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カルヴァン
キリスト教綱要
礼拝説教 桜井良一牧師
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神の愛と赦しに出会う時

(2010.10.31)

聖書箇所:ルカによる福音書19章1〜10節

1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

1.忘れ去られた存在

 以前、テレビドラマの主役がこんな台詞を言っていたことを思い出します。自分は子供のころ、友達とかくれんぼをしてよく遊んでいた。あるとき、鬼に見つからないようにと隠れていたら、いつまでたっても誰も自分を見つけてくれない。しばらくして、みんなはどうしたのかなと出て行って見ると、もう誰もそこにはいなかった。友達は隠れている自分のことを忘れて、皆、家に帰ってしまっていたのだ…と言うような話です。
 「かくれんぼ」では鬼に見つからないように隠れます。しかし、一方で隠れた子供は自分が、いつかは鬼に見つかることを待っているのです。それがかくれんぼと言う遊びの楽しみです。なのに必死になって隠れたはずの自分を、仲間たちはすっかり忘れてしまう。そして最後には自分一人だけが残される、それは本当に寂しく、またつらい体験だと言えるでしょう。
 私たちは大人になって、もはや「かくれんぼ」をして友達と楽しむと言うことは無いかも知れません。しかし、それでいながらも私たちは今でも誰かに自分の存在を気づいてほしいと願い、またそのために必死になって生きているのではないでしょうか。なぜなら私たちは自分が忘れられてしまうことを恐れているからです。だから自分の存在をいろいろなことをしてアピールしたいと願っているのです。私たちはもはや「かくれんぼ」して遊ぶことはありません。しかし、今も私たちは誰かに自分を見つけてほしいと願いつつ生きていると言っていいのではないでしょうか。
 今日の物語に登場するザアカイはそのような意味で誰かに自分を捜し出してほしかった人物と言えるのです。

2.イエスを見ようとしたザアカイ
(1)徴税人ザアカイ

 イエスと弟子たちの一行のエルサレムへ向けての最後の旅は、もうすぐ執着地点に近づこうとしていました。今日の物語の舞台はヨルダン川西岸にあった「世界最古の町」とも呼ばれるエリコです。エリコは木材や果実を産出する豊かな町であったと言われています。徴税人の頭ザアカイが「金持ち」であったのは、この町の豊かさにも関係があったのかもしれません。
 ザアカイは「徴税人」と言ってローマ帝国への税金を人々から徴収する下級役人の一人でした。税務署の職員は今でもあまり歓迎はされないかもしれませんが、この「徴税人」は特に当時のユダヤ人から憎しみの対象となっていました。たとえば、聖書には「皇帝に税金を納めることは、律法に適うことか」と言う議論が記されています(20章20〜26節)。ユダヤの人々にとってローマ帝国は自分たちから国を奪った侵略者たちです。ですからその侵略者に税金を納めると言うのは、国を愛する愛国者にとっては許し難い行為と考えられていたのです。徴税人は自らはユダヤ人でありながら、その侵略者のお先棒を担いでいる者たちと見なされていました。だから人々から特別に憎しみの対象となっていたのです。おまけに当時の徴税人はローマの国家権力を後ろ盾に、人々から「税金を徴収する」と言う理由で不当に金銭を要求して私服を肥やしていましたから、彼らに対する人々の感情は穏やかなものではなかったのです。
 興味深いことにザアカイの名前の本来の意味は「義なる人、正しい人」と言うものです。しかし、現実のザアカイはその名とは裏腹に悪行を行って人々を苦しめる存在であったと言えるのです。ですからザアカイの生き方はその名が本来示す場所から離れてしまって、あるべき居場所を見失ってしまった存在であったのです。そしてこの物語はザアカイがイエスに出会うことによって自分が居るべき本当の場所に回復されたことを語っているのです。

(2)困難を通して準備された出会いの場所

 さてこのザアカイは徴税人の頭で、金持ちであったと言われています(1節)。つまり何不自由のない生活を営むことができる財力を彼は持ち合わせていたのです。そしてこの聖書の物語を読む限りではザアカイがそんな自分の生活に不満のようなものを感じていたと言った内容は何一つ語られていません。しかし、聖書を読んでわかることはザアカイがエリコの町に入られたイエスの噂を聞き、彼を一目見てみたいという強い願望にとらわれたと言うことです(3節)。彼は人一倍に好奇心が強かったのでしょうか。あるいは、イエスの弟子の一人マタイは、かつては彼と同じように徴税人であったはずですから、そのマタイを自分の弟子にしたイエスに特別の興味を持っていたのかもしれません。しかしいずれにしてもザアカイの強い願望はどこから生まれてきたかについては聖書は何も語っていません。
 ただ聖書を読むとわかることは、ザアカイは困難にぶつかると、諦めてしまうのではなく、かえって闘志を燃やして、その困難を何とか克服しようと考え、行動する人物であったように見えるのです。

「(ザアカイは)イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである」(3〜4節)。

 ここにはザアカイの身体的特徴の一つが記されています。彼は普通の人よりも「背が低かった」のです。だから群衆に遮られてイエスを見ることができなかったと言うのです。しかし、たとえ背が低くても人々が彼のために場所を開けてくれたなら、彼は容易にイエスを見ることができたはずです。しかし、ザアカイが別の方法を選ばなくてはならなかったのは、人々がザアカイにその場所を提供することを許さなかったことを暗示しています。人々にとって徴税人の頭ザアカイは決して許すことのできない存在、できればいなくなってしまったほうがよいと思われていた存在だったのです。つまり、ザアカイの存在は人々の間では無視され、居場所を失っていたことがここから分かるのです。
 そこで彼は先回りし、いちじく桑の木に登りイエスがそこを通り過ぎるのを待ちました。そして聖書はこのいちじく桑の木こそ、イエスとザアカイが出会う場所として準備されていたところであったことを語っています。
 イエスとの出会いを願っている私たちにも様々困難な出来事がその人生に起こり、むしろイエスとの出会いを妨げているような思われるときがあります。しかし、ザアカイがその困難を通して、イエスとの出会いの場所に導かれたように、私たちの生活に起こる困難な出来事も私たちとイエスとの出会いを準備すべくして起こっていると言うことを私たちは覚えたいと思います。だからこそ私たちは困難な出来事に遭遇したときに、諦めてしまうのではなく、その向こうに恵みの主イエス・キリストとの出会いがあることを信じて、歩み続けたいのです。

3.ザアカイを探していたイエス

 このように先回りにしていちじく桑の木に上ったザアカイはその木の上から、イエスの姿を見たいと思ってじっと待っていたはずです。そうすればおそらく、イエスや弟子たちに気づかれることなく、彼はイエスを見たいと言う自分の願望を実現することできると考えたのです。しかし、ここでそのザアカイの予想に反した出来事が起こりました。

「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」」(5節)。

 イエスはザアカイが登るいちじく桑の木の下にさしかかると、上を見上げてザアカイに声をかけられたと言うのです。おそらくそこにはたくさんの群衆がイエスを取り囲んでいたはずです。しかし、イエスはその群衆の中でも、人々からもその存在を無視されていたザアカイに目をとめられ、声をかけられたのです。

イエスがなぜ、このときに一度も会ったことがないザアカイの名前を知っていたのかは不思議でなりません。しかしイエス自らが、別の聖書の箇所で羊飼いは自分の羊のことをよく知っていて、その名前を呼ぶと語っているところがあります(ヨハネ10章3節、14節)。ですからこの出来事はザアカイが最初からイエスの羊であったこと、神の救いのために選ばれていた者であったことを証明しているのかもしれません。しかも大変に興味深いのはここでイエスがザアカイに「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と語りかけた言葉です。この言葉は直訳すると「あなたの家に泊まらなければならない」、「泊まるはずになっている」と言う言葉になります。この言葉はイエスのこのときの行動が単なる気まぐれや、思いつきによって起こったことではなく、神様の計画に基づく必然的な出来事であったことを説明しているのです。

 つまり、この物語はザアカイの側から見れば、イエスが彼の住むエリコの町に通りかかったことを知った彼が、そのイエスの姿を見たいと思って行動した物語となっています。しかし、神様の計画に従うなら、イエスのエリコの町の通過は、この徴税人ザアカイとの出会いのためにどうしても必要だったと言うことになるのです。
 自分の存在の居場所を見失い、誰かに自分を見つけ出してもらいたいと考えていたザアカイを、ここでイエスはとうとう見つけ出してくださったのです。

4.イエスを通して明らかにされた神
(1)受け入れられた者の告白

 さてザアカイは慌てて木から下り、イエスを自分の家に迎え入れました。しかし、このイエスの姿を見て、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」(7節)と皆がつぶやいたと言うことも記されています。彼らにとってイエスとザアカイとの出会いは神様のみ旨、その計画にはまったくふさわしくないものと考えられたのです。なぜなら、彼らにとってザアカイの素行は神に選ばれるべき者であるとは決して思えなかったからです。しかし、ザアカイは人々の非難にも関わらず、イエスとの出会いを通して喜びにあふれながら、次のようにイエスに申し出ています。

「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)。

 この言葉は「彼は罪深い者だ」と言う人々の非難に対して、自分を取り繕うために語られたものではありません。なぜなら、この後半部で彼自らが「だれかから何かだまし取っていたら」と自分の犯した罪を告白しているところがあるからです。むしろ、彼はイエスとの出会いによって、自分がいままで多くの罪を犯してきたと言う事実を大胆に告白しているのです。このようにイエスとの出会いを経験する者は、自らの罪を隠す必要がなくなります。今まで私たちは、それを明らかにすれば自分の存在は危うくなる、人々から非難され、あるいは見捨てられてしまうと考えていました。だからその罪を認めることも、告白することもできなかったのです。しかし、イエスはありのままの私たちを受け入れ、その罪を許してくださる方です。だから私たちはイエスに自らの罪を告白することができるのです。

(2)アブラハムの祝福を受け継ぐ者

 そしてイエスはご自分とザアカイとの出会いについて次のような言葉を持って締めくくっています。

「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(9〜10節)。

 「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」とイエスは語ります。ザアカイは本来あるべきところから失われてしまった存在でした。しかし、神様はそのザアカイを見つけ出すために救い主イエス・キリストを遣わしてくださったのです。そして、この出来事はザアカイ一人の人生にだけ起こったとは聖書は言っていないのです。イエス・キリストと出会い、信仰に入れられた私たち一人一人の人生の上にも同じような出来事が起こったと教えているのです。私たちとイエスとの出会いは決して偶然のものではありません。神様の計画に従って、イエスが私たちを捜し出してくださったからこそ、私たちは今日、この礼拝の場所にたたされているのです。だからこそ、私たちもまた、このザアカイの喜びを共有している者でもあると言えるのです。
 「この人はアブラハムの子なのだから」とイエスはザアカイについて語っています。確かにユダヤ人であったザアカイはその血統をたどればアブラハムの子孫であったのかもしれません。しかし、この言葉はその血統を語ると言うよりは、ザアカイがアブラハムに神様が約束してくださった、その約束の相続人の一人であったことを語っているのではないでしょうか。ですからこのイエスの言葉によって、ザアカイとアブラハムとの関係が明確にされているのです。
 私たちもまた、イエスとの出会いを通して「アブラハムの子孫」とされています。そしてアブラハムに神様が約束された祝福を受け継ぐ者とされているのです。
 ある街角で物乞いの少年が町ゆく人々の姿を見ています。すると彼の前に見るからに裕福な身なりの紳士が立ち止まりました。少年はその紳士にもいつもしているように「わずかなものでもいいですから、何か恵んでいただけませんか」と語りかけました。ところがその紳士はそう語った少年の顔をまじまじと見つめ続けています。やがて紳士はその目から大粒の涙を流し始めたのです。その光景に驚く少年に紳士は口を開きます。「やっと見つけ出した。お前は確かに私の子供だ。私はおまえが幼かった頃に人さらいにさらわれてしまった後、ずっと探し続けてきたんだ。そして今日やっと見つけ出した。お前は確かに私の子供、私の財産はすべてお前のものだ」と。
 アブラハムに約束された祝福を神様は私たちに受け継がせるために、救い主イエス・キリストを遣わし、私たちを見つけてくださったのです。だから私たちはこのイエスとの出会いを通して、聖書の書かれた祝福のすべてを受け取る者とされていることを知ることができるのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
 自分のあるべき場所を見失い、誰かに自分を見つけ出してほしいと考えていた私たちを、あなたは主イエス・キリストを遣わして見つけ出してくださいました。そして、今や私たちを「アブラハムの子」としてアブラハムに約束された祝福のすべてを受け継ぐ者としてくださったことを感謝します。私たちもザアカイと同じにように喜びをもって、あなたに仕えることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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