいただくためにあるものなのです。
 つまり、このお話は確かに私たち人間の側から見れば気落ちせず祈り続けることを教えているのですが、むしろイエスの側から見れば、私たちが気落ちせずに、信仰を持って「人の子が来られるとき」を待ち続けるために私たちの祈りを通してイエスが守ってくださることを教えているのです。
 祈る私たちにイエスはどんなときにも気を落ちしない力を与え、その信仰を守られるのです。そのような意味で祈りは私たちに与えられた神様からの贈り物なのです。そして私たちはこの祈りを通して、困難の中にありながらも、希望を持って「人の子が来られる」ときを待つ者とされるのです。


【祈祷】
天の父なる神様。
「落胆せずに祈り続けないさい」とあなたが言われるように、私たちは信仰生活の中で絶えず、迷い、落胆を繰り返す者であることを覚えます。叫び続ける私たちの声にあなたが耳を傾けてくださらないのだと思ってしまうような罪を犯します。しかし、あなたはそのような私たちを選び出し、イエスの十字架の犠牲を通して私たちを救い出してくださいました。そして、私たちを「人の子の来られるとき」まで導き、その信仰を守ってくださいます。私たちが日々のあなたへの祈りの中で、そのあなたの恵みを覚えることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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